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第15話

夜が明け、朝の光が薄暗い店内に差し込んできても、俺は窓際から動けずにいた。


冷たい夜の空気と共に沈み込んだ心は、簡単には浮上してくれない。

権力や陰謀という見えない敵に対して、俺の力はあまりにも無力だった。

誰かを殴り倒せば解決する問題ではない。

俺が動けば動くほど、アリスたちを危険な立場に追い込んでしまうかもしれない。

そのジレンマが、じわじわと全身を侵食していく。


奥の部屋から、微かにアリスとトマの寝息が聞こえてくる。

この温かい日常を、どうすれば守れるのか。

答えの出ない問いを反芻しているうちに、街の時計塔が朝を告げる鐘を鳴らした。


いつまでも立ち尽くしているわけにはいかない。

アリスたちは間もなく起きてくる。定食屋の仕入れの準備もしなければならない。

俺は重い空気を振り払うように店を出て、街の外れにある超高難度ダンジョンへと向かった。


鬱屈とした感情を吐き出すように、俺は深層のぬかるんだ地面を蹴る。

濃密な瘴気が立ち込め、普通の人間なら呼吸をするだけで肺が焼けるような痛みを伴う領域。

目の前に立ちはだかったのは、岩石のような分厚い甲殻を持つ巨大な蟹型の魔獣だった。

普通の探索者なら小隊を組んで挑む相手だが、今の俺にとってはただの獲物にすぎない。


魔獣が巨大なハサミを振り上げ、岩盤を砕く勢いで襲いかかってくる。

俺は最小限の動きでそれを躱し、無防備になった甲殻の関節部分に手刀を突き入れた。

硬い殻を容易く貫き、内部の急所を破壊する。

魔獣は短い断末魔を上げ、あっさりと崩れ落ちた。


この巨大なハサミの中には、極上の身が詰まっている。

復讐のために身につけた規格外の力は、今やこうして高級食材を調達するための道具になっていた。

オーバースペックな力を持て余している自覚はある。

それでも、アリスが美味い飯を作ってくれるなら、それでいい。

俺は巨大なハサミを切り離し、肩に担いで地上へと帰還した。


定食屋に戻ると、厨房から食欲をそそる香りが漂ってきた。


昼時になると、店はあっという間に常連客で満席になった。

俺が持ち込んだ魔獣の肉は、アリスの手によって見事な香草焼きへと姿を変えている。

ジュージューと音を立てる鉄板から、食欲を刺激する匂いが店内に広がっていく。


「兄ちゃんが獲ってきたすげえ肉だぞ! 残さず食えよな!」


トマが誇らしげに胸を張りながら、熱々の皿をテーブルへと運んでいく。

客たちは美味そうに肉を頬張り、店の中は活気と笑顔で満ちていた。

その光景をカウンターの隅から眺めているだけで、不思議と心が満たされていくのを感じる。


「あなたのおかげで、今日もお店が開けられたわ」


ピークが過ぎた頃、アリスが俺の前にまかないの皿を置いて微笑んだ。

湯気を立てる肉を口に運ぶと、香ばしい肉汁が口いっぱいに広がる。


「……美味い」

「ふふ、たくさん食べてね。まだまだあるから」


アリスの柔らかな笑顔と、温かい食事。

殺伐としていた俺の心は、この店で過ごす時間の中で確実に癒やされていた。

復讐鬼だった自分が、少しずつ人間らしさを取り戻している。

この平穏な日常さえあれば、俺は生きていける。そう思っていた。


だが、過去の亡霊は確実に俺たちの足元へと忍び寄っていた。


夕方、客が完全に引いて、店内に俺とアリス、トマだけになった時のことだ。

唐突に、耳を劈くような轟音が響き渡った。


木っ端微塵に吹き飛んだ入り口の扉が、店内に散乱する。

土煙の中から姿を現したのは、黒い外套を纏った痩身の男だった。

全身に無数の傷跡を刻んだその男は、冷酷な笑みを浮かべて店内を見渡す。


「ここが、あの忌々しい魔力反応の源か。ずいぶんと小汚い店だな」


ザイード。裏社会で始末屋として動いている男だ。

俺は椅子から立ち上がり、男の前に進み出た。


「誰の差し金だ」

「てめえに教える義理はねえが、冥土の土産に教えてやるよ」


ザイードは外套の裾を翻し、懐から鈍く光る金属製の筒を取り出した。

禍々しい魔力を放つその道具を見て、俺の目が細くなる。


「ゲイツ様は、この違法魔道具でダンジョンを暴走させる準備を進めている。その前に、この土地と女を回収しろと仰せだ。邪魔する奴は殺せともな」


メガロドン社の元幹部、ゲイツ。

倒産したはずの悪徳企業が、明確な悪意を持ってこの場所に手を伸ばしてきたのだ。

過去の因縁が、俺の新しい居場所を脅かそうとしている。


「さあ、大人しくついてきてもらおうか」


ザイードがアリスに向かって手を伸ばす。


「やめろ!」


トマが小さな体で前に飛び出し、アリスを庇うように両手を広げた。


「邪魔だ、ガキ」


ザイードが苛立たしげに舌打ちをし、トマに向かって容赦なく蹴りを放つ。

その足がトマに届くより早く、俺は動いた。


視認すら困難な速度で間合いを詰め、ザイードの鳩尾に拳を叩き込む。

骨が砕ける鈍い音が店内に響いた。


造作もない一振り。

それだけで、ザイードは声を発する間もなくくの字に折れ曲がり、壁に激突して白目を剥いた。

圧倒的な武力によって、脅威は一瞬で排除された。


「……終わったぞ」


俺は拳を下ろし、背後を振り返った。


ザイードが吹き飛ばした扉の残骸。

激突してひび割れた壁。

ひっくり返ったテーブルと、床に散乱した食器の破片。


アリスはトマを強く抱きしめたまま、床にへたり込んでいた。

その顔は蒼白で、小刻みに震えている。

俺が敵を倒したというのに、彼女たちの瞳には明らかな恐怖が張り付いていた。


俺は自分の両手を見つめた。

どんな敵でも一瞬で屠ることができる、最強の力。

だが、この手で敵を壊すことはできても、傷ついた日常を元に戻すことはできない。


暴力では、この温かい平穏を守りきれない。

その事実が、重く冷たい鉛のように胃の奥へと落ちていく。


冷たい風が、壊れた入り口から吹き込んでくる。

守るべきものが目の前で壊れていく無力感と、静かな絶望だけが、俺の心を再び暗い底へと引きずり込んでいった。


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