第21話
制御室の奥、崩れかけた縦穴を抜けた先で、俺は地上へ繋がる非常転移陣に立ち寄っていた。リオンに避難誘導を任せたとはいえ、街の状況と退避拠点――バルザックの屋敷にある地下シェルターの様子を一度だけこの目で確かめておく必要があったからだ。
分厚い石造りの扉を開けると、油煙の匂いと複数の声が混ざり合う、ざわめいた空気が押し寄せてきた。避難民たちが毛布に包まる中、奥の簡易調理場で湯気を立てていたアリスが、俺の足音に気づいて顔を上げる。
「ジンさん……!」
お玉を握ったまま、アリスが駆け寄ってくる。その背後から、エプロンの端を掴んだトマがひょっこりと顔を出した。
「兄ちゃん! 外、すげえ地響きがしてんだけど、あいつらぶっ飛ばしてくれたのか?」
「……中枢の施設は潰した。だが、まだ終わりじゃない」
俺はぶっきらぼうに告げ、アリスの顔を見据えた。彼女の瞳には隠しきれない不安が揺れている。それでも無理に口角を上げようとしているのが痛々しいほどに分かった。
「メガロドンの残党が、最深部の魔力炉を暴走させようとしている。ダンジョン内の全魔獣が地上へ溢れ出す前に、根元を断ち切る」
淡々と事実だけを口にする。かつてなら、相手を皆殺しにする理由など誰にも説明せず、ただ血の臭いを追って闇に消えていただろう。だが今は違う。
「そんな……じゃあ、街が丸ごと飲み込まれちゃうってことですか?」
アリスの声がわずかに震えた。彼女の視線が、調理台の上に置かれた大きな寸胴鍋へと向く。そこには、避難してきた人々に配るための温かいスープが煮込まれていた。
祖父から受け継いだ定食屋の味。彼女が大切に守り、俺の乾ききった腹を満たしてくれたあの場所が、再び理不尽な暴力で踏みにじられようとしている。
十年前の記憶が脳裏をかすめた。だが、胸に湧き上がるのは過去への執着や黒い恨みではない。今ここにある温もりを、二度と奪わせないという冷徹なまでの決意だった。
「安心しろ。奴らの思い通りにはさせない」
俺が踵を返そうとした瞬間、冷たい指先が俺の手首をぎゅっと掴んだ。
見上げると、アリスがまっすぐに俺を見つめていた。その瞳から揺らぎは消え、必死の光が宿っている。
「ジンさん」
「……なんだ」
「必ず、帰ってきてください」
彼女の手のひらを通して、わずかな震えと、確かな熱が伝わってくる。
「私、待ってますから。とびきり大盛りで、熱々のご飯を作って、お店ののれんを出して待ってます。だから……絶対、戻ってきてください」
無茶な約束だ。相手は何を仕掛けてくるか分からない狂人であり、ダンジョンそのものが崩壊する危険すらある。常識的な探索者なら、生きて戻れる保証など口が裂けても言えないだろう。
だが、俺の口から出た言葉は、自分でも驚くほど自然なものだった。
「ああ。約束する」
短く答えて、俺はアリスの手を静かに解いた。そして隣で固まっていたトマの頭に無造作に手を置き、乱暴に髪を撫で回す。
「うわっ、兄ちゃん、髪がぐちゃぐちゃになるって!」
「アリスの手伝いをしてろ。暴れるなよ」
「へへっ、言われなくても分かってるよ! 兄ちゃんもさっさと片付けて戻ってこいよな!」
背中越しに響く二人の声を背に受けながら、俺はシェルターの重い扉を押し開けた。
かつて、俺にとって戦いは全てを終わらせるための手段に過ぎなかった。自分が生き残る未来など想像もせず、ただ標的を道連れにして地獄へ落ちる覚悟だけで刃を研ぎ続けていた。
だが、今の俺には帰る場所がある。湯気の立つ白米と、少し甘めの味噌汁が待つ場所が。
「……待たせるわけにはいかないな」
俺は荒れ果てた街道を蹴り、迷宮の入り口へと急いだ。
地上に吹き荒れる風は、すでに濃密な瘴気を帯びていた。
ダンジョンの巨大な開口部は、まるで地獄の顎のように暗黒を広げ、不気味な赤紫色の魔力光を脈動させている。遠くの空が淀んだ雲に覆われ、街の警鐘が断続的に響き渡っていた。
開口部へと続く広場には、すでに無数の異形が群がっていた。
通常の生態系ではあり得ない、歪な魔力の変異を遂げた魔獣たちだ。皮膚が爛れたように発光し、筋繊維が異常に肥大化した狼や巨鳥の群れが、地上へ雪崩れ込もうと蠢いている。
そして、その群れの中心――迷宮の巨大な門泉の前に、ひときわ巨大な影が立ちはだかっていた。
「グルルルルァッ……!」
地を揺るがすような威嚇音が大気を震わせる。
それは、全身を黒曜石のような装甲で覆われた双頭の巨獣だった。ゲイツの魔道具によって無理やり浅層へと引きずり出され、凶暴化の処置を施された門番だ。二つの首から漏れ出る息が、触れた地面の草木を一瞬で炭化させていく。
「邪魔だ」
俺は腰のホルダーから、手入れの行き届いた一本の包丁を静かに引き抜いた。
魔剣としての調整を受けたそれは、冷たい銀色の光を宿している。これまでは食材を切り分けるために使ってきた刃先が、今は迷いなく前方の敵へと向けられた。
双頭の巨獣が、俺の接近を感知して一斉に四つの紅い瞳を見開く。
轟音と共に地面が爆ぜ、巨体が視界を埋め尽くす速度で突進してきた。常人なら肉塊と化す圧倒的な質量攻撃。暴走した魔力が周囲の空気を焼き焦がす。
俺は歩みを緩めなかった。
踏み込みは静かに、大地を蹴る音すら残さない。
魔獣の振り下ろした巨大な鉤爪が、俺の鼻先をかすめる。その軌道をミリ単位で見切りながら、俺は巨獣の懐へと滑り込んだ。
手首を一閃。
包丁の刃が装甲の継ぎ目を滑らかになぞり、魔獣の重心を支える筋膜を断ち切る。無駄な力配分は一切ない。肉を捌くのとまったく同じ、研ぎ澄まされた合理的な動作。
「ギャッ――!?」
巨獣がバランスを崩し、巨躯が前のめりに傾ぐ。その無防備になった喉元へ、俺は刃を翻して深く刺し入れた。
魔力が弾け、黒煙が吹き上がる。
二つの首が断末魔を上げる間もなく、巨獣は大地に激突し、光の粒子となって霧散していった。
周囲を取り囲んでいた変異モンスターたちが、一斉に怯えたように後退する。暴走状態で理性を失っているはずの獣たちが、本能的な恐怖によって動きを止めていた。
「退け。――熱々の飯が冷めちまう」
冷たい一言を投げかけ、俺は迷宮の闇へと足を踏み入れた。
群がる雑魚どもを刃の切っ先で切り払いながら、螺旋状の階段を駆け下りていく。かつて十年をかけて踏破した深層への道。だが、以前の冷え切った焦燥感はどこにもない。
足元から伝わる魔力の振動が、一段と激しさを増す。
ダンジョン全体の構造が軋み、壁面から紫色の結晶が次々と突き出していた。ゲイツの儀式が最終段階に入りつつある証拠だ。このまま魔力炉が限界突破すれば、街どころかこの地方一帯の地盤が吹き飛ぶ。
下層へと続く大空洞へ飛び出した瞬間、前方の空間が歪んだ。
大気が破裂するような炸裂音とともに、空間の裂け目から膨大な黒い奔流が噴き出す。
「――ギシャアアアアッ!」
耳朶を劈く甲高い咆哮が響き渡る。
瘴気の渦の中から姿を現したのは、以前俺が深層で討ち漏らし、放置していたはずの巨大な上位個体だった。
だが、その姿はかつてのものとは明らかに異なっていた。全身に禍々しい呪符のような回路が浮かび上がり、背中からはゲイツの違法魔道具らしき金属製の杭が何本も突き刺さっている。人工的な魔力注入によって、本来の限界を遥かに超えて強化された、歪な殺戮兵器。
怪物は八本の鎌のような腕を広げ、天井を突き破るほどの咆哮を上げながら、紅く濁った無数の単眼を俺へと向けた。
空気が張り詰め、肌をチリチリと焼くような殺気が満ちる。
「なるほど。ただの暴走じゃなく、無理やり餌を与えて太らせたわけか」
俺は包丁を構え直し、視線を細めた。
かつて狩り残した獲物が、街を壊すための尖兵として立ちはだかる。過去のツケを払うには、まさにうってつけの相手だった。
怪物の巨躯が揺らぎ、八本の刃が一斉に俺の頭上へと振り下ろされる。
俺は息を吸い込み、確かな足取りで前へと踏み出した。




