第一話:地域の英雄
この世界ははるか前から罪に塗れていた。
ゴミのポイ捨て、歩き煙草、いじめ、強盗、誘拐、殺人――――。
数え上げてもキリがない。小さな罪から大きい罪まで誰もが見て見ぬふりをする現代社会。
いつから始まったのか、誰も知らないほどに
これが『当たり前の世界』になっていたのだ。
***
「ほらほら俺を楽しませろ!お前のその醜い顔!もっと綺麗に整えてやるよっ!」
人通りが少ない薄暗い路地裏で、鈍い音と共に男性の呻き声が響く。
殴られたせいで顔をパンパンに腫らし、ビジネスバッグを抱えたサラリーマンの男性は、大柄の男に前髪を鷲掴みにされていた。
護身用に持ち歩いていたのだろうスタンガンは大柄の男の手により木っ端微塵に壊されていた。
「や、やめて……くださ……」
「やめてください?ハハッ!なら、歯ぁ食いしばれっ……ガッ!!??」
愉快な声を上げると、男が凶悪な拳を振り上げる。
だが、その拳は放たれることはなかった。
殴りかかる寸前、男性の目の前に居た大柄の男は、何者かに脇腹を蹴られ、数メートル吹き飛ぶとゴミ溜めの錆びたドラム缶に勢いよく身体をぶつける。
「……歯を食いしばる方は、そっちなんじゃない?」
鼻にかかった低い声を出して相手を茶化す声が聞こえる。
そして、晴れていく砂埃から現れたのは、見るからに他の子よりも少しだけ筋肉質で、背が高く、使い古した制服を身に纏った女子高生だった。
片方の口角を上げ、鋭い目つきの奥から緋色の瞳を覗かせる。
彼女は、黒くボサついた長い髪を靡かせながら蹴りを入れるためにあげていた足を静かに下ろす。
「チッ!クソがっ!……日ノ原ぁ!毎度毎度、邪魔ばっかしやがって!今日こそは絶対ぶっ殺してやる!」
「えぇ?確か、先週も同じこと言ってた気がするんだけど……ってあれ?聞いてない?」
男はゴミ溜めの中から身体を起こし、転がっていた鉄パイプを拾い上げる。
そして、雄叫びを上げながら、全速力で鉄パイプを振り回し風を切らせながら彼女へと襲いかかる。
「……ったく。手短に終わらせるか」
荒々しい猛進に対して彼女はただ冷静に姿勢を構えた。
『世界中の人を救ってあげるのよ』
亡き母親が書き残した言葉を全うするように、一人でも多くの弱者を助けるように努めている。
日ノ原 緋衣は、荒廃した地域におけるたった一人の小さな英雄だった。
「平和に仲良くしようよ」
***
「……また気絶させてる」
あの後、緋衣は振り上げられた鉄パイプを華麗に避けると、すかさず男の手首を掴み流れるように入身投げを決めたのだ。
地面に叩きつけられた衝撃で、大柄の男は目をグルグルと回し軽く意識を飛ばすと、緋衣はひと仕事終えたように息をつく。
すると、遅れて路地裏にやって来た緋衣の幼馴染である、新里 紗夜がその光景を目にすると、眉間に皺を寄せ、怒りを露骨にあらわす。
言い逃れできないこの状況に、緋衣はすっかり身を縮こませた。
「いやぁ……あまりにもしつこくて、ちょっと今回は気合い入れすぎたかも……なんて……あ、見て!私も手が赤くなってる!」
緋衣は、ほんのり赤く色付いた掌を見せるが、悲しくもその手はお構い無しに軽く叩かれる。
「先週も言ったけど、危ない所に一人ですぐ突っ込んでいくその癖ッ!いい加減どうにかしてよ……いつか死んじゃうかもよ?」
「ははっ……善処します……」
紗夜はボブの横髪を耳に掛けると苦言を呈した。
それに対して緋衣は場を収めるような苦笑いを浮かべる。
紗夜の険しい目つきから逃れようとパンパンと音を立て制服のスカートの砂を払い、地面に放り投げていた鞄を拾い上げた。
「あ、あの、ありがとうございました」
ズレたメガネを掛け直したサラリーマンの男性が、震えながら緋衣にお礼を伝える。
「え?あ、いやいやっ!……そんなことより大丈夫でしたか?もっと早く見つけられたらよかったんですけど……」
「いや、そんな、滅相もございません」
緋衣は男性に近寄ると、鞄から絆創膏と清潔なハンカチを取り出して彼へと手渡した。
そして、自分より少し背の低いサラリーマンに軽く頭を下げると満面の笑みを見せる。
「んじゃ、私たちはこれで。気を付けてくださいね、ここら辺は、治安悪いので!」
恐縮しながら頭を下げる男性に緋衣は元気よく手を振った。
***
交番前を通り、躑躅色の瞳をした、ボサボサ前髪をセンターで分けた警官と軽く挨拶を交わす。
いつもの何気ない日常の風景に、緋衣は眠たそうに大きな欠伸を漏らした。
大通りから通学路へと差し掛かったあたりで、浮かない顔をした紗夜が言葉を零す。
「昨日の子、登校してきてるかな」
「思ったより陰湿な虐めだったっぽいし、無理して学校に来なくても良いと思うけどなぁ」
「あの感じだと緋衣が気付かなかったらもっと酷いことになってたよね……」
「やってる事が汚いんだよねぇ……って、あれ、紗夜?」
横に並んで歩いていた紗夜が突如として、足を止めた。
「……こどもが」
紗夜が道路を見ながら呟き、それに気付いた緋衣はその方向に目線を向ける。
すると、小さな男の子が道路の中央線で膝を抱えたまま顔を伏せていた。
車は一台も速度を落とすことなく、猛スピードで走り続けている。
あのまま放っておけば、いつか轢き殺されるかもしれない。
「ありゃ、なんであんな場所に……ちょっと鞄持っててくれる?」
「え、でも……」
「大丈夫大丈夫っ!あっ、紗夜は危ないから下がっていなよ」
不安気な顔をした紗夜に荷物を押し付け、車列に飛び込めるタイミングを計る。
走っている車は全て時速七十キロ以上で走行していた。
この世界ではスピード違反なんてものは勿論、信号を守るなんて概念はとうの昔に無くなっている。
慎重に行動しないと助ける前に自分が轢かれたりしたら元も子もない。
「ぜ、絶対にッ!」
紗夜が声を張り上げると緋衣は驚いて振り返った。
「戻って来てね…緋衣…」
「うん!ちゃぁんと、戻ってくるから!」
歯を見せるように笑顔を向けグッと親指を立てる。
それでも紗夜は未だに複雑な表情を浮かべているが、緋衣は気付かず再び前を向き直した。
一瞬だけ車列が途切れる隙間を目にした瞬間、地面を蹴る。全速力で駆け抜け男の子の元まで滑り込んだ。
「っはぁ……お姉さんが来たからもう大丈夫だ…よ…」
緋衣は肩で息をすると、泣いているであろう男の子の背中を撫でる。
そして、安心させようと目線を合わせるように、しゃがんで顔を覗き込んだ。
――――そのとき、緋衣の息が止まる。
男の子は泣いてなどはなく、青白い顔は虚ろで真っ黒い瞳と目が合う。
淀んだ瞳に見つめられると、緋衣の全身が粟立った。
「……?」
少し寒気を覚えるが、こんな危険な場所にいるのだから、怯えている男の子の緊張が移ったのだろうと自分を納得させる。
やけに軽い男の子を強く抱え、戻るための抜け道を再び探した。
「しっかり捕まってて、絶対に……動かないでね」
気のせいかも知れないが、先程より車のスピードが速くなっている気がした。
同時に、視界の周りが徐々に陰を落とし、暗くなっていく感覚がする。
「はぁ…はや…正直ちょっと怖いねぇ……おっ」
鬱陶しい暗闇を拭うように目を擦ると、今まで感じたことのない恐怖に、緋衣は頭を軽く振って感情を押し殺した。
すると、少し後ろの方で普通車同士の間にわずかな空白を見つけた。そこへ飛び込む好機を窺う。
今なら、いける――――。
一歩足を踏み出そうと地面を蹴るが、足が動かない。
いや、違う。
動かせなくなっている。
「へっ…………」
「ありがとう、お姉さん」
動揺する緋衣に、抱えていた男の子が初めて言葉を発した。
下を見ると、にっこりと口が裂けてしまいそうな程の不気味な笑みを浮かべている。
「なッ!」
男の子は、硬直している緋衣の身体からするりと抜け出すと、彼の身体からは想像も出来ない程の怪力で胸元を押され二、三歩後ろへと蹌踉めく。
「僕の『身代わり』になってくれて」
プ――――!!
走行レーンへと弾き出され鼓膜を突き刺すような激しいクラクションの音が響いた。
横を向くと巨大なトラックのフロントグリルが目の前に迫ってくるのが、緋衣には恐ろしいほどにゆっくりと流れて見える。
「あかいッッ!!!!」
遠くから紗夜の引き裂かれるような叫喚が聞こえる。
緋衣の視界の端で甲高い笑い声を上げて走り去っていくのが見えた。
あ、これ、やばっ――――。
次の瞬間、身体を破壊するような衝撃を感じたと同時に現世のものとは思えない荘厳な声が聞こえた。
『日ノ原 緋衣。その魂を 黒坂 天鳴へ移す。君は彼に代わってその罪を贖え』
――――その言葉を最後に、緋衣の視界は闇に染まった。
「い゛っだぁ…!!」
ドスッと何かに激しくぶつかり、地面に尻餅をつく。
痛む身体を擦りながら目を開けると、目の前には老舗の店構えと見知らぬ老女。
蝉の鳴き声が遠くから聴こえるにも関わらず、首元までしっかり隠れるぐらいの頭巾を被っていた。
両手いっぱいの風呂敷を抱える老女が立ちすくんでおり、突き飛ばされたんだと気付く。
「ぁ」
「おいっ!待て、いきなりどうしたんだよ!?」
「追いかけろっ!」
喉まで出かかった掠れた声は、店の中からした響いた怒声でかき消されてしまった。
焦ったように老女は風呂敷に力を込めて抱え直し、駆け足で去っていく。
すると、今度は血相を変えた二人の青年が飛び出してこちらには目もくれず、老女を追いかけていった。
わたし……ん?……私?なんか、変だな?というか、さっきまで何してたんだっけ……確か、何か飲んで………いや……違う……あれ?
「うわぁぁぁん!!」
思考を巡らせていると、泣き声を上げて店の暖簾をくぐって出てきたのは、顔が涙でぐしゃぐしゃになった背の低い青年。
そんな彼は泣きながら、おぼつかない足取りで老女と青年を追いかけようとしているのか、その方向に足を向ける。
慌てて立ち上がり痛む尻を撫でながら、その男に声をかけた。
「えと、大丈夫?なんかあった?」
発した声が思っていたより低くて違和感を覚える。
「へぇ?『天鳴?』」
「あま…?」
涙を啜りながら名前を呼ばれ、潤んだ瞳でこちらを見上げた。
聞き慣れない名前に一瞬だけ疑問を浮かべたが、本能が「自身の名前だ」と言っているかのような妙なしっくり感があった。
「俺らの団子屋の金、全部店長に取られたんだよぉ!あいつ……急におかしくなって、俺達もうおじま…ッ!…ぅゔっ!」
男が震えながら話している途中、いきなり苦悶の表情を浮かべたと思えば、今度は首元を掻きむしりだした。
「あ゛あ゛あ゛あ゛ッッツ!嫌だぁ"ぁ"!」
そして、ボロボロと涙を零しながら泣き叫ぶ。
「えっ!?どっ、どうした!?痒いのか!?」
あまりの異様な光景に慌てふためき問いかけるが、青年の耳に自身の声は全く届いておらず、全速力でその場を去った。
「……え…ちょっ、待っ……!!」
手を伸ばしたが遠く離れた青年には届かず、投げかけた声に応える者はもう誰もいなかった。
見知らぬ土地で、雲ひとつない夏空の下にただ一人取り残されてしまった。




