第8話
バルザックの一件から数日が過ぎ、定食屋には再び平穏な空気が流れていた。
俺は調理台の前の席で、食後の茶をすすっていた。
湯気が細く立ち上り、鼻腔をくすぐる。
穏やかな昼下がりだ。
客足が一段落し、アリスが厨房の奥で鍋を洗う音が心地よく響いている。
外からは、街を行き交う人々のざわめきや、荷馬車が石畳を叩く音が遠く聞こえてくる。
復讐に明け暮れていた頃には決して気づかなかった、ありふれた日常の音だ。
そこに、慌ただしい足音が近づいてきた。
引き戸が勢いよく開き、一人の青年が転がり込むように入ってくる。
目の下に濃いクマを作り、くたびれた安物のスーツを着た男だ。
肩で息をしながら、店内をぎょろぎょろと見回している。
まるで何かに追われているかのような、切羽詰まった表情だった。
「あの、一番安いものを……早く!」
青年は空いている席に座るなり、声を張り上げた。
アリスが驚いて顔を出し、すぐに手早く賄い用の汁物とご飯をよそって出す。
青年は箸を使うことも忘れ、一心不乱に器に口をつけて掻き込んだ。
まるで何日も食事をとっていない獣のような食べ方だった。
喉を鳴らし、むせ返りそうになりながらも、決して食べる手を止めない。
あっという間に器を空にすると、青年はふらりと立ち上がった。
そして、アリスの方を見ずに、そのまま店外へ駆け出そうとする。
無銭飲食だ。
俺は静かに立ち上がり、青年の襟首を掴んで引き留めた。
軽い。
極限まで鍛え抜いた俺の腕力なら、指一本で持ち上げられそうなほどだ。
青年はもがき、俺の手から逃れようとするが、当然びくともしない。
「おっと、食い逃げは感心しないな」
青年は床にへたり込み、ガタガタと震えながら土下座した。
「申し訳ありません! ずっと何も食べていなくて……お金がないんです」
床に額を擦りつけ、情けない声で命乞いをする。
アリスが心配そうに厨房から出てきた。
彼女は怒るどころか、青年のやつれた顔を見て眉を下げる。
「あなた、大丈夫? 事情があるなら話してみて」
青年は顔を上げ、涙目でアリスを見た。
彼はリオンと名乗った。
「僕、少し前までメガロドン社で働いていたんです。でも、会社が突然潰れてしまって……路頭に迷って……」
メガロドン社。
その名を聞いた瞬間、俺は無意識にリオンの襟首を掴む手に力を込めた。
十年間。
俺はあの会社への復讐だけを生きる意味にしてきた。
両親の工場を騙し取り、過労死へと追い込んだ悪徳企業。
奴らを皆殺しにするためだけに、命がけでダンジョンに潜り続けた。
血を吐き、骨を折り、それでも立ち上がり、深層の覇者すら瞬殺できる最強の力を手に入れたのだ。
だが決行前日、標的の会社はダンジョン事故で全壊した。
俺は十年の努力の矛先を絶たれ、生きる意味を見失って途方に暮れた。
行き場のない殺意だけが、空っぽの身体に取り残されていた。
目の前にいるリオンは、憎き標的の残党だ。
一瞬、俺の指先に冷たい殺意がよぎる。
こいつの首をへし折れば、ほんの少しでも過去の怒りが晴れるだろうか。
両親の無念を、少しでも晴らすことができるだろうか。
いや、違う。
リオンの怯えた目を見て、俺は静かに息を吐いた。
こいつは末端の平社員に過ぎない。
悪事に加担するほどの権力も、狡猾さも持ち合わせていない小市民だ。
ボロボロと泣き崩れる惨めな姿に、かつての憎悪をぶつける気にはなれなかった。
「……もういい。座れ」
俺は襟首から手を離し、椅子を引いた。
リオンはビクビクしながら腰を下ろす。
アリスが小さくため息をつき、厨房に戻った。
すぐに肉を焼く香ばしい匂いが漂ってくる。
彼女は温かい生姜焼き定食を盆に乗せ、リオンの前に置いた。
「お腹が空いているんでしょ。これ、食べて」
「でも、お金が……」
「出世払いってことでいいわよ。食材を粗末に扱うことは絶対に許さないけど、お腹を空かせている人を追い出すのも私の性に合わないから」
アリスはふわりと柔らかな笑顔を見せた。
リオンは震える手で箸を持ち、肉を口に運ぶ。
一口噛み締めた途端、彼の大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「美味しい……温かい……」
嗚咽を漏らしながら、リオンは生姜焼きを頬張る。
その姿は、少し前の俺と同じだった。
生きる意味を見失って街を彷徨っていた俺は、ふとこの寂れた店に入った。
そして、アリスの作った普通の生姜焼き定食を食べたのだ。
あの時の温かさと美味さに、俺も涙を流した。
復讐鬼として凍りついていた心に、人間らしさが芽生え始めた瞬間だった。
俺はリオンの背中に、かつての自分を重ねていた。
絶望の底で温かい飯に救われる感覚。
それは、言葉では言い表せないほど深く心に染み渡るものだ。
◆ーーーー◆
「おいおい、こんなボロい店に逃げ込んでたのかよ、リオン」
不意に、乱暴な足音とともに数人の男たちが店に入ってきた。
革鎧を着込み、腰に剣を下げた地元のチンピラ探索者たちだ。
彼らの体からは、安酒と血の生臭い匂いが漂っている。
リオンが悲鳴を上げ、椅子の陰に縮こまった。
「ひぃっ……!」
「会社が潰れて借金踏み倒そうなんて、いい度胸じゃねえか。金がないなら、内臓でも売ってもらうぜ」
チンピラの一人が下卑た笑いを浮かべ、店の中を見回す。
そして、アリスに目を留めた。
「おっ、ここの女将、なかなか上玉じゃねえか。リオンの借金の代わりに、こいつを売り飛ばすか?」
男が汚い手を伸ばし、アリスの肩を掴もうとする。
アリスの顔が恐怖で強張った。
俺は無言で立ち上がり、男の手首を掴んだ。
軽く捻り上げる。
「ぐああっ!」
骨が軋む嫌な音が響き、男が膝から崩れ落ちた。
「な、なんだてめえ!」
他のチンピラたちが一斉に武器に手をかける。
俺は淡々とした声で告げた。
「食事の時間は絶対に邪魔させない」
俺は男の手首を放し、踏み込んだ。
視界がスローモーションのように遅くなる。
深層の覇者の動きに比べれば、こいつらの反応は止まっているも同然だ。
剣を抜こうとした男の鳩尾に、軽く拳を沈める。
それだけで男は白目を剥き、くの字に折れ曲がって吹き飛んだ。
壁に激突し、動かなくなる。
「ひっ……バケモノかよ!」
残りの男たちが怯え、後ずさる。
俺は一歩距離を詰め、彼らの首根っこを掴んで店外へ放り投げた。
地面に叩きつけられた男たちは、呻き声を上げて気絶する。
俺は拳を軽く払い、短く息を吐いた。
この圧倒的な力は、本来なら復讐のために身につけたものだ。
だが今は違う。
この美味しいご飯を明日も食うため。
俺の居場所を脅かす者は、容赦しない。
その新たな信念が、俺の行動を支えていた。
騒動が収まり、店内には静寂が戻った。
リオンは目を見開き、信じられないものを見るように俺を見上げている。
「す、すごい……」
「怪我はないか、アリス」
俺が振り返ると、アリスはほっとしたように胸を撫下ろした。
「ええ、大丈夫よ。いつも助けてくれてありがとう」
リオンが立ち上がり、俺とアリスに向かって深く頭を下げた。
「恩に着ます。命と胃袋を救っていただいたご恩は、一生忘れません。僕、必ず働き口を見つけて、いつか必ず恩返しをします」
彼の声には、先ほどまでの卑屈さは消え、確かな意志が宿っていた。
リオンは涙を拭い、前を向いて店を去っていく。
その背中を見送りながら、俺は自分の内側を見つめた。
かつての復讐相手の社員を前にしても、俺の心は驚くほど穏やかだった。
怒りも、憎しみも湧かなかった。
過去への執着は確実に薄れ、今の居場所を大切に思えている。
「お疲れ様。お茶、淹れ直すわね」
アリスが割れた食器を片付けながら、微笑みかけてくる。
「ああ、頼む」
俺は再び席に座り、新しく淹れられた茶を受け取った。
温かい湯気が、俺の心を穏やかに満たしていく。
過去を乗り越えた俺は、これからもこの温かい場所を守り抜く。
静かな決意が、胸の奥で確かに根を張っていた。




