第6話
翌日の昼下がり。
トマが元気に皿洗いの音を響かせる中、俺は厨房に面した席で生姜焼き定食を平らげていた。
甘辛い豚肉の脂をまとった白米を最後の一口まで掻き込み、空になった茶碗をカウンターに置く。
厨房では、アリスが夕食の仕込みのために野菜を刻んでいた。
トントン、トントンというリズミカルな音が店内に響く。
だが、俺の耳はその音にわずかな違和感を覚えていた。
音が少し鈍い。
視力を凝らして手元を観察すると、アリスが使っている包丁はかなり使い込まれており、刃こぼれしている箇所がいくつもあった。
俺は手元の生姜焼きを見つめ、静かに息を吐いた。
十年間。俺はメガロドン社への復讐のためだけに命を削ってきた。
だが決行前日、標的の会社はダンジョン事故であっけなく自滅した。
行き場を失った殺意と、積み上げた十年の努力。
目的を失い、空っぽになった心で街を彷徨っていた俺を救ったのは、この店で食べた普通の生姜焼き定食だった。
あの温かさと美味さに、俺は柄にもなく胸の奥が熱くなったのを覚えている。
復讐鬼として死にかけていた心に、人間らしさが戻ってきた瞬間だった。
アリスは、古い道具を使いながらも、いつも最高の料理を作ってくれる。
俺は、自分のアイテムボックスの中に眠る一つの武器を思い出した。
深層のボスを屠り、復讐のために鍛え上げた凶悪な魔剣。
今はもう振るう宛のない、行き場を失った殺意の象徴だ。
あれを、包丁にできないだろうか。
そんな突拍子もない考えが、頭をよぎった。
◆ーーーー◆
数時間後。俺は街の裏通りにある鍛冶工房の扉を押し開けた。
熱気と、鉄を打つ重低音が肌を叩く。
「いらっしゃい。なんだい、あんた。見ない顔だね」
奥から現れたのは、煤で顔を汚した赤髪の女性だった。
筋肉質な腕には、長年鉄と向き合ってきた職人の証である無数の火傷の痕が刻まれている。
凄腕の鍛冶師として名高い、ドーラだ。
俺は無言で作業台に歩み寄り、黒い布に包んだ長細い物体を置いた。
「これを、包丁に打ち直してほしい」
「はあ? 包丁だぁ?」
ドーラは訝しげに眉をひそめながら、布の結び目を解いた。
中から現れたのは、漆黒の刀身を持つ魔剣だ。
鞘からわずかに漏れ出すだけで、周囲の空気が凍りつくような禍々しい魔力を放っている。
「……はぁ!? お前さん、正気かい!」
ドーラは目を剥き、身を乗り出した。
「こいつは深層の魔獣の骨で打たれた、伝説級の魔剣じゃないか! これをただの包丁にするだって!?」
「ああ。今の俺には、もう必要のないものだ」
俺は淡々と答えた。
「あんた、頭がおかしいんじゃないのか? これ一本で、小さな国が買えるほどの価値があるんだぞ」
「金の問題じゃない」
俺はドーラの目を真っ直ぐに見返した。
「恩人の作る美味い飯を守るために、最高の包丁が要る。それだけだ」
ドーラは呆れたように息を吐き、頭を掻きむしった。
だが、その瞳の奥には、未知の素材に対する職人としての好奇心が燃え上がっているのがわかった。
「……あんた、もしかしてアリスの店の用心棒かい?」
「……知っているのか」
「あの子はアタシの可愛い妹分でね。最近、やけに強い用心棒がついたって噂になってたんだよ。なるほど、この魔剣の持ち主なら納得だ」
ドーラは魔剣の刃を指先でそっと撫でた。
「いいだろう。アタシの職人魂にかけて、最高の『包丁』に仕立て直してやるよ。ただし、素材が素材だ。普通の包丁と同じだと思わないことだね」
「頼む」
俺は短く頷き、工房を後にした。
◆ーーーー◆
数日後。
完成した包丁を受け取った俺は、足早に定食屋へと向かっていた。
店の前に近づくと、中から怒鳴り声が聞こえてきた。
「こんなボロい店、さっさと畳めば?」
下品な笑い声とともに、椅子が蹴り倒される音が響く。
俺は無言で扉を開けた。
店内では、柄の悪いチンピラ探索者が三人、アリスとトマを取り囲んでいた。
アリスは怯えながらも、トマを背中に庇って立ち塞がっている。
「料理は美味いけど経営センスはゼロね、なんて言われてるらしいじゃねえか。俺たちが買い取ってやるよ」
チンピラの一人が、アリスの肩を掴もうと手を伸ばす。
その瞬間、俺は間合いを詰め、男の腕を掴み上げた。
「あ?」
「俺の食事の時間は絶対に邪魔させない」
そのまま男の体を持ち上げ、店の外へと放り投げる。
男は悲鳴を上げながら宙を舞い、路地に積まれた木箱の山に激突して気を失った。
残された二人のチンピラが、慌てて武器に手を伸ばす。
俺は冷たい視線で奴らを射抜いた。
恩人の居場所を脅かす者は容赦しない。
ただ少しだけ殺気を漏らしただけで、チンピラたちは顔面を蒼白にし、腰を抜かした。
「ひ、ひぃぃっ!」
這うようにして逃げていく背中を見送りながら、俺は短く息を吐いた。
『この美味しいご飯を明日も食うため』。
それが、今の俺の新たな信念だ。
過去の呪縛から解放され、心穏やかに美味しいご飯を食べ続ける。
そのために、俺の規格外の力を使う。
「あなた……!」
アリスがほっとしたようにへたり込む。
トマも涙目で俺の腰に抱きついてきた。
「怪我はないか」
「はい。ありがとうございます、また助けられちゃいましたね」
アリスが苦笑いを浮かべて立ち上がる。
俺は懐から、細長い木箱を取り出してアリスに差し出した。
「……あんたに、贈り物だ」
「えっ? 私に?」
アリスは不思議そうに瞬きをしながら、木箱の蓋を開けた。
中には、黒光りする美しい包丁が収められている。
ドーラの腕によって見事に打ち直されたそれは、禍々しい魔力を完全に抑え込み、洗練された調理器具へと生まれ変わっていた。
「すごく立派な包丁……! でも、こんな高価なもの……」
「気にするな。俺の不要品を打ち直しただけだ」
アリスは戸惑いながらも、包丁を手に取った。
「ちょうど夕食の仕込みをするところだったんです。試しに使ってみてもいいですか?」
アリスは厨房に戻り、まな板の上に大根を置いた。
そして、軽く刃を当てた瞬間だった。
スパンッ、という小気味良い音とともに、大根が抵抗なく真っ二つに分かれた。
それどころか、下の分厚い木製まな板にまで深く刃が食い込んでいる。
「ひゃっ!?」
アリスが驚いて飛び退いた。
「な、なにこれ、切れ味が良すぎて怖いんですけど!?」
「……慣れれば、使いやすいはずだ」
俺は少し気まずくなって視線を逸らした。
ドーラが言っていた「普通の包丁と同じだと思わないことだね」という言葉の意味を、今更ながらに理解する。
アリスは呆れたようにため息をついた後、ふわりと柔らかな笑顔を見せた。
「もう。でも……ありがとう。大切に使うわね」
その笑顔を見て、俺の胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。
新しいオーバースペックな包丁と、俺がダンジョンから調達してくる高級食材。
それらが組み合わさることで、アリスの料理はさらに美味しくなり、店の評判は瞬く間に広まっていった。
客足が増え、店が繁盛していくのは喜ばしいことだ。
だが、目立ちすぎれば新たなトラブルを呼ぶのではないか。
そんな予感を抱きつつも、俺は目の前の大盛りご飯を口に運んだ。




