第25話
迫り来る黒い刃の切っ先が、俺の視界を真っ直ぐに貫こうとしていた。
空気が軋みを上げ、耳障りな魔力の唸りが鼓膜を震わせる。ゲイツの異形と化した腕から放たれる殺意は、部屋の温度を急激に下げていくようだった。
けれど、俺の心には波風一つ立っていなかった。
かつて俺を突き動かしていた暗い執念も、胸を焼き尽くすほどだった怨嗟も、今はこの身のどこを探しても見当たらない。目の前で狂乱する男は、十年の歳月を費やして追い求めた宿敵などではなく、ただ平穏を脅かす邪魔者にすぎなかった。
「消えろぉぉぉっ!」
黒刃が鼻先数ミリまで肉薄する。
俺は右手に握った包丁を、ただ自然な動作で振り抜いた。
研ぎ澄まされた刃先が、空間に細い銀の軌跡を描く。
力任せの強振ではない。食材の繊維を断ち切るように、無駄な力を一切削ぎ落とした、静謐な一太刀だった。
手応えは、紙を一枚切り裂いた程度にすぎなかった。
「……え?」
ゲイツの口から、間の抜けた声が漏れた。
男の腕から伸びていた黒い刃が、中央から綺麗に両断され、空中で砕け散る。それだけにとどまらず、刃筋から生じた鋭い衝撃波が、ゲイツの右腕そのものを根元から断ち割っていた。
切断面から噴き出した魔力の奔流が、壁を叩いて霧散していく。
「ば、馬鹿な……私の全魔力を注ぎ込んだ一撃だぞ……! なぜ、そんな、たかが調理器具ごときに……っ!」
後退りしながら、ゲイツは左手で右肩を押さえた。その顔は恐怖に歪み、脂汗が滝のように流れ落ちている。
俺は包丁を構え直すこともせず、歩調を緩めずに距離を詰めた。
「あんたの都合なんて、知ったことじゃない」
低く、乾いた声が自分の口から出た。
「俺はただ、あの店で飯を食いたいだけだ。そこを荒らそうとするなら、誰だろうと叩き出す」
「ふ、ふざけるな! 私はメガロドン社の幹部だった男だぞ! こんな吹き溜まりのような街で、貴様のような路傍の虫けらに討ち取られてたまるかぁっ!」
ゲイツは残された左腕を床に突き立て、最後の魔力を地面へと流し込んだ。
施設全体が激しく震動し、床の亀裂から赤黒い光が噴き上がる。同時に、部屋の四方に設置されていた防護壁が砕け散り、外で待機していた暴走モンスターの群れが雪崩を打って押し寄せてきた。
鋼鉄の毛皮を持つ巨狼、三つの頭を持つ大蛇、そして岩石を纏った巨人。
どれもが深層付近でしか見られない凶悪な魔獣たちだ。理性を失い、血に飢えた瞳を爛々と輝かせながら、一斉に俺へと殺到する。
「行け! 喰い殺せ! 跡形もなく引き裂いてしまえ!」
ゲイツが高笑いを上げながら叫んだ。
だが、俺の足は止まらない。
深呼吸を一つ。肺に冷たい空気を満たし、全身の魔力循環を研ぎ澄ます。
十年間、暗闇の底でただひたすらに磨き続けた力。かつては誰かを呪い殺すためだけに欲したその力を、俺は今、目の前の邪魔者を排除するためだけに解放した。
踏み込みは一歩。
床の石畳が爆ぜ、視界の景色が一瞬で後方へと流れ去る。
先頭を走っていた巨狼が、牙を剥いて飛びかかってきた。
その動作は、まるで止まっているかのように遅い。俺はすれ違いざまに包丁を一閃させ、獣の首を正確に刎ね飛ばした。血飛沫が上がるよりも早く、次の標的へと地を蹴る。
三頭の大蛇が放った毒液の弾幕を、僅かな身の熟しで掻い潜る。
空中で身を捻りながら包丁を横に薙ぐと、三つの首が同時に宙を舞った。巨大な胴体が床に崩れ落ち、轟音を立てて横たわる。
「ヒッ……な、なんだその動きは……!?」
ゲイツの悲鳴を置き去りに、残る最後の一体へと地を蹴る。
最後に立ち塞がった岩石の巨人が、丸太のような腕を振り下ろしてくる。
俺はその拳を躱すことすらせず、真っ向から包丁の先端を突き立てた。
硬質な岩肌と刃が衝突し、火花が散る。次の瞬間、包丁から放たれた極小の魔力波が巨人の体内を駆け巡り、核となる魔石を内側から粉々に破砕した。
巨大な岩の塊が、砂の城のようにサラサラと崩落していく。
群れを成していた魔獣たちは、わずか数秒の間に、すべて床の染みと成り果てていた。
舞い散る粉塵の中を歩き、俺は再びゲイツの前に立った。
男は尻餅をついたまま、ガチガチと歯を鳴らして震えていた。傲慢だった表情は見る影もなく消え失せ、瞳には底知れない恐怖だけが張り付いている。
「ひ、化け物……貴様、何者なんだ……! なぜそんな力を持ちながら、あんな小汚い定食屋などに……!」
「美味いからだ」
短く答えると、ゲイツは理解できないものを見る目で俺を見上げた。
「……は?」
「あそこの飯は、美味い。それ以上の理由が必要か」
俺は包丁の切っ先を、ゲイツの胸元へと向けた。
男の胸に埋め込まれた最後の魔力核が、限界を告げるように点滅している。
「待て……待ってくれ! 金ならいくらでもやる! 私が隠し持っている資産のすべてを貴様に譲る! だから命だけは――」
「いらない」
ゲイツの言葉を遮り、刃を突き入れた。
抵抗らしい抵抗は何もなかった。包丁の切っ先が核に触れた瞬間、パキンと乾いた音が室内に響き渡る。
「あ……あああぁぁぁっ……!」
ゲイツの体から、眩い光の奔流が溢れ出した。
暴走した魔力が肉体を内側から侵食し、輪郭を崩していく。男の絶望に満ちた叫び声は、光の唸りにかき消され、やがて粒子となって大気の中へと溶けていった。
後には、ただ静まり返った廃墟のような部屋が残されるだけだった。
激しい揺れが収まり、地下施設を覆っていた不気味な気配が急速に薄れていく。ダンジョンの自壊を促していた強制シークエンスも、元凶の消滅によって完全に停止したようだった。
「ふぅ……」
俺は長く息を吐き出した。
右手に持った包丁を見つめる。激しい戦いをくぐり抜けた刃には、先端にほんの少しだけ小さな欠けができていた。
「あとで研ぎ直さないとな」
カチリと音を立て、包丁を腰の鞘へと納めた。
胸に手を当ててみる。鼓動は驚くほど穏やかで、かつて感じていたような焦燥や虚しさはどこにもなかった。
両親を奪った会社はとうに潰れ、その残党も今、完全に消え去った。
復讐という名の長い旅路は、本当に終わったのだ。
かつて想像していた結末とはまるで違う。虚無感に苛まれることも、生きる意味を見失って立ち尽くすこともない。
俺には、戻るべき場所がある。
瓦礫を踏み越え、地上へと続く階段へと歩き出した。
地下の淀んだ空気から抜け出し、階段を上がるごとに、外の清涼な風が肌を撫でる。
出口の扉を押し開けると、そこには夕暮れに染まった街の景色が広がっていた。
遠くから、復旧作業に追われる人々の声や、日常を取り戻しつつある街の喧騒が微かに聞こえてくる。壊されずに済んだこの街の営みが、夕闇のグラデーションの中に温かく灯っていた。
胃袋が、小さく音を立てて鳴った。
そういえば、今日は朝から何も口にしていなかった。
思い浮かぶのは、あの小さな定食屋の暖簾と、厨房から漂ってくる食欲をそそる香ばしい匂い。
そして、いつも笑顔で迎えてくれるあの人の姿だった。
「……早く帰るか」
俺は誰に聞かせるでもなく呟き、夕暮れの街へと一歩を踏み出した。
冷え始めた風が背中を押す中、俺の足取りは、これまでのどんな戦場へ向かう時よりも軽やかだった。




