第11話
湿った空気が肌にまとわりつく。
俺は浅層の魔獣たちを素通りし、一気にダンジョンの階層を駆け下りていく。
目指すのは、かつて主戦場としていた深層領域。アリスが料理の隠し味に使っているという、特殊な魔力植物を採取するためだ。
薄暗い洞窟の中、発光する苔だけが頼りの道を進む。
道中、第二階層を抜けたあたりで、巨大な甲殻を持つ鋏蟹が道を塞いだ。
岩石のように硬い装甲と、鋼鉄すら断ち切る鋭い鋏を持つ厄介な魔獣だ。普通の探索者ならパーティーを組んで命がけで挑む相手だろう。
だが、今の俺にとってはただの歩く食材にすぎない。
鋏蟹が威嚇するように泡を吹き、巨大な右の鋏を振り下ろしてくる。
俺は半歩だけ身をずらしてそれを躱し、無防備になった装甲の継ぎ目に手刀を滑り込ませた。
ただの一撃。
鈍い音とともに、鋏蟹はあっけなく崩れ落ち、ピクピクと痙攣して動かなくなった。
「こいつの身は、いい出汁が出るはずだ」
硬い甲殻を素手で引き剥がし、透き通った身を取り出す。
復讐のためだけに極限まで鍛え上げた力。それは今、ただ美味い飯を食うための道具になっている。
規格外の力を持て余している自覚はある。だが、あの温かい食卓を守り、腹いっぱい飯を食うための調達係という役割は、思いのほか悪くなかった。
手早く蟹の身を収納袋に放り込み、俺はさらに奥へと歩を進めた。
ここから先は、人類の生存圏を大きく外れた深層だ。
かつて俺は、メガロドン社への憎悪だけを原動力に、この領域のボスモンスターを手当たり次第に狩り尽くした。
だが、久しぶりに足を踏み入れた深層は、俺の記憶にある場所とは全く異なっていた。
異様な静寂。
生臭い風も、強大な魔獣たちが放つ圧倒的な威圧感もない。
ただ、死に絶えたような淀んだ空気が広がっているだけだ。
岩肌は崩落し、瘴気を浄化するはずの自生植物も枯れ果てている。
「……なんだ、ここは」
思わず呟きが漏れた。
足元には、かつて俺が屠った魔獣の風化した骨が転がっている。
生態系の頂点に君臨していた存在が消え去ったことで、この階層の環境そのものが完全に崩壊していた。
かつて俺が砕いた岩盤はそのまま放置され、そこから漏れ出した瘴気が周囲を腐敗させている。
俺は荒れ果てた岩場を進み、目的の魔力植物を探した。
本来なら群生しているはずのその植物も、環境の激変によってほとんどが枯死している。
岩陰にひっそりと、かろうじて生き残っていた数株を見つけ、俺は慎重に根元から採取した。
これで、あの定食屋の味は守れる。
だが、採取した植物を袋に収めながら、周囲の痕跡を観察した俺の背筋に、冷たいものが走った。
深層の覇者が不在となった影響は、この階層だけにとどまらない。
上位の魔獣がいなくなったことで、中位の魔獣が異常繁殖し、居場所を失った下位の魔獣たちが上層へと押し出されている痕跡がはっきりと残っていた。
浅層で遭遇した鎧熊。不自然な魔力残滓。
それらはすべて、偶然起きた異常事態などではなかった。
俺が十年間、ただ壊すことだけを考えて暴れ回った結果だ。
復讐という目的のためだけに、生態系のバランスなど気にも留めず、目につく強者をすべて排除した。
その破壊の爪痕が、今になって浅層に歪みをもたらしている。
俺の過去の行いが、回り回って、今俺が守ろうとしている平穏な日常を脅かしている。
胃の奥が鉛のように重くなった。
過去は、そう簡単に清算できるものではない。
俺が犯した破壊の代償は、確実に今の世界を蝕んでいた。
◆ーーーー◆
昼下がりの定食屋は、静まり返っていた。
ジンが遠出しているせいか、店内はどこか広く、心細く感じる。
私、アリスは布巾でテーブルを拭きながら、小さく息を吐いた。
「姉ちゃん、ジン……遅いね」
奥から顔を出したトマが、不安そうに眉を寄せる。
「大丈夫よ。あの人なら、きっとすぐに戻ってくるわ」
努めて明るい声で返し、私は再び手を動かした。
その時、カランと入り口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ……」
笑顔を作って振り返った瞬間、全身の血の気が引くのを感じた。
そこに立っていたのは、黒い外套を羽織った痩身の男だった。
全身に刻まれた無数の傷跡。そして何より、その目が異常だった。
料理を求める客の目ではない。獲物を値踏みし、どう嬲り殺すかを楽しんでいるような、残忍な獣の目。
男が一歩店内に足を踏み入れただけで、空気が凍りついたように重くなった。
「……ここか。妙な匂いがするな」
男は鼻を鳴らし、店内をゆっくりと見渡す。
その視線が私を捉えた時、蛇に睨まれた蛙のように、指先から力が抜けていくのがわかった。
「あ、あの……ご注文でしょうか」
震える声を必死に押し殺し、私は問いかけた。
男は答えない。ただ、面白そうに口角を歪め、私と、奥で立ちすくむトマを交互に見る。
「隠し立ては無用だ。この店から、探していた反応が出ている」
男の言葉の意味はわからない。
だが、彼が明確な悪意を持ってこの場所にやってきたことだけは、痛いほどに理解できた。
トマが小さな悲鳴を上げ、後ずさる。
私は咄嗟にトマを背中に庇い、男を睨み返した。
ジンは深層にいる。すぐには戻れない。
圧倒的な暴力の気配が、私たちの小さな居場所を飲み込もうとしていた。
冷たい絶望が、足元から這い上がってくる。
どうか、間に合って。
私は心の中で、遠く離れた場所にいるはずの彼の名を、ただ祈るように呼び続けていた。




