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第9話

定食屋の戸締まりを終え、俺は二階の自室に戻ってベッドに横たわった。


だが、翌朝のベッドで目を覚ました時、奇妙な虚脱感が全身を重く覆っていた。


リオンを見逃し、過去の因縁に決着をつけたことで、俺の内に燻っていた最後の憎悪すら完全に消え去ったのだ。


あの日、決行前日に標的のメガロドン社がダンジョン事故で自滅したと知った時と同じだ。


十年前、両親が油まみれになって働いていた小さな町工場を奪われた日から、俺の時間は止まっていた。


肺が焼けるような瘴気の中で魔獣を狩り続けた孤独な日々。


そのすべてを懸けた生きる意味を無くし、途方に暮れたあの日の感覚が鮮明に蘇ってくる。


行き場を失った殺意は、完全に空っぽの空洞へと変わっていた。


天井の木目を見つめながら、俺はゆっくりと息を吐く。


復讐という強烈な原動力が消えた今、俺を動かすものは何なのか。


答えの出ない問いを抱えたまま、俺は重い身体を起こし、顔を洗ってから定食屋へと向かった。


◆ーーーー◆


昼時の定食屋は、連日大盛況だった。


「お客さん、空いたお皿下げますね!」


「おう、頼むぜ坊主! 今日も元気だな!」


孤児のトマが元気な声で店内を駆け回り、常連客たちが笑顔で応じている。


俺は不器用ながらも配膳や皿洗いを手伝い、忙しい時間を過ごしていた。


「ジン、三番テーブルに日替わり定食を二つお願い!」


「ああ、分かった」


アリスの明るい声に応じ、俺は出来立ての料理を運ぶ。


厨房からは、肉の焼ける香ばしい匂いと、アリスが包丁をリズミカルに動かす音が絶え間なく聞こえてくる。


客たちの笑い声が響き、温かい湯気が店内を満たしていた。


極限まで鍛え上げた最強の力は、皿洗いには全く役に立たない。力加減を間違えれば、すぐに皿が割れてしまうからだ。


それでも、この穏やかな空間に身を置いていると、空っぽだった胸の奥が少しずつ温もりで満たされていくのを感じる。


昼のピークが過ぎ、暖簾を下げた頃。


「お疲れ様。今日は特別に、一番自信のあるやつを作ったわ」


アリスが額の汗を拭いながら、調理台に二つの盆を置いた。


そこに並んでいたのは、普通の生姜焼き定食だった。


「……美味そうだ」


俺は席に座り、箸を手に取った。


一口食べる。豚肉の脂と甘辛いタレが絶妙に絡み合い、白い飯が無限に進む。


あの日、目標が消え、街を彷徨った末に初めてこの店で食べた味と同じだ。


温かさと美味さが五臓六腑に染み渡り、視界が不意に滲んだ。


ぽろりと、頬を伝うものがある。


「えっ、あんた、泣いてるの……?」


アリスが目を丸くして覗き込んでくる。


俺は無言で首を振り、袖で乱暴に目元を拭った。


復讐鬼として麻痺していた心に、確かな人間らしさが芽生え始めている証拠だった。


その時、店の入り口が乱暴に開け放たれた。


「おい、この店は随分と繁盛してるじゃねえか」


不躾な声と共に、柄の悪い探索者の三人組が店に入ってくる。


真昼間から酒の匂いを漂わせ、泥だらけのブーツで床を踏み荒らす。


先頭に立つ男は、空いている席の椅子を蹴り飛ばした。


「用心棒代を払えば、俺たちが守ってやるぜ。どうだ?」


地元のチンピラ探索者による、古典的な嫌がらせだ。


アリスが顔を強張らせ、トマが怯えたように俺の背後に隠れる。


俺は箸を置き、ゆっくりと立ち上がった。


「……食事の時間は絶対に邪魔させない」


男の一人が鼻で笑い、腰の剣に手をかけた。


「あぁ? なんだお前、痛い目見ないと分からねえか——」


その言葉が終わる前に、俺は間合いを詰め、男の鳩尾に拳を沈めた。


ただの一撃。男は白目を剥いて崩れ落ちる。


残る二人が腰の剣を引き抜くより早く、俺はさらに一歩を踏み込んだ。


瞬きする間に首根っこを掴み、店の外へ放り投げた。


地面に叩きつけられた男たちは、悲鳴を上げて逃げ去っていく。


明日もあの味を楽しむためなら、どんな手合いだろうと叩き潰す。


新たな信念を胸に、俺は改めてこの店の用心棒としての立場を自覚した。


「怪我はないか、アリス」


「ええ、大丈夫よ。いつも助けてくれて、恩に着るわ」


アリスはほっとしたように息を吐き、倒れた椅子を直した。


◆ーーーー◆


夜。営業が終わり、店内に静寂が戻る。


アリスが片付けをしながら、ふと小さな瓶を持ち上げた。


「……もう、これだけになっちゃったわ」


それは、彼女が料理の隠し味に使っている、亡き父の形見の調味料だった。


瓶の底に、わずかな粉末が残っているだけだ。


「仕入れることはできないのか」


俺が尋ねると、彼女は寂しそうに首を振った。


「お父さんがどこで採ってきたのか、分からないのよ。市場でも見たことがないし」


食材を粗末に扱うことは絶対に許さない彼女が、これほど大切にしているものだ。


「これがないと、あの味が出せないの。お父さんが残してくれた、大切な味なのに……」


俺は少し寂しそうな彼女の横顔を見て、口を開いた。


「俺が、代わりに見つけてくる」


「えっ? でも、どこにあるか分からないのよ?」


「心当たりを探ってみる。任せておけ」


恩人の居場所を脅かす不安要素は、俺が全て取り除く。


俺の言葉に、アリスは少しだけ目を潤ませて頷いた。


◆ーーーー◆


翌朝、俺はギルドへ足を運んだ。


受付嬢のセリアに、調味料の特徴と香りを伝える。


彼女はきっちりとした制服の袖をまくり、丸眼鏡の奥で目を丸くした。


「……あんた、これ、ただの香辛料じゃありませんよ」


セリアの声が微かに震えている。


分厚い資料をめくり、あるページを指差した。


「ダンジョン深層でしか採取できない、特殊な魔力植物の可能性が高いです。浅層には絶対に生えていません」


深層。かつて俺が、復讐のために覇者を狩り尽くした領域だ。


「最近、深層の生態系がおかしいという報告も上がっています。覇者が不在になった影響で、環境が激変しているんです。そんな場所に潜るなんて……」


「そうか。なら、潜る準備をするだけだ」


俺が淡々と答えると、セリアは頭を抱えた。


「ちょっと待ってください! 深層ですよ!? いくらあんたでも、調味料のために行く場所じゃ……」


「手加減は無用だ。必要なものなら、獲ってくる」


俺は迷いなく踵を返した。


アリスのために、再び深層へ挑む。


新たな探索の準備を始める俺の足取りは、かつてないほど軽かった。


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