第10話
ギルドを出た俺は、装備のメンテナンスを頼むため、裏通りにあるドーラの工房へ向かった。
空には厚い雲が立ち込め、冷たい風が頬を撫でていく。
街の喧騒は遠く、裏通りには湿った土の匂いが漂っていた。
深層へ潜るとなれば、装備の入念な点検は欠かせない。
かつて復讐のために潜っていた頃は、装備の損耗など気にも留めなかったが、今は違う。
必ず生きて帰り、あの定食屋で温かい飯を食うという明確な理由があるからだ。
工房の重い木扉を押し開けると、むっとするような熱気と、金属を打ち据える甲高い音が押し寄せてきた。
壁には無数の武器や防具が所狭しと掛けられ、炉の炎が赤々と燃え盛っている。
「邪魔するぞ」
俺が声をかけると、火の粉の向こうでハンマーを振るっていた赤髪の職人が手を止めた。
「おう、誰かと思えば上得意様じゃないか」
煤で顔を汚したドーラが、額の汗を拭いながら振り返る。
俺は背負っていた手持ちの防具と、予備の短剣を木箱の上に置いた。
「軽いメンテナンスを頼みたい。少し遠出する」
「遠出ねえ。あんたの言う遠出ってのは、どうせまたろくでもない場所なんだろ?」
ドーラは防具の継ぎ目を指先でなぞりながら、呆れたようにため息をついた。
「あんたの防具、素材は一級品だが、手入れが雑すぎるんだよ。いくら避けるのが上手くても、万が一ってことがあるだろうが」
「気をつける」
「口だけだね、まったく。で、どこへ行くんだ?」
「深層だ。少し探し物がある」
ドーラの動きがピタリと止まった。
「……はあ?」
彼女は目を丸くし、それから大げさに頭を抱えた。
「あんた、正気かい。深層なんて、人類が数えるほどしか到達してない死と絶望の領域じゃないか。何を探しに行くってんだよ」
「調味料だ」
「……調味料?」
「アリスの店で使っている香辛料が、深層の魔力植物らしい。それが切れかけている」
ドーラはしばらく口を開けたまま固まり、やがて盛大に吹き出した。
「あっははは! たかが調味料のために深層へ行くって!? あんた、いくらなんでも過保護すぎないか!」
「俺にとっては重要な問題だ。あの味が変わるのは困る」
俺が淡々と答えると、ドーラは涙を拭いながら防具を手に取った。
「はいはい、分かったよ。あんたの無茶には慣れてる。だが……なんでそこまであの小さな定食屋に肩入れするんだ?」
その問いに、俺は少しだけ目を伏せた。
なぜ、あそこまで執着するのか。
答えは明白だった。
あの日、俺は冷たい雨に打たれながら、路上で新聞紙を握りしめていた。
『メガロドン社、ダンジョン事故により本社全壊。幹部多数死亡、事実上の倒産へ』
雨水で滲む活字が、俺の十年間を嘲笑っているように見えた。
両親の工場を騙し取り、過労死に追いやった連中の顔を思い浮かべ、俺は新聞紙を強く握り潰した。
そいつらに復讐するためだけに、俺は泥水をすすり、血を吐きながら、深層の覇者すら瞬殺できる力を手に入れた。
だが、そのすべてが、相手の自滅という形で突然終わりを告げたのだ。
行き場を失った殺意が胸の中で暴れ回り、俺は路地裏のコンクリートの壁を素手で粉砕した。
生きる意味を見失い、途方に暮れた俺は、まるで亡霊のように宛てもなく街を彷徨った。
どれくらい歩いたのか。
雨が上がり、夕暮れの光が水たまりに反射する頃。
ふと漂ってきた醤油と肉の焼ける匂いに誘われ、俺は寂れた定食屋に入った。
そこでアリスが出してくれた、普通の生姜焼き定食。
湯気を立てる肉を口に運んだ瞬間、胃の奥が熱くなった。
美味い。ただそれだけの感情が、冷え切っていた心を溶かしていく。
気づけば、俺の頬を涙が伝っていた。
復讐鬼として麻痺していた心に、人間らしさが芽生えた瞬間だった。
そして、その数日後。
店内で暴れるチンピラ探索者の首根っこを掴み、俺は床に叩きつけていた。
『この温かい飯を明日も味わうため』。
その新たな信念が芽生えた時、俺は過去の呪縛から完全に解放された。
恩人の居場所を守るため、俺はこの店の用心棒になったのだ。
「……恩人の居場所を守るためだ」
俺が静かに答えると、ドーラは小さく息を吐いた。
「あっそ。まあ、アタシはあんたの無茶振りに付き合うだけさ。一時間ほど待ってな」
「助かる」
俺は工房の隅にある丸椅子に腰を下ろし、静かに目を閉じた。
◆ーーーー◆
同じ頃。
街の裏路地に、黒い外套で身を包んだ痩身の男が立っていた。
男の名はザイード。
全身に無数の傷跡を持つ彼は、好戦的な目を細め、通りを挟んだ向かいにある小さな定食屋を睨みつけていた。
「……チッ。本当にこんなボロっちい店に、例の魔力反応があるってのか?」
ザイードは忌々しげに舌打ちをした。
依頼主からの指示は、この周辺で特定の魔力反応を探ることだった。
だが、目の前にあるのは、どこにでもあるような寂れた定食屋だ。
外装は古びており、どう見ても特別なものが隠されているようには見えない。
「違法魔道具の残滓か、それとも……」
ザイードは外套の奥で、鋭利なナイフの柄を撫でた。
「まあいい。標的が何者だろうと、俺がいたぶって殺すだけだ」
彼の口角が歪に吊り上がる。
強者と戦う悦び。弱者を蹂躙する快感。
その両方を味わえるなら、相手が誰であろうと構わなかった。
定食屋の窓越しに、エプロン姿の女と、小さな子供が動いているのが見える。
「平和ボケした連中だ。俺がいつでも首を刈り取ってやれる」
ザイードは残忍な笑みを浮かべながら、定食屋の様子をじっと窺い続けた。
◆ーーーー◆
一時間後。
ドーラの工房で完璧に調整された装備を受け取った俺は、アリスの定食屋へと戻ってきた。
店の中では、昼の営業に向けた仕込みが始まっていた。
アリスが、かつて俺が持ち込んだ魔剣を打ち直した包丁で、手際よく野菜を刻んでいる。
トマも小さな手で、水桶の中の芋を一生懸命に洗っていた。
「アリス、トマ」
俺が声をかけると、二人が一斉に振り返った。
「あっ、おかえりなさい!」
「ジン兄ちゃん!」
俺は調理台に歩み寄り、単刀直入に告げた。
「少し遠出してくる。数日は戻れないかもしれない」
アリスの包丁を持つ手が止まった。
「えっ……遠出って、どこへ行くんですか?」
彼女の瞳に、明らかな不安が浮かんでいる。
「野暮用だ。心配はいらない」
俺は深くは語らなかった。
深層へ行くと言えば、彼女は間違いなく止めるだろう。
「でも……最近、街の様子がおかしいって噂もありますし……」
「俺がいない間は、夜間の外出は控えるんだ。戸締まりもしっかりしておけ」
俺が念を押すと、アリスは少しだけ俯き、やがて小さく頷いた。
「……分かりました。気をつけてくださいね」
「ジン兄ちゃん、絶対無事に帰ってきてね!」
トマが元気よく手を振る。
「ああ、約束する」
俺は二人に背を向け、店を出た。
扉を閉めた瞬間、背中の辺りに微かな違和感を覚えた。
誰かに見られているような、ねっとりとした視線。
俺は足を止め、周囲の気配を探った。
だが、路地裏には野良猫が一匹歩いているだけで、怪しい人影は見当たらない。
気のせいか。
今は、アリスのために調味料を手に入れることが最優先だ。
俺は思考を切り替え、ダンジョンへと向かって歩き出した。
俺が去った後の定食屋。
その向かいの路地裏の暗がりで、ザイードが外套のフードを深く被り直していた。
「……邪魔な用心棒は消えたか」
ザイードの好戦的な瞳が、獲物を狙う獣のように光る。
彼が探っていた魔力反応。
それは間違いなく、あの定食屋の中から発せられていた。
「さて、仕事の時間だ」
ザイードは残忍な笑みを浮かべ、ゆっくりと定食屋に向かって歩き出した。
俺が不在となった店に、不穏な空気が静かに満ちていく。




