第22話
六本の腕から放たれた紫黒の魔力刃が、甲高い風切り音を立てて交錯した。
分厚い石畳の床が豆腐のように切り刻まれ、粉塵が視界を埋め尽くす。
だが、その凶刃が俺の肌をかすめることはない。
俺は最小限のフットワークで間合いを外していた。
かつての俺なら、怒りに任せて正面から力づくで叩き潰していただろう。だが今は違う。無駄な力みは一切ない。呼吸を整え、刃の軌道、筋繊維の収縮、踏み込みの重心を、包丁で魚の骨を外すように淡々と見極める。
「……終わりだ」
鋭く踏み込み、腰の包丁を一閃させた。
ドーラが調整を施した刃が、微かな銀の光跡を描く。
魔力を刃の極薄の切断面だけに凝縮させた、無駄のない水平の薙ぎ払い。
閃光が奔った次の瞬間、怪物の六本の腕が同時に宙を舞った。
肉を断つ抵抗すら指先に返ってこない。
さらに反転し、怪物の胸元に埋め込まれていた紫色の魔道具へ向けて、刃の先端を正確に突き通す。
パキン、と硬質な破砕音が回廊に響いた。
怪物の全身を巡っていた禍々しい発光が急速に色褪せていく。
巨体が崩れ落ち、ただの動かない肉塊となって床に横たわった。苦痛に歪んでいた怪物の四つの瞳は、光を失う直前、どこか安堵したように閉じられた。
「ふぅ……」
息をひとつ吐き、包丁の刃先を軽く振って血糊を払う。
手応えは悪くない。力が空回りせず、思い描いた通りに指先まで通っている。
俺は立ち止まることなく、ダンジョンの下層へと続く階段へ足を向けた。
迷宮の深部へ向かう通路は、ゲイツの手によって無残に改変されていた。
壁面にはびっしりと違法な術式が刻まれ、床からは周期的に毒素を帯びた魔力の棘が突き出してくる。
さらに、天井の隙間からは酸性の粘液を吐き出す小型の変異種が雨のように降り注いできた。
「グルルッ!」
「ギャアアッ!」
通路の曲がり角ごとに待ち構えていた防衛部隊の魔獣たちが、一斉に牙を剥く。
数にして数十。どれも通常なら上位の探索者パーティが悲鳴を上げて撤退するレベルの凶悪な個体ばかりだ。
だが、俺の足を止めるには足りない。
俺は歩調を緩めることすらなく、直進した。
迫り来る酸の弾幕を、包丁の腹で軽く弾き返す。弾かれた酸は正確に天井の変異種たちへと撥ね返り、自らの毒で溶け落ちていく。
足元から突き上がる魔力の棘は、発生する直前の地面を踏み砕くことで術式の起点ごと圧殺した。
「そこをどけ――急いでるんだ」
群がる魔獣の群れの真ん中を、俺はただ真っ直ぐに駆け抜けた。
すれ違いざま、銀色の軌跡が回廊を埋め尽くす。
首、胴、関節。急所だけを正確に削ぎ落とされた魔獣たちが、俺の背後で次々と物言わぬ残骸へと変わっていった。
罠も、防壁も、圧倒的な物量も、意味をなさない。
かつて俺がこのダンジョンで振るっていた暴力は、憎悪を撒き散らすためのものだった。ただ目の前のすべてを壊し、自らの命すら削るような荒んだ刃。
けれど、今の俺を動かしているのはそんな過去の澱みじゃない。
アリスが作ってくれる、生姜焼きの香ばしい匂い。
トマが無邪気に笑いながら米粒を頬につけている姿。
セリアが呆れたようにため息をつくギルドの窓口。
あの場所へ戻る。温かい食事の待つ食卓へ、必ず生きて帰る。
その明確な意志が、俺の感覚を研ぎ澄まし、技から一切の迷いを削ぎ落としていた。
厚さ一メートルを超える強化合金の防護扉が通路を塞いでいたが、俺は立ち止まらずに包丁を一閃させ、扉ごと背後の制御装置を一刀両断した。
轟音と共に両開きの重厚な扉が吹き飛び、最深部の空間が開かれる。
そこは、かつてメガロドン社が極秘裏に建造したダンジョン深部の制御ルームだった。
巨大な魔導コンソールが無数に並び、部屋の中央には巨大な魔力結晶炉が不気味な紫色の脈動を繰り返している。床一面には太い魔力ケーブルが蛇のように這い回り、その中心に、見覚えのある男が立っていた。
高級な仕立てだったはずのスーツはボロボロに裂け、髪を振り乱した恰幅の良い中年男――ゲイツだ。
「ハハ……ハハハ! 来たか、ネズミめ! 防衛ラインをすべて突破してくるとはな!」
ゲイツは充血した目を剥き出しにして、狂気に満ちた笑い声を上げた。
その手には、禍々しい紫色の光を放つ異形の魔道具が握られている。心臓のようにドクドクと拍動するその装置からは、周囲の空間を歪めるほどの濃密な瘴気が漏れ出していた。
「ゲイツ」
俺は包丁を下げたまま、静かにその名を呼んだ。
「お前が何をやろうと勝手だが、街に手を出したのは間違いだ。アリスたちの店を巻き込もうとしたこともな」
「アリス? 店ぇ?」
ゲイツは顔を歪め、唾を飛ばしながら嘲笑した。
「あの寂れた定食屋のことか! あんなゴミ溜めのような店、私の壮大な再起計画の踏み台にすらならんわ! メガロドン社を失った私の屈辱が、貴様ごときに分かってたまるか!」
男の瞳には、かつて権力の上に胡座をかいていた頃の傲慢さと、すべてを失ったことへの醜い執着だけが渦巻いていた。
「私は選ばれた人間なのだ! こんな吹き溜まりの街で終わる男ではない! この迷宮暴走制御装置を完全に掌握すれば、ダンジョン事故を自在に引き起こし、あらゆる都市の利権を意のままに操れる! かつてのメガロドン社を超える巨大帝国を築き上げてみせるのだ!」
「……そうかよ」
俺は小さく息を吐いた。
かつて、俺の人生のすべてを奪った巨大な悪。
十年もの間、憎悪の炎を燃やし続け、殺すことだけを考えていた相手の残骸が、目の前にいる。
だが、胸の内に湧き上がるのは激しい殺意ですらなかった。ただ、冷めた哀れみと、これ以上平穏を汚されたくないという純粋な拒絶だけだった。
「お前の過去の栄光なんざ、俺には関係ない。ただ、俺の食い扶持と居場所を邪魔するなら、ここで終わりだ」
「調子に乗るなよ、小僧がぁッ!」
ゲイツが咆哮し、手元の魔道具をコンソールへと叩きつけた。
部屋中の魔力ケーブルが一斉に紫色の光を放ち、中央の魔力結晶炉が耳をつんざくような唸りを上げ始める。ダンジョン全体が激しく揺れ、天井から無数の亀裂が走った。
「私の計画を邪魔する者は、誰一人として生かしてはおかん! 貴様も、あの街の連中も、まとめてこの迷宮の底に沈めてやる!」
ゲイツの背後から、結晶炉の魔力が逆流し、紫黒色の稲妻となって部屋中に炸裂する。
俺は床を蹴った。
一瞬で距離を詰め、ゲイツが握る魔道具の根元を断ち切るために包丁を振り抜く。
空気を裂く鋭い一撃。
だが、包丁の刃が魔道具に届く直前――ゲイツの口元が醜く吊り上がった。
「貴様のような底辺の探索者が……私を見下すなぁぁぁッ!」
ゲイツは自らの手で、胸元に魔道具を突き刺した。
肉が焼け焦げる異臭と、骨が軋む鈍い音が部屋に響き渡る。
制御を失った莫大な魔力がゲイツの体内へと奔流となって流れ込み、その肉体を内側から押し広げていく。
「グ……オオオオオオオオッ……!」
男の皮膚が紫黒色に変色し、筋肉が異常な膨張を始めた。
スーツが弾け飛び、背中からは禍々しい外骨格と無数の魔力の触手が噴出する。瞳からは知性が消え失せ、底知れない破壊衝動の光だけが爛々と輝き始めた。
衝撃波が吹き荒れ、俺は包丁を盾にして数歩後退させられる。
立ち込める紫色の瘴気の中、人の形を捨て去り、巨大な異形の怪物へと変貌したゲイツが、咆哮と共に立ち上がった。
床を踏み砕く重い足音が響く。
暴走する魔力の渦の中心で、異形の怪物が血走った目で俺を見据えていた。




