第20話
暗い地下道は、ひんやりとした湿気を帯びていた。
紫色の不気味な光が壁面を這うように明滅し、魔力回路が悲鳴を上げているのがわかる。
先ほどの巨大な魔力波動によって、この地下施設そのものがダンジョンの一部として変異し始めていた。
「待ってください、ジンさん!」
背後から切羽詰まった声が響き、俺は足を止めた。
荒い息を吐きながら駆け寄ってきたのは、くたびれたスーツ姿のリオンだった。
「お前、ここは危険だ。地上に戻って避難誘導を手伝え」
「いえ……僕に案内させてください。この施設の構造は、メガロドン社時代に頭に叩き込まれています。今の変異した状態でも、中枢への最短ルートがわかるはずです」
リオンの足は微かに震えていた。
かつて彼をこき使っていた元上司、ゲイツに対する恐怖がまだ骨の髄まで染み付いているのだろう。
それでも、彼の瞳には確かな決意が宿っていた。
「……わかった。後ろを離れるなよ」
俺が短く応じると、リオンは力強く頷いた。
「次は右です。そこの瓦礫の裏に抜け道が」
壁の崩落や魔力溜まりを避けながら進むうち、前方の開けた空間に巨大な影が立ち塞がった。
硬質な甲殻に覆われ、鋭い鋏を振り上げる六本足の魔獣。
深層領域にしか生息しないはずの、凶悪な甲殻獣だった。
違法魔道具の暴走によって、こんな浅い階層まで引きずり出されたらしい。
「ひっ……!」
リオンが息を呑んで後ずさる。
魔獣が耳障りな咆哮を上げ、岩盤を砕くほどの勢いで鋏を振り下ろしてきた。
俺は静かに息を吐き、手にした魔剣――ドーラが調整してくれた包丁――を構える。
踏み込みと同時に、魔獣の死角へ潜り込んだ。
硬い甲殻の隙間、関節の継ぎ目を正確に見極め、刃を滑らせる。
ただの一閃。
それだけで魔獣の巨体は崩れ落ち、断末魔すら上げずに絶命した。
「……よし、綺麗に解体できたな」
俺は手早く甲殻を剥ぎ取り、透き通った白身の肉を収納袋へと放り込んだ。
「えっ……あ、あの……ジンさん?」
「こいつの肉は熱を通すと甘みが増すんだ。アリスが作る鍋の具材にちょうどいい。いい出汁が取れそうだ」
リオンが呆然と立ち尽くしているのをよそに、俺は包丁の汚れを拭き取った。
なし崩し的に定食屋の食材調達係となってから、こうして超高難度ダンジョンの魔獣を狩るのが日常になっている。
俺が持ち帰る規格外の食材のおかげで、定食屋は連日大繁盛だ。
常連客たちの美味そうに飯を食う顔や、アリスが厨房で見せる嬉しそうな笑顔。
トマが元気よく店内を走り回る姿。
それらを思い出すだけで、胸の奥に温かいものが広がるのを感じる。
復讐のためだけに生き、感情を麻痺させていた十年間。
あの殺伐とした日々が嘘のように、今の俺は彼らの温かい感謝に触れることで、確実に人間らしさを取り戻していた。
だからこそ、この平穏な日常を脅かす連中を許すわけにはいかない。
「行くぞ、リオン。飯の時間が遅れる」
「は、はいっ! 次の分岐を右です!」
リオンは慌てて俺の背中を追いかけてきた。
彼の案内は正確だった。
複雑に絡み合う通路や、偽装された隠し扉を次々と突破していく。
「ゲイツは……あの人は、自分の利益のためなら他人がどうなろうと構わない人間です。僕はずっと、それに逆らえなかった」
歩きながら、リオンがぽつりとこぼした。
「でも、ジンさんたちに助けられて、美味しいご飯を食べて……ようやく目が覚めました。もう、あの男の言いなりにはなりません」
「そうか」
俺は短く返し、前を見据えた。
やがて、通路の突き当たりに重厚な金属扉が現れた。
施設の中枢である制御室だ。
扉のロックはすでに破壊されており、半開きになっている。
俺は油断なく扉を蹴り開け、中へと踏み込んだ。
「ひぃっ! ま、待ってくれ!」
部屋の中央で、頭を抱えてうずくまっていた男が悲鳴を上げた。
仕立ての良いスーツを泥と埃で汚し、高価な葉巻を床に散らしている白髪の紳士。
悪徳商人のコルテスだった。
彼は俺の姿を見るなり、這いつくばるようにしてすがりついてきた。
「た、助けてくれ! 私は騙されたんだ! ゲイツの奴が、私の施設を勝手に……!」
コルテスは完全にパニックに陥っていた。
ゲイツを便利な手駒として利用しているつもりで、逆に利用され、最後には切り捨てられたのだろう。
「君の力を見込んだ! 私と組めば、この街の裏社会を牛耳ることも……莫大な富を約束しよう! だから私を……」
「あんたの野望には興味がない」
俺は冷徹に見下ろし、無言でコルテスの首筋に手刀を振り下ろした。
白目を剥いて崩れ落ちるコルテス。
これで、土地開発を巡る陰謀の片割れは完全に無力化された。
「リオン、コンソールを調べられるか」
「はい、やってみます」
リオンは気絶したコルテスを一瞥した後、部屋の奥にある大型の制御盤へと向かった。
紫色の光を放つモニターには、無数のデータが滝のように流れている。
リオンの指がキーボードの上を素早く走り、暗号化されたファイルを次々と開いていく。
「これは……違法魔道具の出力記録です。それに、ゲイツが残した計画書も」
リオンの声が震えていた。
「どういうことだ」
「ゲイツの狙いは、単なる魔獣の暴走じゃありません。彼は意図的に巨大なダンジョン・ブレイクを引き起こし、この街全体を完全に破壊しようとしています」
モニターに表示されたのは、街の地下深くに広がるダンジョンの構造図だった。
「会社が倒産し、すべてを失った彼は、この街を更地にしてから自らの手で再建し、再び絶対的な権力者の座に返り咲くつもりなんです。そのための隠し資産が、あの違法魔道具……」
過去の亡霊が、己のプライドと体面を取り戻すためだけに、無数の命を犠牲にしようとしている。
俺の居場所である定食屋も、その標的の中に含まれている。
「ゲイツはどこにいる」
「……ここにはいません。この施設はただの囮で、魔力の中継地点に過ぎない。本命の魔力炉は、ダンジョンの最深部にあります。彼はすでにそこへ向かっています」
リオンが別のモニターを指差した。
そこには、最深部で不気味に脈打つ巨大な魔力反応が映し出されている。
「最深部のコアを直接暴走させるつもりだ……もう、取り返しのつかない儀式が始まっています!」
リオンの顔が絶望に染まる。
確かに、事態のスケールは一段階引き上がった。
だが、俺のやるべきことは変わらない。
「リオン、あんたはコルテスを縛り上げて、地上へ戻れ。ギルドのセリアにこの情報を伝えて、避難を急がせろ」
「ジンさんは……まさか、一人で最深部へ行くつもりですか!?」
「ああ。元凶を叩き潰す」
俺は包丁の柄を強く握り直した。
ゲイツがどんな狂った儀式を始めていようと関係ない。
俺の食事の時間を邪魔し、大切な人たちの居場所を脅かす者は、絶対に容赦しない。
「必ず戻りますよね……?」
リオンがすがるような目で俺を見た。
「当然だ。アリスが美味い飯を作って待ってるからな」
俺はそれだけ言い残し、制御室の奥にある隠し通路――最深部へと続く暗い縦穴へと身を躍らせた。
冷たい風が下から吹き上げてくる。
儀式の完成まで、残された時間は少ない。
だが、俺の心は不思議なほど静かだった。
この温かい日常を守り抜くための戦いが、いよいよ最終局面を迎えようとしていた。




