第18話
俺は、次なる獣の群れへと向かって駆け出した。
土煙が舞う中、無数の赤い瞳が俺を捉える。
先頭を走る四つ足の獣が、鋭い爪を振り上げて跳躍した。
俺は足を止めず、右の拳を真っ直ぐに振り抜く。
空気を裂く破裂音と共に、獣の頭部が粉砕され、巨体が紙切れのように吹き飛んだ。
その衝撃波が後方へと伝播し、密集していた後続の群れが次々と宙を舞う。
防壁の前に、一時的な空白地帯が生まれた。
「おい、あいつ一人で群れを押し返してやがるぞ……!」
「なんだあのデタラメな力は……人間じゃねえ!」
背後で探索者たちがどよめく声が聞こえるが、振り返る余裕はない。
次から次へと、ダンジョンの奥底から湧き出した魔獣たちが押し寄せてくる。
その中の一匹、巨大な牙を持つ猪型の魔獣が視界に入った。
分厚い毛皮と凄まじい突進力で知られる、高難度領域の厄介な個体だ。
普通の探索者なら、数十人がかりでようやく足止めできるレベルの化け物である。
猪の魔獣が地面を蹴り、地響きを立てながら一直線に突っ込んでくる。
俺は姿勢を低くしてその突進を躱し、すれ違いざまに太い首へ手刀を叩き込んだ。
鈍い音を立てて巨体が地面に沈み、土煙が舞い上がる。
以前の俺なら、こいつはただの障害物でしかなかった。
復讐のためだけに力を振るっていた頃は、魔獣の死骸など見向きもしなかった。
だが今は違う。
この猪のバラ肉は、アリスが甘辛く煮込んで絶品の角煮にしてくれた。
なし崩し的に定食屋の食材調達係となった俺は、規格外の力を持て余しながらも、超高難度ダンジョンに潜っては高級食材を狩り、彼女に美味い飯を作ってもらう生活を満喫していた。
あの平穏なスローライフを、こんな得体の知れない暴走で終わらせるつもりはない。
「第一波、退いたぞ!」
誰かの叫び声が響く。
見れば、魔獣の群れが一時的に後退し、防衛線にわずかな静寂が訪れていた。
俺は倒れた猪の魔獣から手頃な部位を切り出し、肩に担ぎ上げた。
腹が減っては戦えない。まずは態勢を整える必要がある。
◆ーーーー◆
防衛線のすぐ後方に位置するバルザックの屋敷。
その堅牢な地下シェルターの扉を開けると、冷たい石壁に囲まれた空間に、備蓄された物資が山積みにされていた。
不安げな顔をしたアリスとトマが、俺の姿を認めるなり駆け寄ってくる。
「兄ちゃん! すげえ音してたけど、大丈夫だったか!?」
トマが俺の服の裾を掴み、目を輝かせながらも心配そうに見上げてくる。
「ああ。とりあえず、第一波は凌いだ」
俺は肩に担いでいた猪の肉を、近くのテーブルにドンと置いた。
「こいつの肉、また食いたいと思ってな」
アリスは目を丸くした後、ふっと肩の力を抜いて微笑んだ。
「もう、こんな時に食材の心配ですか。でも……無事でよかったです」
彼女は手早くお湯を沸かし、温かいお茶を淹れてくれた。
湯気の立つカップを受け取り、一口すする。
じんわりと広がる温もりが、張り詰めていた神経を解きほぐしていく。
俺が持ち込む食材と、それを目当てに集まる客たちで、定食屋は大繁盛していた。
アリスや常連客たちからの温かい感謝の言葉に触れるたび、復讐のためだけに生きてきた俺の殺伐とした心は癒やされていった。
今ならはっきりと分かる。俺は完全に、人間らしさを取り戻している。
この温かい場所を守り抜くことこそが、今の俺の全てだった。
「ほらよ、待たせたな」
奥の部屋から、煤で顔を汚したドーラが姿を現した。
彼女の腕には、布で厳重に包まれた長物が抱えられている。
「激戦になるって聞いて、急いで最終調整を済ませてきたんだ。お前さんの無茶な使い方にも、これなら耐えられるはずさ」
布が解かれ、姿を現したのは、かつて俺が使っていた魔剣を打ち直した巨大な包丁だった。
刃こぼれ一つない刀身が、地下室の明かりを反射して鋭く光る。
俺は柄を握り、軽く振ってみた。
空気を裂く音が響き、完璧な重量バランスが手に伝わってくる。
「最高の切れ味だ。助かる」
「アタシは職人だからね。お前さんが前で戦うなら、裏から支えるのが仕事ってもんさ。せいぜい派手に暴れてきな」
ドーラは豪快に笑い、俺の背中をバンと叩いた。
その時、シェルターの重い扉が再び開き、息を切らしたリオンが転がり込んできた。
くたびれたスーツは泥だらけで、目の下のクマが一層濃くなっている。
「リオン、外の様子はどうだ?」
俺の問いかけに、彼は膝に手をついて荒い息を整えながら顔を上げた。
「分かりました……。あの男の、居場所が」
リオンはかつてのブラック企業時代の薄暗い人脈を辿り、独自の調査を進めてくれていた。
平和な日常の裏で、かつての標的だった会社の元幹部・ゲイツがこの街に逃げ込んでいたのだ。
奴は会社の隠し資産だった違法魔道具を使い、ダンジョンを意図的に暴走させて復権を果たそうと企んでいる。
「ゲイツは今、コルテスが所有する地下施設に潜伏しています。そこで魔道具を操作し、モンスターの群れを操っている可能性が高いです」
リオンの報告を聞き、俺は手元の魔剣包丁を強く握りしめた。
過去の亡霊が、俺の新しい居場所を脅かそうとしている。
「よくやってくれた。あとは俺の仕事だ」
「あなたなら、きっと止められると信じています。どうか、気をつけて」
リオンは深く頭を下げた。
俺は立ち上がり、アリスとトマに向き直った。
「少し、出かけてくる」
「兄ちゃん、絶対勝てよ!」
「……待っています。温かいご飯を用意して」
アリスの言葉に、俺は短く頷いた。
かつての復讐のためではない。
この温かい日常を取り戻すための戦いが、いよいよ本格的に始まろうとしていた。
俺は地下シェルターを後にし、ゲイツが潜む地下施設へと歩みを進めた。
◆ーーーー◆
同じ頃、街の中心部にそびえ立つ豪奢な執務室で、コルテスは窓の外に広がる混乱を見下ろしていた。
防衛線では炎が上がり、遠くから魔獣の咆哮が絶え間なく響いてくる。
「素晴らしい。ゲイツの持ち込んだ玩具が、ここまで役に立つとはな」
彼は手元のワイングラスを揺らし、薄暗い笑みを浮かべた。
ゲイツが違法魔道具を使ってダンジョンを暴走させていることなど、コルテスはとうの昔に把握していた。
あえてそれを黙認し、自身の地下施設を提供したのは、この混乱を利用するためだ。
街が恐怖に包まれ、既存の権力機構が機能不全に陥った時こそ、新たな支配者が求められる。
「防衛線が崩壊寸前になったところで、我が私兵団を投入する。そうすれば、この街の権力は完全に私のものとなる」
コルテスの陰謀は、防衛線で戦う者たちの命を盤上の駒としか見ていなかった。
彼が思い描く新たな秩序の構築に向けて、事態は静かに、そして確実に動き始めていた。




