外伝 :私の大切な幼馴染
腕を優しく揺すられる感覚に、私は弾かれたように目を開ける。
――――酷く嫌な夢を見ていた。
「紗夜……大丈夫?すごいうなされていたけど……」
柔らかな声が耳に入り、朧気な視界からゆっくりと輪郭を表す。
やがて徐々に見えたのは私の幼馴染日ノ原 緋衣。
彼女は心配そうに眉を下げて、私の顔を覗き込んでいた。
相変わらずのボサボサの髪に、頬を覆う大きな湿布。化粧っ気も無くてお世辞にも小柄で可愛いとは言えない、普通の女の子。
だけど、燃えるような緋色の瞳は私が今まで見た中で一番綺麗な色をしていると思う。
「……ん、ごめん。もしかして、私寝てた?」
放課後。緋衣のアルバイトが始まるまでの少しの間、人気のない空き教室で静かに過ごしていたはずだった。
教室の壁掛け時計を仰ぎみると、十二時の位置にあったはずの長い針が、いつの間にか三時を指していた。
十五分ほど気を失うように眠ってしまっていたらしい。
「少しだけ。昨日夜更かししたんだろ?ダメだぞ〜身長が伸びなくなる」
「もうそんな歳じゃないよ……」
夕暮れの明かりに包まれた教室で、緋衣が持つスマホだけが明るく彼女の顔を照らしていた。
まだあの恐ろしい夢の余韻が残る頭を小さく揺すると、私のスマホを弄っている緋衣の手元を覗き込む。
施設育ちで質素な生活を送っている緋衣は、スマホなんてものを持っていないから、裕福な家庭で育った私がいつも貸してあげているのだ。
「本当に好きだね――――伊達政宗」
「へへっ。独眼竜の異名を持っているのも、彼の残した功績もまた胸が熱くなるんだよなぁ。それにこの眼帯!伊達政宗に似合いすぎている……なんか凄く、こう、か、かっこよすぎる……!まぁ、本当の伊達政宗は眼帯なんて付けていないって言われているけど」
画面に映っていたのは、何年か前にリリースされ、人気が出ないままとうの昔にサービス終了した歴史を元にしたRPGのキャラクターだった。
ネットの検索画面から、わざわざ画像を探し出したのだろう。
もう二度と動くことのない彼の姿を、緋衣は愛おしそうに見つめ続けている。
その横顔は緋衣にとって珍しい、あまりにも恋する乙女のそれだった。
――――緋衣は女の子らしくない。というより、女の子であることを家族から許されなかったみたいだった。
私が幼い頃、隣に住む緋衣の家からよく「お前が男だったら良かったのに」という狂ったような喚き声と、食器か何かの割れる音が聞こえていたのを、私は未だによく覚えている。
幼稚園の帰りに見かける彼女は、いつも両親の一歩後ろを必ず歩いていて、幼いながらも重い荷物を代わりに持たされていた。
表情は無に等しくて、まるで暗闇で生きているような彼女の顔は、いつも痛々しい青痣を顔に残し、時には足を引きずるぐらい酷い大怪我をしていた。
明らかな虐待をされているのにも拘わらず、周囲の人間は誰も緋衣に近付こうとはしなかった。
漫画に出てくる手を差し伸べて助けようとする救世主、みたいな人なんて一人も居なかった。
それは私も同じ。
他人事のように見て見ぬふりをしていたからだ。
それが当たり前だ、って思い込んでいたからだった。
ある日、私達が高学年にあがったぐらいのとき、
――――緋衣の両親は亡くなった。
鑑識官である私の父親曰く、緋衣の母親が父親を殺し後を追うように母親も自殺をしたらしい。
それが原因で、彼女は施設に引き取られることになった。
「もうすぐ望んでいた男の子が産まれるというのに可哀想だ」なんて父親が言っていたが、私は正直そうだとは一切思わなかった。
そして、遺書には「世界中の人を救ってあげるのよ⬛︎⬛︎」という、誰に向けて書いたか分からない不気味な一言が残されていた。
後半の文字は漢字か何かで書かれていたが、ぐちゃぐちゃで誰一人解読できなかったらしい。
だけど、その日を境に緋衣は変わった。
大人しくて、まるで自我なんて産まれた時から持っていないように見えた彼女は『人助け』を始めたのだ。
そのことに気づいたのは、私がクラスの連中から悪質ないじめを受けていた時だった。
授業が終わり、教室で無くなった筆箱を探していたところを大勢に囲まれ、トイレに引きずるように強い力で腕を掴まれた。
抵抗する私の腹を、足で蹴るという小学生では考えられない暴行に私は感じたことの無い恐怖で酷く怯えていたのを今でも思い出す。
髪の毛を掴まれ、トイレの便器に顔を押し付けられそうになると、私はそこで必死に助けを求めるように泣き叫んだ。
今の時代、学校に通う生徒も少ない上に下校時刻はとっくに過ぎていて、誰も助けに来てくれる気配がなかった。
嗜虐の笑いを上げる同級生の声が響く。
便座を支えていた腕の力が抜けそうになったとき、突如頭皮に突っ張る痛みが不意に消えた。
さっきまでの下劣な笑い声は静まり、不思議に思った私はおずおずと振り返る。
そこに居たのは、あの日ノ原 緋衣だった。
いつも暗くて虚ろな目をしていた彼女が今は見違えるような姿で佇んでいる。
緋色の瞳に静かな炎を宿らせ、主犯格の男の子の腕を傷跡の残った小さな手が掴んでいた。
『嫌がってるだろ。辞めなよ』
地味で、あまり登校すらしなかった彼女が止めに来るとは思わなかったのだろう。
男の子は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに意地になって声を荒らげると掴まれていない方の手で私の頭を叩く。
その瞬間、緋衣は掴んでいた男の子の腕に力を入れる。
ギギギっと音が出そうなぐらい小麦色の肌が歪み、鬱血していく腕を見る限り彼女は、骨が軋むほどの力が込められているのは明らかだった。
案の定、男の子は大声で喚いて泣き出したのだ。
その悲鳴を聞いた途端、緋衣は素直に手をパッと離すと男の子たちは逃げるようにトイレから出ていき、残されたのは緋衣と私だけになった。
そして、緋衣がゆっくりと私の元へ歩み寄ると、小さな手が私の頭へと手を伸ばされた。
『あ⋯⋯ぅ』
近付いてくる手に怯え肩をすくめる。だが、ポンっと穏やかな音が鳴り、頭の上に手が置かれるとそのまま労わるように優しく撫でた。
『大丈夫?確か、前の家で隣に住んでいた紗夜だよね?』
初めて声を聞いた。
柔らかで少しだけ鼻にかかった低い声。
さっきまでの様子が嘘のように、彼女の顔にはまるで桜の蕾が咲いたような暖かい笑顔を浮かべていた。
あれから私たちは、ずっと一緒に居るようになった。
いじめが怖く、助けてくれる人が居て欲しかったから、最初は彼女を利用していたが、時が経つにつれ今は家族と同様に緋衣も大切にしている。
だけど、誰よりも長年緋衣の一番近くにいる幼馴染のはずなのに、私は何一つ彼女のことが分かっていなかった。
今だってそうだ。
施設員の人に迷惑をかけられないからと、一人暮らしするため高校に入ってからは現場作業のバイトを始め、自分の身を削るように生きている。
そのせいで頭も悪いし、家事ひとつできっこない。
生涯一回切りの女子高生の時代を、彼女はバイトで潰している。
オシャレとかお菓子作りとか、プリクラを撮ったり買い物に出かけたり……もしくは恋なんて、してもいいはずだ。
それなのに、緋衣がすることは危ない集団に問答無用で一人で突っ込んでいき、ことある事に弱い者を助けることだけだった。
優しく、温厚で、他人のための正義感だけは何故か人一倍強い、まるで男の子のようだった。
『世界中の人を救ってあげるのよ』
まるであの気味の悪い遺書の言葉通りに、彼女は動いているように私は見えた。
思い耽っていると、私はあることに気づく。
「それより、緋衣バイトは?もうとっくに行かないとダメな時間なんじゃないの?」
「サボった!」
緋衣は悪戯が成功した子供のように笑うと、ピースを私へと向けた。
思わず驚いて一瞬声が出なくなる。それは、今まで緋衣がバイトをサボったことなんて一度もなかったからだ。
「……な、なんで」
「今日はちょっとやる気が無くて〜」
言いながら後頭部に手を回すと先輩から貰ったという、汚れた制服のリボンがふわりと揺れた。
緋衣は視線を斜め下に向けると、左の口角を引き攣らせた。
何かを隠す時や、嘘をつくときはいつもこの癖が出ている。
世の中に罪人が増え、一人で外を出ると危ないと言われている世界で、私を置いて帰ることが出来なかったからバイトを休んだのだろう。
ヒシヒシと感じる緋衣の優しさを見るのが、今は何故か辛かった。
「夢を……」
「ん?」
「緋衣が死んじゃう夢を見たの……」
喉の奥が狭くなり声が震える。
緋衣は、私の異変に気づくと、スマホの電源を切り私の傍に置いた。
「私が?」
夕暮れの光に透ける彼女の輪郭が、何故だか今にも消え入りそうに儚く見えて、胸の奥が痛いほどに冷えていく。
私が小さく何度も頷くと、緋衣はいつものようにヘラりとした笑顔を浮かべて何ともなしに返事した。
「んなわけないでしょ。私は頑丈だけが取り柄なんだから」
確かにそうだ。緋衣は、何回も何十回も危ない場所に一人で突っ込んでいくが、今まで大怪我なんてしたことなかった。
自分でも分かっているはずだ。
だけど、彼女の笑顔を見るだけで、どうしてこんなにも、酷く胸が引き裂かれそうになるんだろう。
「こんな夢見たの、緋衣が彩南高校の人たちと、喧嘩したからだ……」
思わずぐずった言い方をしてしまったが、緋衣は困った表情をせずに鼻高々に声を弾ませた。
「いや喧嘩じゃないって。絡まれていた子を逃がしてあげただけ」
緋衣は手の平を私に向けると、自信満々に鼻をフンッと鳴らした。「私が喧嘩なんてするわけないでしょ」という彼女の声が耳に入ってくるが、私はそれどころではなかった。
向けられたその手は、彼女の父親の暴力を思い出させる白い傷跡と、もう元に戻らない変色した痣。
昔の小さな手はそれだけでも痛々しかったのに、今は手が大きくなり、更にはマメが潰れ硬くなった皮膚も目立っていた。
到底同世代の女の子の手とは思えなかった。
暖かい液体が次々と頬を伝う感触がする。
夢が怖かったのもあるけど、それだけじゃない。ただ私は――――。
夢の中の緋衣の死相が、まるでいつか本当に訪れる未来の予兆のように思えてたまらなく怖かったからだ。
涙を零す私に、緋衣は笑うのを一瞬で辞めて目を見開く。
そして、ガタンと大きな音を立てて椅子を引いた。
「紗夜……」
見上げると悲痛な顔を浮かべた緋衣が身を乗り出していたのだ。
大きなゴツゴツとした暖かい手が、あの時と同じように私の頭にソッと優しく触れる。
「大丈夫だって……私が紗夜を一人に残して、死ぬわけないじゃん……ね?」
緋衣が悲しんだり、傷ついた顔をするのは、私が泣いているときぐらいしか見たことない。
いくら怪我しても、周りから暴言を浴びても緋衣はいつもへっちゃらの顔をしていた。
それは、慣れから来ているものなんだろうか。
「あ、ほら、あれあれ!あのオタマジャクシみたいな……ヤマオカ……じゃなくて……」
「たぴおか……」
「あ、そうそう!タピオカ!!大人になったら一緒に飲むって言ったじゃん!原宿の!あれ飲めるまで私、死ねないや〜!」
アタフタと片手を身振り手振り動かす。
だが、私の頭に置いている手は、私が泣き止むまでずっと撫でていた。
――――嘘つき。
私が飲みたいって言ってただけで、自分は大して興味もない癖に。
自分のことなんて、これっぽっちも大切にしていないくせに。
私がこうして泣いても、明日には危ないところへ一人で突っ走るくせに。
本当の気持ちなんて、私にも言わないくせに。
胸に次々と積もっていく言葉は、どれも形にできず、私はただ、情けなく嗚咽を漏らすことしかできなかった。
***
「新里さん、面会時間はとっくに終わってますよ。これで七回目です。いい加減にしてください」
「……すみません」
「もう、病院はそういう所じゃありませんからね。こんな忙しいときに――」
頭にお団子をした看護師は肩をすくめると、嫌味ったらしくブツブツと文句を言いながら病室を出て行く。
残された静寂の中、あのときと同じ夕暮れの光が緋衣を淡く照らしている。
緋衣がトラックに轢かれた後のことは、よく覚えていない。
頭から赤黒い血を流し、生気を失った青白い顔に、一気に血の気が引いた。
あのとき、見た夢が重なった気がした。
声にならない叫びと、涙で視界がぐちゃぐちゃになり、パニック状態のままガタガタと震える手でスマホから母親に電話をかけたところで意識が途切れた。
意識が戻ると病院のベッドで横たわっており、私の手を握っていたのは緋衣でもなく、辛そうに眉間に皺を寄せていた母親だった。
緋衣に下された診断結果は遷延性意識障害――所謂、植物状態だ。
病室に空きが無く、費用も払えないことから施設の人は安楽死を選択しようとしていた。
けれど私は必死に拒否をし、父親に無理を言ってまでこうして今もまだ緋衣の命を繋ぎ止めている。
あれから一ヶ月が経っても、緋衣の意識は戻らない。
回復の見込みも無いと、周りは言うが私はそんなの信じれなかった。
だって、約束したんだから。
だから、
「ぜったい、戻ってきてよ」
生きているときには私から触れることすらできなかった彼女の冷たいまろい頬を、私は初めてそっと優しく撫でる。
「緋衣――――」




