変らない日常と変わりゆく認識 5
昼休み。クラスメイトは食堂に向かったり席をくっ付けてお弁当を食べたり、思い思いに過ごしている。僕は自身の机でお弁当を食べてから、教室を後にする。
向かう先は図書室。二階の隅、階段を登ってまっすぐ歩いた突き当りにある。普段から利用者はおらず、テスト期間中だけ真面目そうな生徒が利用している印象だ。
扉を開けると、閑散とした図書室。物寂しさすら感じるその場所が、僕の安息の場所だった。
「黒井君、いらっしゃい。」
貸し出し用の受付席から、僕を呼ぶ声がする。妓詠とはまた違う、おっとりとした優しい声だ。
受付にはこの高校で唯一、気兼ねなく話が出来る人が座っていた。
「こんにちは、先輩。」
僕はひとつ年上の先輩に、礼儀正しく頭を下げる。
「はい、こんにちは。」
星河紗代先輩は両手を合わせて、僕に笑いかける。年上だが可愛らしい人だ。五月に知り合って、すぐに親しくなった。昨日、僕の帰りが遅くなったのも、星河先輩に勉強を教えてもらっていたからだ。
「今日は何かお探しかな。それとも、この間お勧めした小説の感想でも話に来た?」
「残念ながら、まだ半分しか読んでいないんです。」
「あらそうなの。だったら、少しお茶に付き合ってくれないかな。生徒どころか、先生だって来ないものだから、退屈しているのよね。」
此処にある本には、ほとんど目を通したし。と、さらりと凄い事を言う先輩の提案に、僕は食い気味に頷いた。
「ぜひ、ご一緒させて頂きます。」
そう言うと、先輩はパァっと目を輝かせた。
「それじゃあ、準備しましょうか。そこのテーブルで良いわね。」
先輩が指差したのは、八人座れる程度の大きなテーブル。
室内には僕達意外には誰も居ないので、好きに使って良いのだろう。
知り合ってまだ一カ月程度だが、僕と星河先輩は何度かこの場所でお茶を共にした。先輩が淹れてくれる紅茶は、僕にとって唯一無二の存在になっていた。初めてのお茶会の後、その味が忘れられずに市販の物を何種も買ったこともあった。しかし、そのどれもが僕の求めていたものではなかった。
先輩が居なくなったら、僕はこの先の人生紅茶を口にしないだろう。大袈裟な言い方だが、間違いなく本心だった。
「黒井君は座っていて。私、お茶を淹れてくるわ。」
僕は促されるままに椅子に腰かける。
僕の背後では、先輩がパタパタと動き回っている。
「やっぱり、僕も手伝いましょうか。」
「いいのよ。貴方はゆっくりしていて頂戴ね。」
まるで世話焼きなお姉さんだ。年上なのだから、その通りかも。
お言葉に甘えて、座っている事にする。
先輩は手際よくテーブルシートを引き、カップを置く。お洒落なポットから飲み物を注いでくれる。
「いやぁ、図書室の隣に給湯室があると便利よね。紅茶で良かったかしら。」
「お気遣い痛み入ります。」
先輩は僕の隣に座り、カップを手に取る。
「ささ、温かいうちに頂きましょう。黒井君も、遠慮なくどうぞ。」
「はい。頂きます。」
湯気が立つカップを口に近づける。下を火傷しない様に恐る恐るひと口。
砂糖の甘みが無い、すっきりとした味が喉を通り抜ける。
「……っ。」
紅茶が胃に入って瞬間、腹部に激しい痛みを感じた。
喉の奥から焼ける様な痛みが広がる。目に涙が溜まり、思わずむせ返ってしまう。
「黒井君、大丈夫?」
先輩は心配そうに僕の顔を覗き込んで来る。
「大丈夫です。気管に入っちゃって。」
そう誤魔化して、胸の辺りを撫でる。僕の身体が、この飲み物を拒絶している。
毒物ならば倒れている頃だろうし、そもそも先輩が毒を仕込むとも思えない。紅茶の味にも違和感は無かった。であれば、水が違うのだろうか。
吸血鬼が苦手とするものは、ニンニクや十字架。それと聖水だ。
「先輩、ひとつ質問良いですか?」
「勿論良いわよ。ひとつと言わず、いくつでも。」
先輩はにこやかに答える。はにかんだ様な、可愛らしい笑顔。どうしてこんな人が、僕なんかと関りを持ってくれるのか。甚だ疑問である。
「この紅茶、普通の水道水じゃないですよね?」
僕がそう言うと、先輩の顔が一瞬強張った様に見えた。
「どうして、そう思ったのかな?」
先輩は分かり易く動揺している。そんな様子も、見ていて心が和む。
「何となく、味わいが違うなと、そう思ったんです。」
「そう……。そう、なのね。」
先輩は少し考える仕草を見せて、鞄から透明な小瓶を取り出す。
「これ、何か分かる?」
「……いえ。見当もつきません。」
何となく察しはついていたが、知らないふりをする。日本の一般女子高校生には、全くと言っていいほど馴染みの無い物だ。分からない方が自然だろう。
そんな僕の思惑を他所に、先輩は話を進める。
「これはね、聖水なの。清らかな雪溶け水を採取し、清潔な容器に入れて何日も掛けて祈りを捧げる。そうして水が神聖さを帯びてきたら小瓶に入れて完成。時間も掛かるし少量ずつしか用意できないから貴重なのよ。」
「そんな貴重な物を、紅茶に使って良かったんですか。」
「聖水を毎日身体に入れると、身体の中から邪悪さが消えていくのよ。とは言え、一日一滴だけしか使わないから数カ月は待つわね。」
紅茶に使ったのも、一滴だけ垂らしたようだ。一滴でこれだけ効いたのなら、その神聖さは本物だろう。小瓶ひとつ分の聖水を浴びたら、僕は死ぬのではないだろうか。
勝手に想像を膨らませて、密かに身震いした。




