第28話
槌で鋼を叩く高い音が、通り沿いの工房から規則正しく響いていた。
炉から立ち上る熱気と油の匂いが混ざり合う中、俺は作業台の前に立ち、布に包んだ包丁を差し出した。布を解くと、黒鈍色の刀身が鈍い光を放つ。刃先にわずかだが、目に見える小さな欠けができていた。
作業用の革エプロンをつけた赤髪の女性――ドーラは、額の汗を手の甲で無造作に拭いながら、その包丁を指先でつまみ上げた。
「……おいおい。あんた、伝説級の魔鉱石で作った業物を、一体どんな使い方したらこんな風に欠けさせられるんだい?」
「少し硬い連中を相手にしただけだ」
俺が淡々と答えると、ドーラは太い眉を吊り上げ、呆れたように深く息を吐き出した。
「少し硬い、ねえ。街の外をごっそり踏み荒らそうとした化け物どもを、この一本でまとめて叩き斬ったって話じゃないかい。セリアの嬢ちゃんからも聞いたよ。まったく、うちの鍛冶場で作った包丁が街を救う大立ち回りをするなんて、前代未聞だね」
彼女はブツブツと小言を並べ立てながらも、手元に拡大鏡を引き寄せ、欠けた刃の断面をじっくりと観察し始めた。職人の鋭い目が、傷口の深さと金属の歪みを的確に見定めていく。
「……まあ、刃こぼれ自体は浅い。芯までヒビは入っちゃいないよ。これなら研ぎ直せば元通り、いや、前より馴染むように仕上げてやるさ」
「頼む。近いうちに店を開け直す予定だからな。切れ味が落ちていると、仕込みに差し障る」
「へいへい。魔獣をぶった切るためじゃなく、大根や肉を刻むための研ぎ直しってわけだ。道具にとっちゃ、そっちのほうがよっぽど幸せな余生だろうさ」
ドーラはからからと豪快に笑うと、黒い包丁を砥石の置かれた水桶の脇へ丁寧に置いた。
「あんたが無茶な戦い方をしても壊れないように、アタシが何度でも完璧に手入れしてやる。アリスの飯が食えなくなったら、アタシだって困るからね。裏方の仕事は任せときな」
「助かる」
短い礼を告げて工房を後にすると、外の空気は驚くほど澄んでいた。かつて街を覆っていた重苦しい空気は完全に晴れ渡り、空には筋雲が静かに流れている。
◆ーーーー◆
定食屋の前まで戻ってくると、槌や鋸の音が賑やかに響き渡っていた。
バルザックが手配してくれた大工たちが、手際よく柱を補強し、割れた壁板を新しい木材へと張り替えている。杉の清々しい香りが、吹き抜ける風に乗って漂っていた。
その足元で、泥だらけになりながら動き回る小さな影があった。
「うおっと……重ってえな、これ!」
トマが額に汗を滲ませ、自分の体ほどもある壊れた看板板を一生懸命に抱え上げていた。足元がおぼつかず、ぐらりとよろめく。
俺は背後から歩み寄り、板の端を片手で軽く支え上げた。
「無理をするな。重いものは大工か俺に任せろ」
「あ、ジン! へへ、大丈夫だって! 俺だってこれくらい運べるぞ。一日でも早く店を元通りにして、アリス姉ちゃんの料理を食いたいんだからさ」
トマは鼻の頭を煤で汚したまま、いたずらっぽく白い歯を見せた。強がりを言いつつも、持ち上げた板の重さに腕をぷるぷると震わせている。
俺は苦笑を漏らすこともなく、少年の手から木板をひょいと持ち上げ、廃材置き場の荷車へと放り込んだ。
「気持ちは分かるが、怪我をしたら開店の日に飯が食えなくなるぞ」
「うっ……それは困る。すげえ困る」
途端に真顔になったトマが、大げさに両手で腹を押さえる。その仕草があまりにも直球で、張り詰めていた肩の力が自然と抜けていくのを感じた。
「じゃあ、俺は掃き掃除をやるよ! 箒なら怪我もしないだろ!」
トマは店先から竹箒を引っ張り出してくると、飛び散った木屑や小石を勢いよく集め始めた。背丈に合わない大きな箒を懸命に操る姿は、どこか微笑ましい。
俺も手近にあった金槌を拾い上げ、外れかけていたテラス席の柵を叩いて固定し直す作業に加わった。力任せに打ち込むと木が割れてしまうため、手首のスナップだけで適度な力加減を保ちながら釘を打ち込んでいく。
トントントン、と規則正しい音が響く。
かつて自分の手は、破壊と略奪への反撃のためだけに鍛え上げてきたはずだった。岩を砕き、鋼を断ち、敵を屠るための力。だが今、その腕は小さな店の柵を直し、少年が掃き集めたゴミを運ぶために動いている。
不思議と、退屈だとは思わなかった。むしろ、釘が一本きれいに収まるたび、胸の奥にあった冷たい隙間が、じんわりと温かいもので満たされていくような気がした。
「なあ、ジン」
箒を動かしていたトマが、ふと手を止めてこちらを見上げてきた。
「ん?」
「あの悪い奴らを追い払ってくれたの、あんたなんだろ? 大工の小父さんたちも、街の連中も、みんなジンの噂をしてたぜ。すっげえ強い奴がいるって」
トマの瞳には、一切の濁りがない純粋な憧れが宿っていた。畏怖でも、利用しようとする下心でもない。ただの、頼もしい存在を見る少年の目だった。
「大したことじゃない。邪魔な障害を片付けただけだ」
「またそうやって素っ気ないこと言うー。でもさ……ありがとな。この店を壊させないでいてくれて」
トマは少し照れくさそうに視線を泳がせ、足元の砂利を箒の先でつついてみせた。
親を亡くし、路地裏で生きるしかなかったこの少年にとって、この定食屋はただの飲食店ではない。温かい食事と、帰る場所を与えてくれた本当の家なのだ。
俺は手に持っていた金槌を腰の道具袋に収めると、トマの前にしゃがみ込んだ。
そして、埃まみれの茶色い髪に、大きな手をそっと乗せる。無造作に、だが乱暴にならないよう、少年の頭をゆっくりと撫でた。
「……ジン?」
突然のことに目を丸くしたトマが、間抜けな声を漏らす。言葉を知らない不器用な手のひらだったが、俺なりに込められるだけの安堵と肯定を、その温もりに乗せた。
「お前が毎日ここで飯を食う場所は、俺が守る。だから、そんな顔をするな」
「……っ、へへ。当たり前だろ! 俺はここで一番の大食いになるんだからな!」
トマは鼻をすすり、くしゃりと顔を崩して笑った。照れ隠しのように箒を大きく振り回す少年の背中を、夕暮れの淡い朱色が柔らかく包み込んでいく。
復讐という暗い執念から始まった長い年月は、すでに終わりを迎えた。失ったものは二度と戻らない。けれど、新しく手に入れたこの場所と、この温もりだけは、誰にも奪わせるつもりはなかった。
◆ーーーー◆
夜の帳が下りる頃、修繕の槌音はようやく止み、街に静寂が戻ってきた。
新築のような真新しい木の匂いと、長年染み付いた料理の香りが混ざり合い、定食屋の店内には落ち着いた空気が満ちている。
厨房の奥からは、仕込みの鍋がコトコトと微かな音を立てていた。アリスが明後日の営業再開に向けて、じっくりと出汁を取っているのだろう。
トマはすっかり疲れ果てたのか、店内の長椅子の上で丸くなって規則正しい寝息を立てていた。その小さな肩に、アリスが持ってきた厚手のブランケットをそっと掛け直す。
外に出ると、夜空には満天の星が広がっていた。冷たい夜風が火照った頬を撫でていく。
明日もまた、店の片付けと仕込みの手伝いがある。朝になればドーラのところへ行き、研ぎ直された包丁を受け取ってこなければならない。当たり前のようでいて、これ以上なく贅沢な日々の予定が、頭の中に穏やかに並んでいた。
再開した店のカウンターで、最初に口にする出来立ての料理はどんな味がするだろうか。
そんな他愛のないことを考えながら、俺は静まり返った夜の街を眺め、深く息を吸い込んだ。




