第5話
前話の終わり:
不穏な影が、この街を包み込もうとしていた。
翌日の昼下がり。
俺はセリアから聞いた情報を頼りに、ダンジョン第二階層の東エリアに足を踏み入れていた。
薄暗い洞窟の中に、淡く発光するキノコが群生している。アリスの店で出す新メニューの食材としては申し分ない。
だが、キノコを採集する前に片付けなければならない厄介な先客がいた。
「グルルルル……ッ」
岩陰から姿を現したのは、巨大な猪の魔獣だった。本来ならもっと深い階層に生息しているはずの凶悪な個体だ。
生態系の異常は、確実にこの階層まで波及している。
俺は手近な岩を蹴り、一瞬で魔獣の懐に潜り込んだ。
硬い毛皮に覆われた首筋に手刀を振り下ろす。骨が砕ける鈍い音が響き、巨体がドスンと地面に沈んだ。
「……肉質は悪くないな」
俺は腰のナイフを抜き、頸動脈に刃を突き立てた。
血抜きをしながら、ふと自分の手を見つめた。
極限まで鍛え上げたこの力は、本来こんなことをするために身につけたものではない。
十年間。両親を死に追いやったメガロドン社への復讐だけを生きる目的に定め、地獄のような日々を這いずり回ってきた。
だが、決行を翌日に控えたあの日。標的の会社はダンジョン事故で自滅し、俺の人生のすべてを懸けた復讐劇はあっけなく終わりを告げた。
行き場を失った殺意と、空っぽになった心。途方に暮れて街を彷徨っていた時の虚無感が、今も時折フラッシュバックする。
「……誰だ」
不意に背後の気配に気づき、俺はナイフを持ったまま振り返った。
岩の陰でビクッと肩を揺らしたのは、泥だらけの服を着た少年だった。
年齢は十歳くらいだろうか。そばかすのある顔を引きつらせ、俺の足元に転がる巨大な魔獣の死骸を見て震えている。
「ひっ……ば、化け物……」
「お前、こんな所で何をしている。ここは子供が来る場所じゃない」
俺が低い声で尋ねると、少年は後ずさりしようとして、盛大に腹の虫を鳴らした。
緊迫した空気が、その間の抜けた音で一気に霧散する。
少年は顔を真っ赤にして腹を押さえた。
俺はため息をつき、切り分けたばかりの肉の切れ端を串に刺した。指先で小さな火の魔術を起こし、表面を軽く炙る。
脂が弾け、香ばしい匂いが洞窟内に広がった。
「食うか」
ぶっきらぼうに串を差し出すと、少年は恐る恐る近づいてきて、ひったくるように肉を受け取った。
一口齧った瞬間、少年の目がこれ以上ないほど見開かれる。
「う、うめえ……! なんだこれ、すっげえ美味い!」
「そうか」
「あんた、すっげえ強いんだな! あんなデカい魔物を一撃で倒すなんて!」
さっきまでの怯えはどこへやら、少年は目を輝かせて俺を見上げてきた。
「俺はトマ! 兄ちゃん、名前は!?」
「……ジンだ」
「ジン兄ちゃん! その肉、もっと食っていいか!?」
図々しい奴だ。だが、美味そうに飯を食う姿を見るのは嫌いじゃなかった。
俺は残りの肉を袋に詰め込み、立ち上がった。
「店に帰る。ついてくるなら勝手にしろ」
「行く行く!」
トマは尻尾を振る犬のように、俺の後ろをぴったりとついてきた。
◆ーーーー◆
「ちょっとジンさん、その子は一体……?」
大量の食材を抱えて定食屋の裏口から入ると、仕込みをしていたアリスが目を丸くした。
「ダンジョンで拾った。腹を空かせているらしい」
「拾ったって……あなたねえ」
アリスは呆れたようにため息をついたが、すぐにトマの泥だらけの姿を見て表情を和らげた。
「いらっしゃい。お腹が空いてるなら、今すぐ何か作るわね」
「ほんと!? 姉ちゃん、飯食わせてくれるのか!」
「ええ、もちろんよ。お客さんにはお腹いっぱい食べてもらうのが、この店の方針だから」
アリスは手早く厨房に立ち、フライパンに火をかけた。
俺が持ち帰った魔獣の肉を薄く切り、特製のタレに絡めて焼いていく。
ジュージューという音と共に、食欲をそそる甘辛い香りが店内に充満した。
「はい、お待ちどうさま。特製生姜焼き定食よ」
カウンターに置かれたのは、山盛りのご飯と、湯気を立てる肉の皿だった。
トマは箸を握りしめ、勢いよく肉を口に運んだ。
「……っ!」
トマの動きがピタリと止まる。
次の瞬間、その大きな瞳からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「う、うめえ……。こんな美味い飯、初めて食った……」
「ふふ、慌てなくていいわよ。おかわりはたくさんあるから」
アリスは濡れ布巾を手に取り、トマの泥だらけの頬を拭ってやった。
その光景を見ながら、俺も自分の前に置かれた生姜焼きを口に運んだ。
隠し味に使われている、アリスの父親の形見だという特殊な調味料。それが肉の旨味を極限まで引き出している。
目的を失って街を彷徨っていたあの日、俺はこの店で同じものを食べた。
あの時、空っぽだった俺の心を満たしてくれた温かさが、今もじんわりと胃の奥から広がっていく。
「おい、そこのガキ。邪魔だ、どけ」
不意に、乱暴な声が店内に響いた。
入り口の引き戸が乱暴に開けられ、柄の悪い男が三人、土足で上がり込んでくる。
身につけている安物の防具からして、地元のチンピラ探索者だろう。
「ここは俺たちの縄張りだ。みかじめ料を払えって、前にも言ったよな?」
先頭の男が、カウンターをドンと蹴り飛ばした。
アリスの顔が強張る。トマは怯えたように箸を止め、俺の背中に隠れた。
「お引き取りください。うちは用心棒を雇っていますから」
アリスが毅然とした態度で言い放つが、男たちは下品な笑い声を上げた。
「用心棒? こんな優男が……」
男が俺の肩を掴もうと手を伸ばしてきた、その瞬間。
俺は箸を持ったまま、男の腕を軽く払い落とした。
「ガァッ!?」
それだけで男の腕は不自然な方向に曲がり、悲鳴を上げて床に転がった。
残りの二人が慌てて武器に手をかけようとするが、遅すぎる。
俺は立ち上がり、二人の鳩尾に寸止めで拳を叩き込んだ。衝撃波だけで二人は白目を剥き、崩れ落ちる。
「……食事の時間は、絶対に邪魔させない」
俺は冷たい声で見下ろした。
「次はない。二度とこの店に近づくな」
男たちは這うようにして店から逃げ出していった。
静寂が戻った店内で、俺はゆっくりと席に座り直す。
「すっげえ……! ジン兄ちゃん、やっぱり最強だ!」
トマが目を輝かせて身を乗り出してきた。
「ジンさん、ありがとうございます。また助けられちゃいましたね」
アリスがほっとしたように息を吐き、俺にお茶を差し出す。
「気にするな。俺は、この美味しいご飯を明日も食うために動いただけだ」
それが、今の俺の新しい信念だった。
復讐鬼として生きた十年間は、もう戻らない。だが、この温かい場所を守るためなら、俺の規格外の力も少しは役に立つ。
「姉ちゃん! 俺、ここで働く! 皿洗いでも掃除でもなんでもするから、ここに置いてくれ!」
トマがアリスに向かって頭を下げた。
「えっ? でも……」
「俺も頼む。こいつがいれば、俺がダンジョンに行っている間も店の様子を見れる」
俺が口を挟むと、アリスは少し驚いたように目を丸くし、やがて困ったように笑った。
「もう……二人して勝手なんだから。わかったわ、これからよろしくね、トマ君」
「やったあ!」
トマが無邪気に飛び跳ねる。
窓の外では、夕日が街をオレンジ色に染め始めていた。
俺とアリス、そして騒がしい弟分。
この小さな定食屋から始まる新しい日常が、確かな温もりを持って動き出していた。




