第12話
店の扉に手をかけた瞬間、内側から漏れ出す異様な気配に気づいた。
ただの客ではない。明確な悪意と、血の匂いを纏った暴力の気配。
深層で数え切れないほどの魔獣を屠ってきた俺の感覚が、警鐘を鳴らしている。
俺は扉を蹴り開け、店内に踏み込んだ。
「……チッ。時間切れか」
男の低い舌打ちが空気を震わせる。
俺が足を踏み入れた瞬間、店内に充満していた重苦しい殺気がふっと霧散した。
厨房の奥で、アリスがトマを背中に庇うようにしてへたり込んでいる。
男の姿はすでにない。裏口の木製ドアがわずかに揺れており、そこから路地裏の闇へと逃走したのだろう。
追うべきか。一瞬思考を巡らせたが、青ざめて震えているアリスたちを置いていくわけにはいかなかった。
「……大丈夫か」
俺が声をかけると、アリスは糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
「ジン……よかった。本当に……」
彼女の目から安堵の涙がこぼれ落ちる。トマも俺の足にすがりつき、声を上げて泣き出した。
店内に残る微かな魔力の残滓。先ほどの男は、ただのならず者ではない。明確な目的を持ってこの場所を探っていた。
だが、今はこれ以上怯えさせるべきではない。俺は裏口の鍵を閉め、二人をテーブル席へと座らせた。
温かいお茶を淹れ、二人の呼吸が落ち着くのを待つ。
「怖い思いをさせたな。……頼まれていたものだ」
俺は背負っていた荷物から、布に包まれた小箱を取り出し、テーブルの上に置いた。
深層の奥深くで採取してきた、淡い光を放つ植物。
箱を開けた瞬間、アリスの目が大きく見開かれた。
「これ……お父さんが使っていた、あの隠し味……」
震える指で植物に触れ、彼女は再び涙を溢れさせた。今度は恐怖ではなく、純粋な喜びの涙だった。
「本当に見つけてきてくれたのね。これで、あの味が再現できる……。恩に着るわ、ジン」
アリスは何度も頭を下げた。トマも目を輝かせて箱を覗き込んでいる。
最近、俺が持ち込む規格外の食材のおかげで、定食屋は連日満席になるほどの賑わいを見せていた。
常連客たちの笑い声が響き、アリスが忙しそうに立ち働く。
その光景を見るたび、俺の胸の奥で燻っていた冷たい炎が、少しずつ温かい温度へと変わっていくのを感じていた。
復讐のためだけに血反吐を吐いてきた十年間。
だが今は、誰かの居場所を守り、こうして感謝されることに喜びを覚えている。
失われていた人間らしさが、この小さな定食屋で確実に息を吹き返していた。
◆ーーーー◆
翌日の昼下がり。
仕込みの準備をしていると、店の扉が勢いよく開いた。
「おう、邪魔するよ! 昨日の包丁の具合はどうだい……って、なんだいこの匂いは!」
顔を出したのは、馴染みの鍛冶職人であるドーラだった。
彼女は店に入るなり鼻をひくつかせ、厨房の奥を鋭い目つきで睨みつけた。
「アリス、あんた何か妙なものを持ち込んでないかい?」
「え? 妙なものって……ジンが採ってきてくれた、新しい調味料のことですか?」
アリスが小箱を取り出すと、ドーラの顔色が一瞬にして青ざめた。
「馬鹿野郎! それを店に置いてるのかい!」
ドーラは血相を変えて厨房に踏み込み、小箱を乱暴に閉じた。
「あんた、これどこで手に入れた!? これはただの植物じゃない。強烈な魔力を放つ『ターゲットマーカー』だ!」
「ターゲットマーカー……?」
俺が眉をひそめると、ドーラは忌々しそうに舌打ちをした。
「深層特有の魔力植物さ。持っているだけで、周囲の魔物や悪意ある連中を強烈に惹きつけるんだよ。こんなものを無防備に置いておけば、遠くからでも嗅ぎつけられるに決まってる!」
その言葉に、俺の思考が凍りついた。
昨日の男。
奴は店に入ってきた時、「探していた反応が出ている」と言っていた。
俺が深層からこの植物を持ち帰る前から、店には過去に使われていた調味料の微かな残滓がこびりついていたはずだ。
男はそれを嗅ぎつけ、そして今、俺が新しく持ち帰ったことで、その反応は爆発的に強まっている。
「私のせいで……」
アリスが顔を覆い、震える声で呟いた。
「違う。俺が無知だったからだ」
俺は拳を強く握りしめた。
アリスを喜ばせたい。彼女の笑顔が見たい。その一心で深層から持ち帰ったものが、結果としてこのささやかな居場所を最悪の標的に変えてしまったのだ。
圧倒的な暴力があれば、どんな敵でも排除できる。すべてを守れると思っていた。
だが、力だけでは守れないものがある。自分の浅はかな行動が、大切な人たちを危険に晒したという事実が、重い鉛のように胃の奥に沈み込んでいく。
両親を失った時の、あの絶望的な無力感が脳裏をよぎる。
窓の外に目を向ける。
夕暮れが近づく街の喧騒の中に、得体の知れない視線がいくつも潜んでいるような気がした。
調味料の放つ甘い魔力に惹きつけられ、すでに何者かが確実にこの店を包囲しつつある。
誰が狙っているのか。どうすればこの事態を収拾できるのか。
答えは出ない。
ただ、夜の闇が静かに、そして確実に、俺たちの居場所を侵食し始めていた。




