第13話
日が落ちて看板の明かりを消しても、店の周囲をうろつく足音は絶えなかった。
店内の空気は重く、息苦しい。
アリスは青ざめた顔でカウンターの隅に立ち尽くし、両手で自身のエプロンをきつく握りしめている。
「私のせいで……」という彼女の震える声が、まだ耳の奥に残っていた。
俺は窓の外を睨みつける。
調味料の放つ甘い魔力に惹きつけられた何者かの気配が、じわじわと数を増している。
それは魔獣なのか、それとも悪意を持った人間なのか。
どちらにせよ、このままでは店が標的になるのは時間の問題だった。
圧倒的な暴力があれば、どんな敵でも排除できる。すべてを守れると思っていた。
だが、力だけでは守れないものがある。
自分の浅はかな行動が、大切な人たちを危険に晒したという事実が、重い鉛のように胃の奥に沈み込んでいく。
どうすればこの事態を収拾できるのか。
思考を巡らせていると、不意に店の扉が乱暴に叩かれた。
ビクッとアリスが肩を揺らす。
俺は警戒しながら扉に近づき、ゆっくりと鍵を開けた。
「ジンさん……! アリスさん!」
転がり込むように入ってきたのは、リオンだった。
くたびれた安物のスーツは泥で汚れ、膝の部分が破けている。
額には脂汗が浮かび、肩で激しく息をしていた。
「どうした。そんなに慌てて」
俺が短く問うと、リオンは慌てて扉を閉め、再び鍵をかけた。
そして、背中を扉に押し付けたまま、ずるずると床に座り込む。
「見、見たんです……。裏通りで……」
リオンの顔は恐怖で引き攣り、目の下のクマがいつも以上に色濃く見えた。
「落ち着け。誰を見たんだ。追われているのか」
俺は周囲の気配を探ったが、リオンを直接追跡してきている者はいないようだった。
リオンは何度も深呼吸を繰り返し、震える唇を開いた。
「ゲイツです……。死んだはずの、メガロドン社の元幹部……ゲイツが、生きていたんです!」
その名前を聞いた瞬間、俺の思考が完全に停止した。
ゲイツ。
高級なスーツを着崩し、常に狡猾な嘲笑を浮かべていた恰幅の良い中年男性。
両親の工場を騙し取り、過労死に追いやった張本人の一人。
ダンジョン事故で瓦礫の下敷きになって死んだはずの男。
俺の中で、十年間燻り続けていた黒い炎が、一気に燃え上がった。
「……生きていた、だと?」
声が、自分でも驚くほど低く、冷たく響いた。
「は、はい……。間違いありません。あの傲慢な笑い方、他を見下すような目つき……。それに、奴は何か妙なものを持っていました」
リオンは両腕を抱え込み、ガタガタと震えながら続ける。
「会社の隠し資産だった、違法な魔道具です。あれを使えば、ダンジョンの魔物を意図的に暴走させることができる……。奴は、それを街の近くで使って、混乱に乗じて再び権力を握ろうと……復権を企んでいるんだと思います」
リオンの言葉が、遠くで響いているように聞こえた。
俺の視界が、ゆっくりと赤く染まっていく。
両親が油まみれになって働いていた小さな町工場。
そこに差し押さえの札を貼りに来たゲイツの姿。
親父が土下座して頼み込むのを、鼻で笑いながら見下ろしていたあの顔。
全てを奪われたあの日の絶望が、鮮明に蘇る。
殺さなければならない。
今すぐここを飛び出し、あの男の首をへし折ってやる。
俺の十年間は、あいつらを殺すためだけにあったのだ。
無意識のうちに、俺の体から凄まじい殺気が漏れ出していた。
床板がミシミシと軋み、店内の空気が凍りつく。
カウンターの上に置かれた水の入ったコップが、微かな振動で波打っている。
周囲の温度が急激に下がったかのような錯覚に陥る。
「……ジン、さん……?」
震える声に、ハッとして視線を落とす。
アリスが、恐怖に顔を引き攣らせて後ずさっていた。
いつも温かい笑顔を向けてくれる彼女の顔に、明らかな怯えが浮かんでいる。
「ひっ……」
カウンターの陰では、トマが床にへたり込み、両手で頭を抱えて震えていた。
リオンもまた、息を呑んで俺を見つめ、壁際に身を縮めている。
俺は、何をしているんだ。
自分の放った殺気が、守るべきはずの居場所を壊しかけている。
俺は慌てて殺気を収め、拳を強く握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、血が滲む。
「……すまない」
絞り出すように言うと、アリスは少しだけ表情を和らげたが、まだ怯えの色は消えていない。
「ジンさん……あなた、今……」
「気にするな。ただの昔の知り合いだ」
嘘だった。ただの知り合いではない。俺の人生を狂わせた元凶だ。
だが、ここで怒りに任せて飛び出せば、俺は再び「復讐鬼」に戻ってしまう。
この温かい定食屋で、美味しいご飯を食べる日常。アリスやトマと過ごす平穏な時間。
それを自らの手で壊してしまうことが、何よりも恐ろしかった。
両親を失った時の無力感とは違う、新しい恐怖が俺の足を縫い留める。
俺が動けば、この店はどうなる。
外には調味料の魔力に惹きつけられた得体の知れない連中が潜んでいる。
俺がゲイツを殺しに行っている間に、アリスたちが襲われたら。
考えただけで、胃の奥が冷たくなる。
「ジンさん……」
リオンが、おずおずと口を開いた。
彼はゆっくりと立ち上がり、俺の前に進み出た。
「僕が、奴の動向を探ります」
「お前が?」
「はい。僕は元社員です。奴の考え方や、隠れ家になりそうな場所には心当たりがあります。それに……」
リオンは拳を握りしめ、俺を真っ直ぐに見つめた。
「ジンさんには、命と胃袋を救ってもらいました。アリスさんのご飯にも……。だから、今度は僕が、この店を守るために動きたいんです」
気が弱く、いつもおどおどしていたリオンの目には、確かな決意が宿っていた。
かつてのパワハラ上司に対する恐怖よりも、恩人たちを守りたいという思いが勝っているようだった。
「……危険だぞ。奴は違法魔道具を持っているんだろう」
「わかっています。でも、僕にやらせてください。ジンさんは、ここを離れられないはずですから」
リオンの言う通りだった。俺が店を空ければ、アリスたちは無防備になる。
俺は小さく息を吐き、頷いた。
「わかった。無理はするな。何かあればすぐに知らせろ」
「はい!」
リオンは深く一礼すると、再び夜の街へと駆け出していった。
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店内に、再び重い沈黙が降りる。
窓の外には、調味料の魔力に惹きつけられた気配がまだ潜んでいる。
そして、街のどこかには、過去の亡霊であるゲイツが潜伏している。
奴の真の目的は何なのか。違法魔道具を使って、具体的にどう動くつもりなのか。
俺は圧倒的な力を持っている。深層の覇者すら瞬殺できる力だ。
だが、その力は今、何の役にも立たない。
過去の憎悪と、現在の平穏。
その板挟みになり、俺は一歩も動くことができなかった。
アリスが不安そうに俺を見つめている。
「ジンさん……私たち、どうなっちゃうの……?」
「……俺が、なんとかする」
そう答える声は、ひどく空虚に響いた。
問題は何も解決していない。
ただ、静かな不安と無力感だけが、冷たい夜の空気と共に俺の胸を締め付けていた。




