第26話
地鳴りのような咆哮が徐々に遠ざかり、街を覆っていた重苦しい瘴気は薄れ始めていた。
ゲイツの供給していた異様な魔力が完全に途絶えたことで、街中を徘徊していた魔獣たちは次々と輪郭を崩し、黒い煙となって大気の中へ霧散していく。
暴風のように吹き荒れていた破壊の気配は、嘘のように引き潮へと変わっていた。
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崩落の進む地下施設の一角で、コルテスは足をもつれさせながら崩れ落ちた。
「嘘だ……あの怪物を手懐けて、私がこの街の新たな支配者になるはずだったのだ……!」
仕立ての良いスーツは粉塵と泥にまみれ、くわえていた高級な葉巻はどこかへ吹き飛んでいた。狡猾に立ち回り、ゲイツの狂気を利用してすべてを手に入れようとした算段は、あまりにも無残に崩壊した。
頭上のコンクリートが鈍い音を立てて裂け、巨大な瓦礫が容赦なく降り注ぐ。
「待て、私はまだ……こんなところで……!」
自らの欲深さが招いた結末に絶叫を上げながら、悪徳商人の姿は崩れ落ちる天井の闇の中へと飲み込まれていった。
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地上への階段を抜け、冷たい夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
俺は崩壊を免れたダンジョンの出入口から外へと足を踏み出す。街のあちこちには爪痕が残っていたが、建物が倒壊するほどの致命的な被害は免れていた。
遠くで消火活動や怪我人の手当てを行う探索者たちの声が響いている。
十年間、胸の奥で渦巻いていたどす黒い感情は、もはや欠片も残っていなかった。かつての俺を突き動かしていたのは、奪われたものへの執着と、加害者への果てしない憎悪だけだったはずだ。
だが、今こうして立ち止まり、夜空を見上げている俺の胸にあるのは、まったく別の感情だった。
あの店を、アリスが笑顔で迎えてくれる食卓を、くだらない雑談で笑い合える時間を守り抜けたという、確かな安堵。
「……腹が減ったな」
独り言を呟きながら、俺は指定されていた避難所——バルザックの屋敷へと向かった。
広い屋敷の前庭には、避難していた住人たちが集まり、脅威が去ったことを知って涙を流したり、互いに抱き合ったりしていた。
人混みをかき分けて門をくぐると、玄関のポーチに立つ見慣れた小さな人影が目に留まった。
「……おい」
俺が声をかけると、エプロン姿のまま不安そうに夜空を見上げていたアリスが、弾かれたようにこちらを振り返った。
その隣でしゃがみ込んでいたトマも、勢いよく顔を上げる。
「あ……! ジンさん……!」
アリスの瞳が大きく見開かれ、瞬く間に涙が溢れ出した。
「兄ちゃん! 無事だったのかよ!」
トマが泥だらけの服のまま、全速力で駆け寄ってきた。そのまま俺の腰のあたりに頭から突っ込んでくる。受け止めた衝撃で、少しだけ背中の筋肉が軋んだが、俺は少年の背中を軽く叩いてやった。
「言っただろ。すぐに片付けて戻るって」
「馬鹿野郎、心配したんだぞ! あんなでかい化け物の声が何回も響いて……もう駄目かと思ったんだからな!」
トマは鼻をすすりながら、俺の上着に顔を擦りつけて泣きじゃくった。
ゆっくりと歩み寄ってきたアリスは、俺の全身をくまなく見渡し、煤だらけの頬を緩ませた。
「本当によかった……。怪我は……大きな傷はありませんか?」
「ああ。かすり傷程度だ。問題ない」
「嘘ばっかり。服、こんなにボロボロじゃないですか」
アリスは困ったように眉を下げながらも、そっと両手を伸ばしてきた。そして、俺の無骨な右手を、両手で包み込むようにぎゅっと握りしめた。
彼女の手は少し冷えていたが、掌の奥からは確かな温もりが伝わってくる。
「……おかえりなさい、ジンさん」
「……ああ。ただいま」
その言葉を口にした瞬間、張り詰めていた肩の力が完全に抜けていくのを感じた。
十年前、すべてを失った日から、俺には「ただいま」を言う相手も、「おかえり」と迎えてくれる場所もなかった。暗い迷宮の底で刃を研ぎ澄ますことだけが、生きている証拠だと思い込んでいた。
だが、今は違う。
帰りを待っていてくれる人間がいて、戻るべき場所がある。
「腹が減った。あいつらを片付けたら、急に猛烈な空腹が来てな」
俺がぶっきらぼうにそう言うと、トマが涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて呆れたように笑った。
「へへっ、兄ちゃんはどんな時でも飯の話ばっかりだな!」
「当たり前だ。生きるために食うんだからな」
「ふふ、そうですね」
アリスは目元の涙を指先で拭い、いつもの明るい笑顔を浮かべた。
「屋敷の厨房をお借りして、温かいものを作って待っていたんです。冷めないうちに、中へ行きましょう。今夜は特別に、大盛りにしてあげますから」
「頼む。いくらでも食えそうだ」
「ほら兄ちゃん、早く早く!」
トマに背中を押され、アリスの柔らかな手に引かれながら、俺は湯気とスープの匂いが漂う屋敷の中へと足を踏み入れた。
過去の因縁はすべて消え去り、もう俺を縛りつけるものは何もない。
東の空が、ほんのりと白み始めていた。街を包んでいた長い夜が明け、静かで穏やかな朝が訪れようとしている。
これから先、壊れかけた街を立て直すには時間がかかるだろう。定食屋の営業を再開するまでにも、片付けや仕込みで一苦労するはずだ。
けれど、そんな日常の苦労さえも、今の俺にはたまらなく愛おしく思えた。
美味しいご飯を食べて、他愛のない話で笑い合い、明日を迎える。そんな当たり前の毎日を過ごすために、俺はここにいるのだから。




