第14話
「……俺が、なんとかする」
そう答えたものの、静かな不安と無力感が胸を締め付けていた。
夜が明け、白み始めた空を見上げながら、俺は一人で街を抜けた。
向かった先は、ダンジョンの深層領域。
鬱屈とした感情を振り払うには、体を動かすしかなかった。
濃密な瘴気が立ち込める岩場を、音もなく進む。
目の前に現れたのは、巨大な甲殻を持つ魔獣だった。
鋼鉄よりも硬いとされる外殻を持ち、四つの巨大な鋏を振りかざす深層の捕食者。
普通の探索者なら、小隊を組んで挑んでも全滅を免れないだろう。
だが、今の俺にとって、こいつはただの食材でしかない。
魔獣が咆哮を上げ、岩盤を砕くほどの鋏を振り下ろしてくる。
俺は軽く身を躱し、無防備になった関節の隙間に手刀を叩き込んだ。
ただの一撃。
それだけで、巨大な魔獣は甲殻を内側から粉砕され、絶命した。
「……よし。身は傷ついていないな」
俺は魔獣の巨体から、極上の白身肉だけを素早く切り出す。
持て余した規格外の力は、今やこうして高級食材を調達するために使われている。
これを持ち帰れば、アリスがまた美味い飯を作ってくれる。
それだけを考えながら、俺は血抜きをした肉を背負い、地上への帰路についた。
◆ーーーー◆
昼時の定食屋は、凄まじい熱気に包まれていた。
調理場前の卓から、奥の席まで、来店者でぎっしりと埋まっている。
俺が持ち帰った深層の魔獣肉は、アリスの手によって絶品の香草焼きへと姿を変えていた。
「うまっ! なんだこの肉、口の中で溶けるぞ!」
「ジン、あんたまたとんでもないものを獲ってきたな。最高だぜ!」
常連たちが次々と歓声を上げ、空になった皿を突き出す。
トマが額に汗を浮かべながら、忙しなく店内を駆け回っていた。
俺は店の隅に立ち、その光景を静かに見つめていた。
「ジン、お疲れ様。今日も大盛況だよ」
厨房から顔を出したアリスが、嬉しそうに微笑みかけてくる。
その笑顔を見ると、胸の奥底で燻っていた冷たい炎が、少しずつ小さくなっていくのを感じる。
十年間、ただ復讐のためだけに生きてきた。
感情を殺し、他者を遠ざけ、殺伐とした日々を過ごしてきた。
だが、この店で温かい飯を食い、人々の笑い声に触れるうちに、俺の心は確実に変化していた。
人間らしさを、取り戻しつつある。
この平穏な日常こそが、今の俺にとって何よりも大切なものだった。
だが、その温かい空気を切り裂くように、店の扉が開いた。
「相変わらず、素晴らしい匂いをさせているな」
芝居がかった声と共に現れたのは、バルザックだった。
恰幅の良い体を揺らし、派手な装飾品を鳴らしながら、彼は悠然と店内を見渡す。
常連たちが少しだけ身を引く中、バルザックは俺の前の席に腰を下ろした。
「美味いものを食いに来たなら、順番を待て」
俺がぶっきらぼうに告げると、彼はふっと鼻で笑った。
「今日は食事だけが目的ではない。君たちに、少しばかり厄介な情報を伝えに来たのだ」
バルザックの顔から、いつもの傲慢な笑みが消える。
その真剣な眼差しに、俺は無言で続きを促した。
「メガロドン社の元幹部、ゲイツ。奴がこの街に潜伏しているという噂は聞いているかね?」
その名を聞いた瞬間、俺の指先が微かに強張った。
アリスも厨房の手を止め、不安げな視線をこちらに向けている。
「ああ。違法魔道具を使ってダンジョンを暴走させ、復権を企んでいるという話なら、すでに知っている」
俺が短く答えると、バルザックは満足げに頷いた。
「さすがだな。私も独自に調査を進めていたのだが、君の耳の早さには恐れ入る」
バルザックは声を潜め、周囲を警戒するように目を細めた。
「だが、問題はそれだけではない。ゲイツの背後には、コルテスという男が支援に回っている」
「コルテス……?」
聞き慣れない名前に、俺は眉をひそめた。
「狡猾で計算高い、裏社会の悪徳商人だ。奴は他人を駒としか見ていない。そして今、奴の標的はこの店に向いている」
バルザックは懐から葉巻を取り出し、火をつけずに指先で弄んだ。
「コルテスの狙いは、この店から漏れ出ている特殊な魔力反応だ。君たちが使っている調味料……それが深層の希少な魔力素材であることに、奴は気づいている」
俺は息を呑んだ。
アリスが大切に使っている、亡き父の形見。
それが原因で、店が狙われているというのか。
「奴は、この定食屋周辺の土地開発を名目に、合法的に店を潰そうと動いている。暴力ではなく、法と権力を使って、この土地ごと魔力素材の利権を独占するつもりだ」
合法的に。
その言葉が、俺の脳裏に冷たく響いた。
「君の腕っぷしが規格外であることは知っている。だが、相手が書類と法律を盾にしてきた場合、力でねじ伏せることはできない。むしろ、暴力を振るえば君たちが犯罪者として追放されるだけだ」
バルザックの指摘は、あまりにも正確だった。
俺は圧倒的な力を持っている。
どんな強大な魔獣だろうと、どんな凶悪な犯罪者だろうと、物理的な脅威なら瞬殺できる。
だが、権力や陰謀、合法的な圧力を前にしては、その力は何の役にも立たない。
十年前の記憶が、鮮明にフラッシュバックする。
親父たちの工場を奪われた日。
巧妙な契約書と法的な罠。
俺たちは何も悪いことをしていないのに、気づいた時には全てを失っていた。
あの時の圧倒的な無力感が、再び俺の足元に忍び寄ってくる。
「……どうすればいい」
絞り出すように出た声は、ひどく掠れていた。
「安心したまえ。私の舌を満足させるこの店を、みすみす潰させるわけにはいかない」
バルザックは葉巻をしまい、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「私のコネと財力を使って、奴の包囲網を可能な限り遅らせてみせよう。表の交渉は私に任せておけ」
「……恩に着る」
俺は短く頭を下げた。
バルザックの言葉は心強かったが、胸の奥の冷たいしこりは消えなかった。
◆ーーーー◆
バルザックを見送った後、俺は無言でテーブルの皿を片付けた。
アリスとトマは、疲れた様子で奥の部屋へ休みにいった。
俺は一人、薄暗い店内に残り、窓の外を眺めていた。
街はいつもと変わらない平穏な景色を見せている。
だが、その裏側では、確実にコルテスとゲイツの陰謀が進行しているのだ。
俺は自分の両手を見つめた。
極限まで鍛え抜かれた、無駄のない筋肉。
どんな硬い岩盤も砕き、どんな敵も屠ることができる手。
だが、この手では、見えない権力の網の目を引き裂くことはできない。
不器用な俺には、この温かい日常をどう守ればいいのか、答えが見つからなかった。
誰かを殴り倒せば解決する問題ではない。
俺が動けば動くほど、アリスたちを危険な立場に追い込んでしまうかもしれない。
自分の力が及ばず、目の前で大切な居場所が理不尽に奪われていく。
その恐怖が、じわじわと全身を侵食していく。
窓ガラスに映る自分の顔は、ひどく強張っていた。
問題は何も解決していない。
合法的な手段で店を奪われそうになる危機感と、手出しできないジレンマ。
静かな不安と無力感だけが、冷たい夜の空気と共に、俺の心を深く沈み込ませていた。
俺はただ、無言で拳を強く握りしめることしかできなかった。




