第29話
夜の冷気が、換気窓の隙間からわずかに流れ込んできた。
大工たちが残していった新しい木材の清々しい匂いと、換気扇の周りに染みついた長年の油の香りが、店内の空気の中で心地よく溶け合っている。昼間の槌音と埃っぽさはすっかり消え去り、ピカピカに磨かれた板張りの床が、吊り下げランプのオレンジ色の光を柔らかく反射していた。
俺は厨房と客席を仕切る一枚板の前に置かれた丸椅子に深く腰掛け、両手を膝の上に置いた。
目の前の厨房では、アリスが白いエプロンの紐をキュッと結び直したところだった。明日の営業再開に向けて、彼女はすでに腕まくりをしている。その表情には、ここ数日続いていた緊張や疲労の色はなく、どこか浮き立つような明るさが戻っていた。
「よしっ、まずはタレから作っちゃいますね」
アリスが振り返り、俺に向かって楽しそうに声をかける。
「手伝うことはあるか」
「ううん、大丈夫ですよ。重い寸胴鍋も野菜のコンテナも、さっきジンさんが全部運んでくれましたから。今はそこで、ゆっくり座っててください」
彼女は真新しい作業台にまな板を据え、手際よく包丁を構えた。
トントン、と小気味のいい包丁の音が店内に響き始める。生姜の繊維を断ち切る鋭い音、すりおろされるニンニクの独特の芳香が、ふわりと客席まで漂ってきた。鍛冶師のドーラに研ぎ直してもらった愛用の包丁は、吸い込まれるように食材へと刃先を滑らせている。
俺は黙ってその手元を見つめていた。無駄のない動き。火の通りやすさを考え、均一な厚みに揃えられていく野菜たち。十年もの間、ダンジョンの暗闇で魔獣の急所を狙うことばかりに研ぎ澄まされてきた俺の視力は、今や少女が刻む生姜の細さを見分けるために使われていた。
そんな自分の変化に、わずかな可笑しさを覚える。
少し前まで、俺の全身を縛りつけていたのは冷え切った怨嗟だけだった。奪われた家族の無念を晴らすこと、その一点のためだけに肉体を極限まで痛めつけ、化け物じみた力を手に入れた。だが、その力の使い道は、憎しみを晴らすことではなく、このささやかな明かりを守ることに落ち着いたのだ。
「ジンさん、ちょっとこれ見てもらえますか?」
アリスが調理台の棚の奥から、手のひらサイズの小さな陶器の小瓶を取り出した。黒褐色の釉薬が塗られた、古びた瓶だ。
彼女は愛おしそうに瓶の表面を指先でなぞりながら、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「お父さんの、形見の調味料です」
それはかつて、悪徳企業の残党や怪しげな連中が血眼になって狙っていた、ダンジョン深層由来の希少な魔力素材だった。ほんのひとさじで素材の旨味を爆発的に引き上げる一方で、その特異な魔力反応ゆえに、この店を狙い撃ちにする口実にも使われていた代物だ。
だが、黒幕だった男も、その企みに群がっていた悪意も、すべて跡形もなく消え去った。
「もう、誰かに狙われる心配はありませんよね」
アリスは小瓶のコルク栓を静かに抜いた。漂ってきたのは、危険な魔力の気配などではなく、熟成された果実と香辛料が織りなす、どこか懐かしく深みのある芳香だった。
「ああ。もう誰も奪いに来たりしない」
「よかった……。これ、お父さんがずっと大切に調合を重ねていたものなんです。危ないものだって言われて、一時は捨ててしまおうかとも思ったんですけど……やっぱり、捨てられなくて」
アリスは小瓶からスプーンの先ほどのごく微量をすくい取り、煮立たせている生姜焼き用の特製醤油ダレの中へと落とした。
ジュッ、と小さな蒸気が立ち上る。甘辛い醤油とみりんの香りに、奥深いコクと微かな刺激が溶け合い、店内の空気が一瞬にして豊かな匂いで満たされた。魔力素材としての危険性は完全に鳴りを潜め、純粋に料理を極上に仕立てるための、唯一無二の隠し味へと還っていた。
「ふふ、いい匂い。やっぱり、お父さんの味はこうでなくちゃ」
アリスは熱したフライパンへ油を引き、豚肉を滑り込ませた。
ジュワアアッ、と食欲を刺激する豪快な音が立ち上った。
肉が縮まないよう菜箸で手早く広げ、焼き目をつけていく。香ばしい煙が換気扇へと吸い込まれ、黄金色のタレが回し入れられると、パチパチとタレが弾ける音とともに、濃厚な香りが一気に膨らんだ。
アリスの額に、微かな汗が浮かぶ。真剣でありながら、どこまでも楽しそうな横顔だった。誰かのために料理を作るという行為そのものが、彼女にとっての生きがいなのだということが、見ているだけで伝わってくる。
俺には、料理の繊細な技術も、店を切り盛りする商売の才覚もない。世間の流行も知らなければ、気の利いた冗談で客を笑わせることもできない。十年の空白は、そう簡単に埋まるものではなかった。
それでも、彼女がこうして安心して火の前に立てる場所を保ち続けることならできる。誰にも踏み荒らさせず、理不尽な暴力からこの厨房を守り抜くことなら。
「はいっ、お待たせしました!」
アリスが小皿に盛り付けた出来立ての生姜焼きと、小さめの箸を持って客席側へと回ってきた。
「再開前の、一番最初の味見役をお願いします。ジンさんの感想が、明日の自信になるので」
目の前に差し出された小皿には、照りよく焼き上がった豚肉が一切れ、千切りのキャベツとともに乗せられていた。立ち上る湯気の中に、生姜の爽快な辛みと、タレの濃厚な甘みが凝縮されている。
「いただきます」
短く呟き、箸を伸ばす。
肉を持ち上げると、驚くほど柔らかくしなり、タレが滴り落ちた。口に運ぶと、まず舌の上に広がったのは、ガツンとした生姜の風味と豚肉のジューシーな旨味だった。
そして噛みしめるごとに、隠し味の深みが肉の甘みを何倍にも引き立てていく。濃いめの味付けなのに、後味は決してくどくなく、すぐに白米をかき込みたくなるような、あの定食屋の味が完璧に再現されていた。
「……美味い」
一言だけ零すと、アリスの瞳がパッと輝いた。
「本当ですか? タレの濃さとか、生姜の効き具合はどうですか?」
「文句のつけようがない。これなら、明日来た連中も全員満足するはずだ」
「よかったぁ……!」
アリスは心底ホッとしたように胸に手を当て、満面の笑みを咲かせた。その飾らない笑顔を見ていると、胸の奥底にあったわだかまりが、すうっと溶けていくような感覚があった。
血と泥にまみれた十年間。復讐のためだけに命を削り、他者を拒絶し続けてきた日々の果てに、俺が本当に求めていたのは、誰かを打ち倒すことではなかった。
ただ、こうして温かいものを温かいうちに口にし、穏やかな顔で笑う誰かと同じ時間を過ごすことだったのだ。
「明日は、バルザックさんもセリアさんも、それにギルドの人たちもたくさん来てくれるって言ってました。トマも朝から手伝うって張り切ってますし、きっと大忙しになりますね」
アリスは嬉しそうにこれからの予定を語りながら、使い終わった調理器具を手際よく洗い場へと運んでいく。
「ああ。米は多めに炊いておいたほうがいい」
「そうですね! ジンさんが食べる分だけでも、普段の二倍は必要ですもんね」
「……そこまで食わない」
「ふふ、嘘ばっかり。いつも大盛りご飯をおかわりしてるじゃないですか」
悪戯っぽく笑うアリスに、俺は少しだけ視線を逸らし、小さく息を吐いた。
窓の外は静まり返り、夜空には満天の星が瞬いている。かつて恐れていた破壊の足音も、過去への囚われも、ここにはもう何一つ存在しない。
明日になれば、またこの扉が開き、たくさんの足音と笑い声が店を満たすだろう。新しい一日の始まりを待ちわびながら、俺は静かに茶をすすり、厨房から響く心地よい水音に耳を傾けていた。




