第17話
地鳴りと咆哮が、容赦なく距離を詰めてくる。静かな不安だけが、暗い店内に重く立ち込めていた。
ズズン、という地響きが、今度は足元から突き上げるような激しい震動へと変わった。
「きゃあっ!」
アリスの短い悲鳴が上がり、店全体が大きく軋む。壁に飾られていた木製のメニュー札が床に落ち、窓ガラスに走っていたヒビが一気に弾け飛んだ。
俺は咄嗟に踏み込み、アリスとトマの前に立ち塞がる。飛散した鋭利なガラス片を、極限まで鍛え上げた動体視力と素手で全て叩き落とした。手のひらに微かな痛みが走るが、そんなものは気にも留めない。
「無事か」
アリスは震えながら頷き、トマを抱きしめる。リオンはへたり込んだまま、窓の外の惨状に釘付けになっていた。
半壊しかけた定食屋の中で、俺は立ち尽くす。
ここ最近の俺は、なし崩し的にこの店の食材調達係となっていた。超高難度ダンジョンに潜っては、持て余した最強の力で高級食材モンスターを軽々と狩る。巨大な霜降り肉を持つ魔牛や、清流にしか生息しない幻の魚。それらを店に持ち帰り、アリスに美味い飯を作ってもらう。
アリスの手にかかれば、どんな凶悪なモンスターの肉も、心温まる家庭の味へと変わった。湯気を立てる皿を前にした時だけは、俺も復讐鬼としての顔を忘れ、無邪気な喜びを感じることができた。そんな、かつては想像もできなかったスローライフを満喫していたのだ。
だが今、その穏やかな時間は無惨に引き裂かれようとしている。
胸ポケットで、硬質な音が鳴った。ギルドから支給された通信魔道具だ。
「ジン、聞こえますか!」
耳に当てると、セリアの切羽詰まった声が響いた。背後からは、ギルド内の怒号や悲鳴、書類が散乱する音が入り混じって聞こえてくる。普段は冷静な彼女が、声を裏返らせていた。
「街の防衛線に、異常な数のモンスターが押し寄せています。それも、浅層にはいるはずのない強力な個体ばかり……深層の生態系崩壊によって行き場を失った群れが、地上へ溢れ出しているんです!」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
深層の生態系崩壊。その原因は他でもない、俺だ。
十年間、復讐のためだけに自らを鍛え上げ、深層のボスモンスターを狩り尽くした。その結果、ダンジョン内の生態系バランスが崩れ、浅層の環境に悪影響を及ぼしている。俺の過去の行いが、巡り巡って今の事態を引き起こし、この街を、アリスたちの居場所を脅かす引き金になっていたのだ。
胃の奥が冷たくなる感覚を覚えながら、俺は通信機を握りしめた。
「……分かった。すぐに向かう」
通信を切り、俺は拳を強く握りしめた。
俺が持ち込んだ規格外の食材と、それを捌くアリスの確かな腕。そのおかげで定食屋は大繁盛し、連日多くの客で賑わっていた。俺は常連客たちの笑顔や、アリスからの温かい感謝に触れることで、殺伐としていた心を癒やしてきた。
完全に人間らしさを取り戻しつつあったからこそ、過去の自分の尻拭いから逃げるわけにはいかない。
「アリス、トマ。外へ出るぞ。ここはもう危ない」
後悔を振り払い、俺は二人を促した。リオンもふらつく足で立ち上がり、後に続く。
軋む扉を蹴り開けて外に出ると、夜空は不気味な赤紫色に染まり、遠くから悲鳴と怒号が入り混じって聞こえてきた。
その時、石畳を激しく叩く蹄の音が近づいてきた。
「無事か、君たち!」
現れたのは、豪奢な装飾が施された大型の馬車と、完全武装した私兵たちだった。馬車の窓から身を乗り出しているのは、バルザックだ。
「バルザックさん……どうしてここに」
アリスが驚きの声を上げる。
「決まっているだろう。私の愛する定食屋と、至高の料理人をこんなところで失うわけにはいかないからな!」
バルザックは傲慢な口調を崩さないまま、しかし真剣な眼差しで言い放った。
「私の屋敷は堅牢だ。地下には避難用のシェルターもある。さあ、早く乗るんだ!」
私兵たちが素早く展開し、アリスたちを馬車へと誘導する。
「あなたは……一緒に来ないんですか?」
馬車に乗り込もうとしたアリスが、振り返って俺を見た。その瞳には、明らかな不安が揺れている。
「俺は、防衛線に行く」
「そんな……いくらあなたでも、あの大群を相手にするなんて危険すぎます!」
「大丈夫だ」
俺は努めて平坦な声で答えた。
「必ず、この店に戻ってくる。だから、少しだけ待っていてくれ」
アリスは何かを言いかけたが、俺の目を見て小さく頷き、トマを抱き抱えて馬車に乗り込んだ。
馬車が遠ざかっていくのを見送り、俺は街の外縁へと視線を向けた。
平和な日常の裏で、メガロドン社の元幹部・ゲイツがこの街に逃げ込んでいた。奴は会社の隠し資産だった違法魔道具を使い、ダンジョンを意図的に暴走させて復権を果たそうと企んでいる。
過去の亡霊が、俺の新しい居場所を奪おうとしているのだ。
暴力では日常を守れない。そう絶望しかけた。だが、今は違う。
俺の手にあるこの規格外の暴力は、日常を壊すためではなく、日常が帰る場所を死守するために使う。
◆ーーーー◆
防衛線に到着すると、そこはすでに地獄絵図と化していた。
ギルドの探索者や衛兵たちが必死に防壁を固めているが、押し寄せるモンスターの波は圧倒的だ。
ゲイツが魔道具で操っているのだろう。異形の獣たちは恐怖を忘れたかのように、防衛線を突破しようと次々に飛びかかってくる。
「くそっ、数が多すぎる!」
「防壁が破られるぞ!」
俺は混乱する衛兵たちを掻き分け、防壁の最前線へと躍り出た。
巨大な魔獣が、鋭い牙を剥き出しにして防壁に迫る。
俺は地面を蹴り、一瞬でその懐に潜り込んだ。
振り抜いた拳が、魔獣の分厚い装甲を紙切れのように粉砕する。
轟音と共に巨体が吹き飛び、後続の群れを巻き込んで道が拓けた。
「な、なんだ……?」
呆然とする探索者たちを背に、俺は立ち塞がる異形の群れを見据えた。
まだ終わらない。過去の因縁を完全に断ち切り、あの温かい場所を取り戻すまで。
俺は、次なる獣の群れへと向かって駆け出した。




