第二話 : 切れない糸
冷たい麦茶が入った湯呑みが、暑さにより汗をかいて卓袱台を濡らしていた。
「……ふーん。いんじゃね?」
鳥居眞屋に戻るや否や、天鳴は老婆から貰った紙を、茶の間で仕事をしている呆阿へと渡した。
猛暑のなか必死に店番をしていた白は、手拭いで汗を拭いながらも、呆阿の後ろで顔を覗かせて同じく紙を見ていた。
「え?そんな簡単に?」
「逆に行くなって言う方が不自然だろ」
目を瞬かせる天鳴に対し、呆阿は興味無さげに目を細めると後ろ手で紙を白へと回した。
「でも今日海は非番だぞ?……ご飯の用意も、店仕舞いも、部屋の片付けだって、二人でやらないといけなくなるんだぞ!?」
「お前ご飯作れねぇじゃん」
顔を青ざめて身振り手振りで訴える天鳴に、呆阿は呆れた視線を向ける。そして、手渡された紙を見つめていた白が、顔をパッと上げた。
「天鳴くん、いつも俺たちより朝早く起きて、最後まで働いてるんすからそれぐらい気にしなくていいっすよ!今日ぐらい楽しんできてください!」
「うっ……眩し」
整った顔立ちも定まって、太陽のような満面の笑みを浮かべる白に、天鳴は思わず眩しそうに目を細めた。
そんな天鳴の様子を、呆阿はじっと見つめていたが、やがて筆枕に筆を置くと、卓袱台に頬杖をついた。
「というか、お前は本当に行きたいのかよ?」
「へ?」
呆阿の不意の問いかけに、天鳴は肩をビクリと揺らす。
「そんな顔に、俺は一切見えなかったけどな」
すべてを見透かすような蓬色の瞳に射抜かれ、天鳴の心臓がドキリと重い音を鳴らす。
呆阿の言う通り、正直に言えば行きたいか、行きたくないかで言われたら、これっぽっちも行きたくはない。
初対面の人とご飯を食べることや、会話を交わすこと自体は天鳴の性格上、元々苦ではない。寧ろどっちかと言うとその逆。
でも相手は、自分に襲いかかってきた民間人の集団の一人でもある。気が進まないのも無理もない話だ。
天鳴の視線は、呆阿と白の顔を捉える。
老婆に言われたことと、天鳴の意思をそのまま話せば、彼らは絶対に行かなくていいと断言するに違いない。
だけど、鳥居眞屋の売上がかかってる。行きたくない、なら行かなくていいよって済む簡単な話じゃないのだ。
この猛暑の中で店は畳まれ、十分な銭も無しに行き場を無くした天鳴たちは、恐らくカラカラに喉を枯らす。そして、あまりの水分の欲しさに民間人を脅し、乱闘でも始まるかもしれない。
そんな行き過ぎた想像をすると、天鳴は思わず背筋を震わせた。
参番隊との戦で沢山迷惑をかけたのだ。そこまで二人を苦しませて、甘えて、天鳴の尻拭いをさせるわけにはいかなかった。
――――鳥居眞屋は、俺が守る!
「い、行きたいに決まってるだろ!……だって、凶餐羅の料亭って一回は食べてみたかったし!」
左の口角を引き攣らせた天鳴は拳を弱々しく握りしめ目線を泳がせながら言い放つ。そんな天鳴を黙って見つめていたが、やがて諦めたようにため息をつくと、再び筆を手に取った。
「……理由が餓鬼かよ」
「さすがに天鳴くんも、餓鬼なんて呆阿くんに言われたくな――ヴッッ!!……め、目がァッ!!」
呆阿の横で顔を覗かせ、ヘラヘラと笑う白の顔面に目掛けて、彼は勢いよく筆を弾いて墨を飛ばした。
そして、目を押さえて悶絶している白に、天鳴は心の中でそっと合掌する。
「まっ、行きたいなら行けよ。店仕舞いとかは俺とハクビで余裕だからな」
悶えている白を目に見えない存在のように無視をした呆阿は、天鳴に向かって誇らしげに歯を見せた。
「あぁ、ありがとな。本当に助かる」
「ゔ……墨を飛ばさないでくださいっすよ……それより、海くんには言わなくていいんっすか?」
あまりの痛さに涙を流し、目を擦りながら白が問いかけた。
「……」
まさか彼の口から、海の名前が出るとは思わず天鳴の双眸が激しく揺れる。
「?……一応、俺達四人で鳥居眞屋っすよね?お報せとかしといた方がいいんじゃないっすか?俺はいつもそうしてますよ!」
天真爛漫な白の表情を前に、天鳴は首の後ろに手を当てて苦虫を噛み潰したような顔をするしか無かった。
脳裏に、老婆の言葉が過ぎる。
――――あの眼帯の坊やにはこのことを絶対に伝えちゃダメだよ。
「海には、言わない」
予想外のキッパリした答えに、品書きを書いていた呆阿の筆がピタリと止まった。それに続き、今度は白が目を丸くする番だった。
ポタリと、湯呑みに垂れた水滴がゆっくりと卓袱台に落ちる微かな音が聞こえた気がした。
「そ、なんすか?」
「…え………あ、いや、違う!急いで今から言いに行く必要は無いって意味で!終わってからはちゃんと報告するぞ!?海は今、酒問屋で忙しいみたいだし〜邪魔する訳には――」
慌てふためいて弁明する天鳴に、呆阿はバンッと乾いた音を立てて筆を強く置く。
すると、卓袱台に置かれていた湯呑みの水面が揺れた。
肩を跳ねさせた天鳴と白の動きがピタリと止まると、一瞬の静けさが茶の間を包んだ。
「なぁ。お前、俺らに何か隠してんだろ?」
呆阿の丸い目がすうっと細められ、天鳴を値踏むように見つめる。
「お前があいつに何の報告もしないなんて、ここに来てから今まで一回も見たことねぇよ。どういう風の吹き回しだ?」
ジリジリと卓袱台越しで迫る呆阿の威圧感に耐えかね、天鳴は両手を上げて降参のポーズを取った。
「え、い、いや、そうだ⋯⋯⋯たな」
思い返すと、庖丁で指を切ったこと、近くで見かけた猫が可愛かったこと、鳥居眞屋の周辺で走っていたら民間人に野次を飛ばされたこと、日常で何か起きたら必ずくだらない報告をしていたことを思い出す。
呆阿たちが異変を感じてもおかしくないことだった。
「海に言いたくない大したことない理由があるなら、俺から言ったりはしねぇ……んでもな、それ以外は別だ。何かあるなら今ここで、言え」
天鳴自身、何も悪いことを隠しているわけでは無いが、どうにも後ろめたい気持ちになってしまう。
民間人とご飯を食べに行く。ただ、自分自身があまり行きたくない。それだけだった。
海に言わないのは、老婆に言われたからであって、それを呆阿達に話せば、海が町で厄介者と呼ばれていることを自分の口から言い広めることになってしまう。
それは違うだろ、と天鳴は感じていたからだ。
「本当にご飯を誘われただけなんだ!それ以外、それ以上は、何も無いから!」
「隠してたら、井戸に沈める」
凄むような顔をした呆阿に、天鳴は息を呑む。すると、白が焦ったように二人の間に割って入った。
「ま、まぁ……相手は俺達もよく知っている民間人っすよ?……この紙だってちゃんと『宴』について書かれてますから!」
白が会話に混じったことにより、呆阿の放っていたピリついた空気が落ち着く。
天鳴はゆっくりと両手を下ろすと、気になっていたことを白に問いかけた。
「それってさ、何時からって書いてんの?俺、読めなくてさ」
「十八時からっす!こっから歩いて三十分ぐらいで着く市場のすぐ横の……え、り、鈴燈殿!?」
「りんどんでん…?」
首を傾げる天鳴に対し、白はパッと目を輝かせた。
「凶餐羅の長者しか行けないような、有名な高級料亭っす!ここに出てくる料理は、庶民には到底食べれないお肉や大きなお魚なんてものがあるんっすよ!?」
珍しく声を弾ませながら、くしゃくしゃの紙に顔を近づけて興奮する白を天鳴は呆然と見つめた。
「へ、へ〜……」
「いいっすよね〜!お肉……俺もう、五十年は食えてないっすよ」
「ご、ごじゅう!?……そんな歳に見えないな……」
「年を重ねても見た目は変わらねぇからな」
驚愕している天鳴に、呆阿が呆れたように助け舟を出した。そういえば、海も同じようなことを言っていたことを思い出す。
「呆阿と白も連れて行けたら良かったんだけどな」
「俺、信用してない奴と飯食いたくねぇから。要らね」
べっと舌を出し、再び筆を走らせる呆阿の横顔を見つめた。遠回しに自分達のことは信用していると言っているような口振りに、天鳴は思わず口角が緩む。
それを指摘するとまた怒り出すのは目に見えているので、天鳴は決して口には出さなかった。
「んでも、お呼ばれされてるのは天鳴くんだけなんで。今日は楽しんできてください!」
白はそう言うと、紙を綺麗に四角形に折り畳んで卓袱台の上に置く。
そのとき、外からすみませんと女性の呼ぶ声が聞こえ白は勢いよく立ち上がる。
天鳴はすっかり今が仕事中だということを忘れていた。
「はいっす!とりあえず今はお勤めするっすよ!」
白の仕切る声に、天鳴も立ち上がり厨へと戻る。
しかし、呆阿や白とどれだけ話しても、天鳴の背中にまとわりつく不快な糸が切れることはなかった。




