第二話:紫黒色の羽
さっきまで目の前に居た青年の背中が、今は豆粒ほどに小さく見える。
追いかけようともしたが、状況を把握しきれていない天鳴には、追いつける自信が持てず仕方なく諦めた。
「なんだったんだ……ん?」
伸ばした腕からざらりとした木綿の袖が垂れ、自分の服装に違和感を覚え視線を落とす。
黒紅の着物に乗馬袴。朱色の羽織を身に纏っていた。
首元には赤い襟巻が巻かれていて、黒紅の着物や朱色の羽織によく映えている。
「和装?……よいしょっ」
地面に落ちていた砂まみれの割れた鏡の破片を拾って容姿を確かめると、黒く長い髪は一束に雑に結ばれており長い前髪に隠れていた眉は太く、凛々しい。
そして、緋色の瞳は相手を威圧するほどの、鋭いつり目をしていた。
ゴツゴツとした体格は、片手でリンゴなど容易く握り潰せるだろうと思わせるほどの姿だった。
「……あれ?こんな顔してたっけ?なんか強面すぎない?」
そういえばさっき、あの少年に『天鳴』って呼ばれてたけど……自分の名前なんだよな?あれ、もしかしてこれって、あのおばあちゃんに弾き飛ばされた衝撃で記憶喪失になった……とか?
疑問に思いながらも、割れた鏡の破片を懐に入れようとする。すると、コツりとした固いものに手が当たる。
「?」
取り出すと、甲骨文字らしき奇妙な書体が彫られた小瓶だった。
既に蓋は外されており中身は空だ。
「なんだこれ、読めない」
「…おくれぇ!」
小瓶に出来る限り目を近付けていると微かな老声が段々と近付いて聞こえてくる。
「盗人よ!誰か捕まえておくれぇ!」
振り返ると、視線の先には青色の法被に笠を被った盗人が、色鮮やかな巾着を掴んで、脱兎のごとく突き進んでいた。
そして、遠く離れた距離で頭巾を被り薄汚れた衣服のお婆さんが、息を切らしながらも必死に追いかけている。
「だっ、誰か!私の巾着を取り返しておくれぇ!」
周囲の人々は視線を向けたが、日常茶飯事なのか顔色を変えず、すぐに顔を逸らす。
助ける者は誰一人としていなかった。
「邪魔だっ!退けっ!!」
「キャッ!」
盗人は目の前に居た女性を強引に突き飛ばし、壁に衝突させると、そのまま突っ走り天鳴の横を駆け抜けた。
突き飛ばされた女性、巾着を盗まれたお婆さん。
現状の出来事が瞬時に頭に入ってきたとき、頑強な足が勢いよく地面を蹴る。
考えるより先に、染み付いた動きが勝手に溢れ出していた。
素早く駆け抜けた盗人の背中を追いかけながら野太い声を響かせた。
「返しなよお兄さん。お婆さんの巾着を」
「ハッ!?なんでこいつがッ!」
段々と距離が縮まり、もう少しで法被に手が届きそうになるところで、さらにもうひと踏ん張りしてペースを上げる。
「⋯クソッ!」
焦りを感じた盗人は店先に置かれていた傘屋の大きな木製傘立てを蹴り落とすと、中に詰まっていた和傘が次々と倒れかかってくる。
「…ッ…ちょっとこれ、後で買います!」
腕で顔を庇いながら、倒れてきた一本の和傘を掴み取ると、即座に盗人の足元へ投げつけた。
「ガッ……!」
和傘が盗人の足に絡まり派手に躓いたのを見逃さず、さらに加速させて追いつく。
そして、襟首を鷲掴みにして引き寄せると、手首を捻って強制的に巾着から手を離させた。
「クソ野郎がッ!下民め、お前如きが調子に乗るんじゃねぇよ!」
「え、えぇ……とりあえず、ちゃんと反省しな〜……ウワッ!」
激しく抵抗されて思わず手を緩めると、盗人は身を翻し素早く逃げてしまった。
「逃げ足は早いのか……っと…?」
去っていった盗人の背中を見送る。
地面に落ちた巾着を拾い上げると、付着した砂を叩き、お婆さんに渡そうと後ろを振り返る。
すると、周囲の人々は唖然とした様子で天鳴を注視していた。
「おい。あいつ鳥居眞屋の……確か、地味天だよな?」
「昨日までは弱っちい臆病者だったべ?あんなことするわけねぇべ」
「また新しい『迷い人』じゃな」
「まぁ!嫌だわぁ……巻き込まれたくないわねぇ」
人々が白い目を向け、コソコソと囁き合っているが距離が遠いため天鳴には話の内容が聞こえなかった。
しかし、いい話をされている訳ではないとなんとなく分かってしまう。
「えっと……」
「坊やぁ」
流石にやりすぎてしまったのかと焦っていると、もつれるような足取りで駆け寄ってきたお婆さんは、目を輝かせた。
そして、天鳴の大きな片手をしわ深い手でそっと包み込んだ。
「ありがとうねぇ。まさか鳥居眞屋の坊やに助けられるなんてぇ……」
「鳥?あっ、これ巾着です……お怪我はありませんね」
膝をつき、お婆さんの手首に巾着を通して、身体をくまなく確かめる。
幸いにも怪我はなく、一息をついた。
「ふふ、ありがとうねぇ。すっかり忘れていたのだけどね、これは私が嫁入りした時に夫から頂いた大事な巾着なのよぉ」
「そうなんですね。なら尚更取り戻せてよかったです!」
「えぇ……でも、もう見せることは出来ないのよぉ。夫は連れて行かれてしまってねぇ」
「連れて?」
――――誰に?と続く言葉は突如、突き上げられた振動に断ち切られ、視界が激しく上下にブレる。
「おい!コ、コスモルガ様がいらっしゃったぞっ!!」
「隠れろ!隠れろ!」
周りの人々は一気に騒然として、その場から逃げ出す。
「え!?なんだこれ地震か!?早く避難しねぇと」
視線を巡らせながら、お婆さんを連れて安全な場所へ逃げ出そうと手首を優しく掴む。
――その瞬間、背後から肌を刺すような気配が襲いかかった。
振り返る間もなく、鼓膜を直接揺らす絶対的な強者の声が、耳元で響き渡る。
「奈津江 喜美子様、お迎えに伺いました」
状況を把握する前に、脳幹と本能が生存への危険を察知して激しく脈を打った。
ゆっくりと振り返るとそこには紫黒色の輝きを放ったオーラを纏い、漆黒の漢服をゆったりと着こなした、長身な男が立っていた。
「おめでとうございます。喜美子様のこれからの運命が決まりました。私と一緒に今すぐ、来てください」
「!」
彫刻のように整った顔立ちは、不気味なほどに一切の表情を浮かべていない。
コスモルガはお婆さんへ手を伸ばし、その細い腕を掴もうとする。
身をすくめるお婆さんの前に、天鳴は割り込んでその手を激しく振り落とした。
「やめろよ……お婆さん怖がってるだろ」
「……」
天鳴の言動にコスモルガの表情は驚愕により崩れ、微かに目を見開く。
その隙にお婆さんは縋り付くように天鳴の腕を取って背後に隠れると、そっと耳打ちをする。
「あの人は私の夫を強引に連れ去って、それから会えていないんです」
「なるほどね……」
「私と一緒に来ていただければ、旦那様にもすぐお会いできます」
コスモルガの言葉は丁寧だった。だが、彼の声には血の通わない冷たさが滲み出ている。
その異様に気づいた天鳴は、眉間に皺を寄せた。
「嘘だろ」
天鳴の言葉に、コスモルガの纏う空気が一気に変わる。
物陰に隠れていた人々は異様な気配に気づいてヒッと声を漏らすが、天鳴にはそれどころじゃなかった。
「嘘……か……また厄介な迷い人が現れたもんだ……」
「迷い人?」
紫黒色の美しい翼の刺繍が入った琵琶袖がズルりと腕から落ちると、真っ白な腕が胸元まであげる。
「手始めに、私を愉しませてください」
腕を突き出すと同時に紫炎が勢いよく二人のところへ放たれた。
「お婆さん!捕まって!」
お婆さんの肩を引き寄せて横抱きにするとその場を飛び退く。
紫炎は避けられたが、信じられないほど高く身体が舞い上がり、天鳴は己の規格外な身体能力に目を見張った。
「ぅおっ!飛びすぎだろ!?」
瓦の屋根の上にどうにか着地したものの息をつく暇などはない。
放たれた紫炎は鋭い鎖へと姿を変えて天鳴の身体をめがけて猛然と襲いかかってきた。
「あぶッ!!……ッ゛!!」
間一髪で屋根から飛び降り攻撃を避けたが、地面に勢いよく着地した衝撃により足首を激しく捻ってしまって体勢を崩して片膝を地面につく。
激しい痛みを感じながら、顔を上げると紫炎を纏った鎖が急カーブを描き、すでに顔の目の前まで迫っていた。
「ッハ……!」
――――やばいっ!
反応が完全に遅れ、手で顔を庇うことすらも間に合わず思わず顔を背けると、
「止めなさい!!」
お婆さんの鋭い声が響いた瞬間、顔のわずか数センチ手前で激しい風を伴って鎖の動きがピタッと止まる。
「……は…」
コスモルガが動きを止めたのか、あの禍々しい鎖はハラハラと紫黒色の羽根に変わって地面に散らばった。
「坊や、無事かい?」
「は、はい……た、助かりました……」
肩で息をしながら腕の中のお婆さんに目線を落とす。「降ろしておくれ」と静かに言われゆっくりと彼女を降ろす。
お互いに体勢を整えると、お婆さんはコスモルガを真っ直ぐに見据え毅然と言い放った。
「止めなさいコスモルガさん。この方は関係ないでしょう」
「私の手を煩わせるからです。その男を始末されたくなければ大人しく私のところに来てください」
「……わかったわ」
「お婆さん行っちゃダメだっ」
「いいのよ。これから夫の居ない世界で一人で生きていくのはもう疲れたもの……それにこの大事な巾着を取り返してくれた子ですもの、貴方が傷付くのは見たくないわ」
顔を見上げ、シワが入った手を伸ばすと天鳴の頬を撫でる。
恐怖で冷え切っていた天鳴の肌に、その手のひらは驚くほど温かく感じた。
「喜美子様」
「えぇ」
威圧的な声を出すと、コスモルガが手を差し出す。
お婆さんは応じるように、差し出された彼の手に、そっと自分の手を重ねた。
すると、周囲に散らばった羽がブワッと舞い踊った。
本当にこのまま行かせてしまってもいいのだろうか?
もう一度足を前に踏み出そうとした。
だが、まるで金縛りにでもかかったかのようにピクリとも身体が動かなくなる。
それは恐怖によるものではなく、物理的に何かの力で空間ごと固定されたかのような感覚だった。
動けない。ならせめて――
「ねぇ」
コスモルガは目線だけを天鳴の方に向ける。
「せめて、お婆さんに言った言葉。旦那さんに会わせてやれるなら、それを叶えてあげてほしい」
「……」
「人の心を踏みにじるなんてこと――」
「貴様は」
言い切る前に話を遮られる。
一切の感情を失っていたはずのコスモルガの顔が、今は露骨な怨嗟の表情に歪んでいる。
「これから先も、私に同じことを言えるのか?」
「え?」
酷く冷淡で、底冷えするような重い声を放たれた直後、二人はキラキラと輝く光の粒子に包まれた。
身体が徐々に薄れていき、そしてそのまま跡形もなく消えていく。
そして、最後に見えたのはお婆さんが上を見上げて、穏やかに微笑んでいる姿だった。
「あ……熱っ、あれ?う、動ける……」
突然、鎖骨の間の窪みにじわりと熱を感じる。
それと同時に、ふっと身体の自由が戻り、天鳴は確かめるように何度も拳を握り開いた。
何か、気に障るようなこと言ってしまったのかな……。というか、そもそもここはどこで、自分は今まで何してたんだっ!あ~何も思い出せない!
「んぎぎぎぎぎっ!!」
悶々とした気持ちで、頭を抱えていると背後から鋭い声が響いた。
「今だ!行け!!」
合図と同時に、天鳴の背中にはゴツっと鈍い音と共に衝撃が走った。




