第4話
浅層特有の湿った土の匂いを完全に掻き消すように、濃厚な獣の臭気が鼻腔を突く。
俺は腰の剣の柄に手をかけ、足音を殺して通路の角を曲がった。
そこにいたのは、小山のような巨体を持つ四足歩行の魔物だった。
全身を覆う鋼鉄のような毛皮。岩盤を容易く砕く太い前脚。四つの赤い複眼が、暗闇の中で不気味に光っている。
『鎧熊』。
本来なら深層にしか生息しない魔物だ。
それがなぜ、太陽の光が届きそうなほど浅い場所にいるのか。
鎧熊は俺の存在に気づくと、血走った小さな目をぎらつかせ、地鳴りのような低い唸り声を上げた。
威嚇のつもりだろうが、俺の心は凪いだ水面のように静まり返っていた。
数日前までの俺なら、こいつの首を刎ねるついでに、八つ当たりのように周囲の壁ごと粉砕していただろう。
十年間。俺はメガロドン社への復讐だけを生きる目的にしてきた。
両親を過労死に追い込み、工場を騙し取った奴らを皆殺しにする。そのために、血を吐くような努力で自らを極限まで鍛え上げ、深層のボスすら瞬殺できる力を手に入れた。
だが、決行前日。
標的のメガロドン社は、ダンジョン事故に巻き込まれてあっけなく自滅した。
人生のすべてを懸けた復讐劇が、相手の自滅という形で突然終わりを告げたのだ。
行き場を失った殺意。空っぽになった心。
獣の生臭い息遣いが、俺を過去の記憶から引き戻した。
鎧熊が咆哮を上げ、地響きを鳴らして突進してくる。
俺は剣を抜かず、ただ静かに右の拳を握り込んだ。
目的を失い、死人のように歩いていた俺を救ってくれたのは、寂れた定食屋だった。
ふと入ったその店で、店主のアリスが作ってくれた普通の生姜焼き定食。
一口食べた瞬間、冷え切っていた胸の奥に、温かいものがじんわりと広がっていった。
美味かった。ただ、ひたすらに美味かった。
気がつけば、俺は涙を流していた。
復讐鬼として麻痺していた心に、人間らしい感情が芽生え始めた瞬間だった。あの温もりを思い出すだけで、今でも胸の奥が熱くなる。
突進してくる鎧熊の速度が、ひどく遅く感じる。
俺は軽く半歩だけ横にずれ、無防備になった巨体の脇腹に拳を沈めた。
ドゴォォォンッ!
鈍い破裂音が地下道に響き渡る。
鎧熊の巨体はくの字に折れ曲がり、反対側の石壁に激突して絶命した。
俺は拳を軽く振り、倒れた魔物を見下ろした。
あの定食屋には、地元のチンピラ探索者が嫌がらせにやってきていた。
借金を理由に店を奪おうとする地上げ屋の真似事。
俺はそいつらを瞬殺し、店の用心棒になった。
理由は単純だ。
この美味しいご飯を、明日も食うため。
復讐という過去の呪縛はもうない。今の俺の胸にあるのは、あの温かい居場所と平穏な日常を守るという、新たな信念だけだ。恩人の居場所を脅かす者は、容赦しない。
「……それにしても」
俺は鎧熊の死骸から魔石を抉り出しながら、周囲の空気を探った。
やはり、生態系のバランスが崩れ始めている。
俺が復讐の準備として深層のボスモンスターを狩り尽くしたせいか。それとも、あの地上げ屋から感じた不自然な魔力の残滓と関係があるのか。
ダンジョンの奥底から漂ってくる不穏な気配は、確実に浅層へと影響を及ぼしている。
だが、今の俺にとって重要なのは、ダンジョンの謎を解き明かすことではない。
「この毛皮と魔石なら、いい金になるな」
アリスの店の経営は苦しい。用心棒として、そして居候として、少しでも資金の足しになるものを持ち帰りたかった。
俺は手早く素材を解体し、袋に詰め込むと、地上への帰路についた。
◆ーーーー◆
探索者ギルドの換金所は、今日も多くの人間でごった返していた。
汗と血と泥の匂いが混ざり合う独特の空気。
俺がカウンターに麻袋を置くと、担当の受付嬢であるセリアが小走りでやってきた。
きっちりとした制服を着こなし、丸眼鏡の奥の知的な目を細める。
「お疲れ様です、ジンさん。今日はどんな素材を……って、ひっ!?」
袋の中身を覗き込んだセリアが、短い悲鳴を上げて後ずさった。
周囲の探索者たちが何事かと視線を向けてくる。
「どうした。買い取れないのか?」
「か、買い取れないわけじゃありませんけど! これ、鎧熊の毛皮と特大の魔石じゃないですか!」
「ああ。傷をつけないように、一撃で内臓だけを破壊して倒した。毛皮の品質は悪くないはずだ」
「そういう問題じゃありません!」
セリアはバンッとカウンターを叩き、胃のあたりを押さえた。
「ジンさん、今日は浅層の入り口付近を探索するって言ってましたよね? なんで深層の魔物の素材が出てくるんですか!」
「浅層にいたからだ」
「……はい?」
「入り口から少し進んだ通路で遭遇した。向こうから突進してきたから、殴って倒しただけだ」
俺が淡々と事実を告げると、セリアは頭を抱えてうめき声を上げた。
真面目で責任感の強い彼女は、俺が規格外の素材を持ち込むたびにこうして胃を痛めている。少し申し訳ない気もするが、事実なのだから仕方がない。
「……わかりました。すぐに査定します。ただ、少しお時間をいただきますね。これほどの高品質な素材となると、私の一存では金額を決められないので」
セリアはため息をつきながら、奥の部屋へと素材を運んでいった。
数分後、戻ってきた彼女の顔には、疲労の色が濃く浮かんでいた。
提示された金額は、俺の予想を遥かに上回るものだった。これなら、アリスの店の当面の資金繰りはなんとかなるだろう。
「ジンさん、少し真面目な話をしてもいいですか」
金貨の入った袋を受け取ろうとした俺を、セリアが真剣な表情で引き留めた。
「なんだ」
「最近、ダンジョンの様子がおかしいんです。ジンさんが遭遇した鎧熊のように、強い魔物が浅層に降りてきているという報告が、ここ数日で相次いでいて……」
セリアは周囲を気にするように声を潜めた。
「ギルドの上層部も調査に乗り出していますが、原因はまだわかっていません。ダンジョン内の生態系バランスが、根本から崩れ始めているのかもしれません」
「そうか」
「そうか、じゃありませんよ! 浅層だからといって油断しないでくださいね。ジンさんは強いですけど、何が起こるかわからないんですから」
心配してくれているのはわかる。
だが、俺の意識はすでに別のところに向いていた。
「なあ、セリア」
「はい? なんですか、改まって」
「この辺りの階層で、美味いキノコが採れる場所はないか?」
「……は?」
セリアの丸眼鏡がずり落ちた。
「アリスの店で、新しいメニューを考えているんだ。秋だし、キノコを使った料理がいいと思ってな。普通の食材は市場で買えるが、ダンジョン産の高級キノコがあれば、もっと美味い飯が食えるはずだ」
「……ジンさん」
「なんだ」
「私の話、聞いてました?」
「聞いていたぞ。強い魔物が降りてきているから気をつけろ、だろう? 問題ない。食事の時間を邪魔する奴は、全部殴り倒す」
セリアは深く、深くため息をつき、再び胃のあたりを押さえた。
「もう……ジンさんの常識外れには慣れたつもりでしたけど、やっぱり胃薬が手放せません。キノコの群生地なら、第二階層の東エリアにあります。でも、本当に気をつけてくださいね」
「ああ、恩に着る」
俺は金貨の袋を懐にしまい、ギルドを後にした。
外に出ると、空はすでに夕暮れの色に染まり始めていた。
冷たい風が頬を撫でる。
生態系異常。強い魔物が浅層に降りてきている。
セリアの言葉が、頭の片隅で反響していた。
もしこのまま異常が加速し、魔物たちがダンジョンの外へ溢れ出すようなことになれば、街にどんな影響を及ぼすのか。
そして、あの不自然な魔力の残滓。
メガロドン社を壊滅させた大規模な崩落事故と、今の生態系異常。
これらがただの偶然の連鎖だとは、どうしても思えなかった。
誰かが意図的にダンジョンの構造を弄っているとしたら。
その目的は一体何なのか。
街の喧騒の中で、俺は空を見上げた。
平穏な日常と、美味しいご飯。
俺が手に入れたばかりのささやかな幸せの裏側で、何かが静かに、だが確実に動き出している。
不穏な影が、この街を包み込もうとしていた。




