歪な性衝動 3
あれから2日と2時間が経とうとしていた。都市部からは、遠く離れた場所に着き。辺り一帯は、水田や露地で栽培されている作物の畑や、家畜の鳴き声が木霊している畜産場所が目の届かない場所まで延びていた。俺が、走っている道は車が通る車道から、まだアスファルトが舗装されてない地面や雑草が、剥き出しになっている道へと変わっていき、信号機もなく自動販売機の1つもなく、ましてや街灯や電柱もない。しかし人が、この町に住んでいるのは分かる。いつの時代の家屋か分からないのだが何軒も山の斜面などに建っているのだ。家屋のすぐ隣に、広大な土地の畑を一人で耕す老人が、こちらを、未来からタイムスリップしてきた未来人を見る目で、不思議そうに見てくる。
夏は、まだ終わりを迎えてはなく小麦色に日焼けしたその額や首筋から滲み出ている汗を、油か泥で汚れた白いタオルで自身を拭く。こちらを、無邪気な子供の様な笑い方で、笑みを見せてくるのが遠くからでもわかった。若者の姿は、一人も居ず平均年齢六十才位の還暦の年寄りが、ほとんどであり一年間作物や畜産に目を背けない状態という、何とも都会産まれ都会育ちの俺には全く理解し難い光景であり、何よりも都心部で生活していく事への苦労さなんて物を、知らなそうなその理不尽な笑顔は、何故だか無性に腹が立ってしまう。だが嘘のない笑顔とは、この事なのかもしれない。
自然からの賄いから遣り繰りしている。そんな町に見えた。何よりもここに住む人達は、意味を持って生きようとしているのがわかった。常識には、とらわれず。人間が生きていけるだけの最低限の術がここにはあるのだ。自身の娯楽などとは、程遠く食べ物にさえ困らなければ良いというその考え方に、俺は何故か惹かれてしまった。これもまた、始めての出来事を見て感じた初体験の様なものだろうか。それとも、本能が勝手に反応しているだけなのだろうか。
ずっと走り続けた単車の燃料タンクが、空になってしまった。俺は、畑の横の小道に単車を停めリュックに予め常備していたガソリンを、補充する事にした。すると突然、単車から降りた天音がこの町を眺めて言い出した。
「何もないね。人の欲が作ったものが」
天音は、だぼだぼの袖の裾を肘まで上げそう言った。あれから俺は、2日が過ぎたが薬は使用しなかった。なぜだか薬を服用する所を天音が見た場合、どういった反応をするかが怖く、ずっとジーンズのポケットの奥の方で閉まったままであった。自然と天音といると薬の事を忘れる事ができ、今や俺にとって天音と一緒に長くいられる事への依存が、芽生きつつある。恋などとそんな軽度な病じみた事ではない。俺は、天音と運命共同体の様に繋がっている感じだ。この繋がりは、金輪際切れる事はない。恋ではないなどの仮定ができるのは、俺は天音と接吻を交わす事や性行偽などをしたいという欲求には達しないからである。
都会の若者とは、明かに違う歪な点だ。奴らは、性行偽をしたくば犯罪すらも犯す首輪の付いてない猿なのだから。俺が欲しいのは何かにすがる依存性のものだけである。
日が沈む頃、赤トンボの大群が、稲の畑の上を空軍が軍事飛行するかの様に、実に美しく飛び回っていた。セミの鳴き声が、草原に潜む鈴虫の鳴き声と変わりだし、とても風流な気持ちになるのである。すると一軒の家屋の前へと着き道を訪ねる為中にいる家主を探す事にした。玄関は、ステンドガラスの様な物に黄土色のアルミ製のサッシでできており、何とも無防備感が漂っており、ベルを鳴らし家主を呼ぼうとするが、何処にもベルがないのだ。人は、住んではいないのかと思っていると、天音が不審そうに人差し指を玄関に突き立て、「あっ」と言葉を漏らした。
その玄関は、少しだけ開口状態であり鍵をかけてはいなかったのだ。俺は、「お邪魔します……」と小さな声でゆっくりと玄関を開け中へと足を踏み入れた。その中は、線香の匂いがしており、なんとも都会にはない匂いがし、それと同時に味噌汁の柔らかい匂いが、奥の台所の方からすきま風に乗って俺の嗅覚を、燻らすかのように漂ってきた。なんともよい匂いなのだ。台所の方では、人の気配がしており、俺はもう一度、先程よりかは大きな声で言った。「お邪魔します! 」すると台所の方から割烹着姿のお婆さんが、軽快な動きでこちらに迎ってきた。
皺が何重にも寄ってできたその顔は、年老いた樹木の年輪にそっくりだ。生きた数ほど、厚く締まる。しかし可笑しな話で、歳老いたその体の内部は、着々と命が枯れるのを待ち、年越しのカウントダウンのように近づいてくる。あまりにも残酷だ。これまで多くの物や人に触れ、培ってきたものが全て一瞬にして最後は失われるのだ。そうだここにも都会とは、なんら変わりのない矛盾点がある。俺は、お婆さんを疑うようにして見つめながらこう言った。
「あの僕達、道に迷ってしまったのですが。 ここがどういう場所なのか聞かせてもらえますか? 」
「ほう、珍せぇわけぇ人やは何年ぶりじゃろうかいな。ここは長峯いう小さな集落じゃ。 なんでまたこんな所に? 」
「僕達、旅をしてまして」
「ほうかいほうかい、ただもう暗うなる、道ば走るのは危ないで、今日は泊まって明日にしいや」
そのお婆さんの言われるがままに、俺達は泊めてもらうことにした。電気は、古くなった年代物の自家発電気を使い、天井に垂らした小さなむき出しの豆電球に、電気を直結させリビングを照らした。ここにはガスもなく、水は家の裏にある井戸から汲む状態である。味噌汁を煮ていた鍋の下には、実物を見るのは初めてだが、大きな釜戸が置いてあり、そこの洞穴のような場所に、すぐ近くにある裏山から刈り取ってきた薪を、入れて燃やしていた。すると裏口から長靴を履いた白髪のお爺さんが、入ってきてこちらを不思議そうな目で見て、口をあんぐりし茫然と立ってしまっていた。
俺は、お爺さんにちょっとしたばかりの挨拶と状況の説明をしようと口を開こうとした。だがその場に立ち尽くしたお爺さんは、「勝彦」と、ボソリと呟き突如、大量の涙を流しだした。お爺さんの様子を、影から見ていたお婆さんが慌てながら、お爺さんの元へと駆け寄り優しく両肩を、しわくちゃな手で添え訂正するようにして呟きかけた。「あんた、この人は勝彦とちゃうで通りすがりの旅人さんや」と。
お爺さんは、少し残念そうな面持ちで、元々曲がっていた背筋がより一層しょぼくれ曲がってしまった。夜の7時を迎え、夕御飯はご馳走してくれるという事になり、俺と天音は親切な気持ちを踏みにじりたくはなく一緒に食べる事にした。リビングには、普段から老夫婦だけが使うため小さな卓袱台が、真ん中に置いてあり台を四人が囲うようにして座る。綺麗な白米や畑で取れた自家製の野菜の漬物、煮干しのダシと地元の特産品のワカメが入った味噌汁、ご近所の漁師が朝早くから取ってきた黒鯛の刺身と煮付け、どれも素朴な料理なのだが食材がまだ生きているように見えた。
マヨネーズやソースはなく。塩か醤油という限られた味覚感覚だけで箸を進めなくてはいけない。そう考えると自分が、これまでどれだけの娯楽さを求めていたのかがわかった。俺は、老夫婦の顔を見て「いただきます」と言い、まず箸を漬物に差し伸べた。何故か少しだけニヤリと笑ってしまうのだ、誰か人と一緒に食卓を囲んで御飯を食べると言うことがあまりにも可笑しくて嬉しくて、久しぶりな感じであった。漬物は少しだけ土臭く、それでいてお婆さんの漬物を漬ける姿が目に浮かんだ。それだけではなく色んな食材から生産者の思いというのが何故か感じてしまう。
普段、食べ物には一切拘らないのだが、俺は1つ1つを大事そうに噛み締め、味覚の神経を極限にまで研ぎ澄まさせ深く味わった。俺は、横で奇妙な動きをする天音に気づき箸の動きを一旦止めた。天音は、箸の持ち方を知らなかったのだ。なんともその姿は、ぶっ格好な物で、幼稚園児が箸を使っているかの様であった。呆れた俺は、天音の手を持ちながら誘導する様にして箸の持ち方を一から教える事にした。その光景を見たお婆さんは、冷やかしのつもりで発したのか、「夫婦仲がいいんですね」と笑いながら言い、俺は耳を真っ赤に染め上げてしまった。
そんな中、俺は泊めて貰う事に感謝とし老夫婦の前で頭を下げた。するとお爺さんが、「困った時は、助け合いじゃ」と高笑いしながら言い、先程から日本酒を浴びるようにして飲んでいたせいか顔はもう真っ赤であった。その顔はまるで、日本猿の様で可笑しかった。
そんな中、俺の方をじっと監視をするかのように見つめてくる男性がいた。その男性は、白黒写真の中に住んでおり学生服を着ている。俺は、その男性の写真については、老夫婦には言及しようとはしなかった。
ご飯を食べ終え、風呂が沸いたので入れという合図をお婆さんが言い、俺は2日も風呂に入ってない垢だらけで臭い体を、念入りに洗おうと思ったのだがシャワーがなく、仕方がなく洗面器を使い体を洗う事にした。なんとも不便極まりない。
二階にある、空き部屋を貸してもらう事ができ、俺はそこで、布団を隣り合わせに二つ用意し、天音が風呂から出るのを待った。
女の風呂は、長いとは聞いた事がある。天音が、入浴し始めてから一時間近く経とうとしていた。俺は、心配になり下に降り浴室を覗きに行く事にしようとしたその時、天音が二階へと丁度上がって来ていた。俺は、そのまま布団の中に入り仰向けの状態で、天音に話しかけた。
「長かったね……」
「お腹痛くて、トイレ行ってた」
「生理?」
「違うよ」
天音は、何も言わないまま部屋の灯りを消し布団へと静かに入り、俺には背を向けた状態で横向きに寝ようとした。俺は、天音と就寝前に、少しだけお喋りがしたくなり話しかけた。「あの写真の学生って勝彦って言う人だよね」俺は、急に呟きそれに反応した天音は背を向けて見えなかった顔をこちらへと向けてきた。俺は、立て続けに言う「なあ、天音。ここで隠れていないか? 」と。それを聞いた天音が、小さく頷いたのが微かに見えた。
どんなに景色や環境が、変わったとしても自分達の罪が重石を増していき、変わらない現実の不安定な狭間にいるように感じ生き苦しくなった。今でも俺は、覚えている。毎晩、夢で高橋先輩の顔が出てくるのだ。地獄に落とされ苦しみに耐えきれなくなった鬼のような形相が、ずっとこちらを見て命乞いをしてくる姿だ。その夢を、見た後俺はいつも同じような事を思い出す。どうしてあの時、天音の手を止めなかったのだろうかと。もうあの時すでに、俺は人間ではなかったからかもしれない。しかし、何故か自分の胸のモヤモヤが、消えず考えても考えてもあの時こうしてれば良かったなんてのがわからないのだ。
俺は、自分が怖い。いつか大切な人すらさえも、裏切って奈落に突き落としてしまう様な獣になりそうで、そう考えると毎晩足がブルブルと震えだし怖くなる。俺自信もこのまま天音と逃げ隠れて生きていけるとは思っていない。非常に不安であり恐怖だ。だが何故か思いついた事をすぐにでも行動に移し、家を飛び出したかった。あがいてあがいてもがき苦しむ自分の姿は、人間なのかもしれないという考えが頭に過るのだが、それを全力で拒む獣の俺が掻き消していく。
夜が、こんなにも静かだと気づいたのは初めてだった。公共の交通機関もなく人の声すらも聞こえてこない。もしも人が、死んだ場合はこういう無の世界で、一生さ迷っていくのだろうか。無音からくる絶望が、俺を縛りつける。その重圧に耐えきれず、何度もこぼれ落ちそうになる涙を、歯を食い縛り執拗に止めるのだ。獣に涙なんてのはいらない。




