第九話 土の色:「正しいだけでは動かないことがある」
第9話です。舞台は北へ移って、岩手・盛岡。
十八年前に礼二が借金を肩代わりした、農家の三浦を訪ねます。
第1〜8話をまだお読みでない方は、そちらからどうぞ。
盛岡に着いたのは昼前だった。
東北新幹線を降りると、空が広かった。福岡の重い空とは違う。高くて、薄い青だった。
「空の色が違いますね」とシンが言った。
「そうだな」
「福岡より緯度が高いので、光の角度が」
「説明はいい」
「わかりました」
ハルがバッグから顔を出した。空を見た。それから風の方向に鼻を向けた。
「ハルは何を嗅いでいますか?」とシンが言った。
「土だろう」と礼二は言った。
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知り合いの名前は三浦といった。
十八年前、礼二が借金を肩代わりした。父親が残した農地の負債だった。潰れかけていた農家を、礼二が理由もなく助けた。当時三十歳だった三浦は、今は四十八歳になっている。
駅前まで軽トラで迎えに来た。
日焼けした顔に、泥がついていた。礼二を見て、深く頭を下げた。
「遠いところを」
「来ると言った」
「礼二さんは必ず来てくれますね」三浦は少し笑った。「信じていましたが、信じながら心配もしていました」
「どっちだ?」
「両方です」
礼二は三浦を見た。正直な男だ、と思った。十八年前も同じだった。
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農地は盛岡の外れにあった。
水田と畑が混在している。水田には稲が青く伸びていた。畑にはネギと大豆が並んでいた。
「きれいだな」と礼二は言った。
三浦は少し黙った。「今年は、どうなるかわかりません」
「何があった?」
三浦は畑の端まで歩いた。礼二とシンがついていった。
畑の隅に、枯れた列があった。ネギが三列ほど、茶色くなっていた。
「隣の区画から何かが流れてきているようで」と三浦は言った。「去年の秋から、端の方だけ枯れていく」
「隣は誰の土地だ?」
「農業法人です。二年前に入ってきました」三浦は声を落とした。「大きな会社で、機械化が進んでいて。うちみたいな小さな農家とは規模が違う」
「その法人が何かをやっているか?」
「わかりません。ただ」三浦は枯れたネギを見た。「農薬の量が多いと聞いています。近所の農家から」
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シンがしゃがんで、枯れたネギの根元の土を見た。
「触れますか?」と三浦に訊いた。
「どうぞ」
シンは土を少し指で掘った。匂いを嗅いだ。
「土の変色があります」とシンは言った。「農薬の過剰散布で起きる変色と一致します。ただし、断定はできません。土壌検査が必要です」
「検査はできるか?」と礼二が訊いた。
「農業試験場や、民間の検査機関に依頼すれば可能です。ただし、時間がかかります」
「費用は?」
「数万円程度です」
三浦は少し黙った。「やってみます」
「やれ」と礼二は言った。「証拠がなければ何も言えない」
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夜、三浦の家で飯を食った。
ひっつみ汁と、塩辛と、白米。
「うまいな」と礼二は言った。
「ひっつみは母が教えてくれた作り方です」と三浦は言った。「母は十年前に亡くなりましたが」
礼二は汁を飲んだ。小麦粉を手でちぎった団子が、根菜と一緒に煮えていた。素朴な味だった。
シンは膳の前に座っていた。ひっつみを見ていた。
「何を見ている?」と礼二が言った。
「団子の形が不均一です。手でちぎるため、毎回形が変わる。機械では再現できない」
「食べてみろ」
「食べられません」
「わかってて言っている」
「七割の確率で冗談ですね」とシンは言った。
三浦が少し笑った。「七割って何ですか?」
「こいつなりの答え方だ」と礼二は言った。
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食後、三浦が言った。
「実は、法人から土地を売ってくれという話が来ています」
礼二は三浦を見た。
「いつ来た?」
「三か月前です。最初は丁寧な話でしたが、最近は少し」三浦は手元を見た。「圧力というか、このまま農業を続けるのは難しいんじゃないかという言い方をされています」
「土地の値段は?」
「相場より少し高いです。だから余計に」
「売りたくないか?」
「売りたくないです」三浦は顔を上げた。「父親が守った土地です。俺も守りたい」
礼二は少し考えた。
「農薬の件を記録しておけ。写真と日付を、今日から毎日。土壌検査も早めに頼め」三浦はうなずいた。「法人に対抗するには証拠しかない。感情では動くな」
「わかりました」
シンが口を開いた。「農地の買収圧力は、農業委員会に相談できます。違法な手段が使われていれば、行政が介入できる場合があります」
「農業委員会」と三浦は言った。「そういうところに相談していいものか?」
「相談するためにある機関です」とシンは言った。
三浦は少し驚いた顔をした。「そうですね。考えてみれば」
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翌朝、礼二は一人で隣の区画を見に行った。
シンを連れなかった。一人で、農道を歩いた。
隣の法人の畑は広かった。機械が入っていた。作業員が数人いた。礼二はその端を歩いた。
土の色が違った。三浦の畑より、少し暗い。締まりすぎている。化学肥料と農薬を重ねた土の色だ。礼二には農業の知識はなかった。しかしその土を見て、何かが多すぎると思った。
作業員の一人が礼二を見た。礼二は目を合わせた。作業員が先に目を外した。
礼二は農道を戻った。
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三浦に言った。
「土の色が違う。あちらの方が暗い。シンの言った通り、農薬か肥料の量が多い可能性がある」
「でも、それだけでは」
「証拠にはならん。だから検査をしろと言った」礼二は三浦を見た。「お前は正しいことをしている。ただ、正しいだけでは動かないことがある」
「それは」三浦は少し間を置いた。「礼二さんの世界でも同じですか?」
「同じだ」礼二は窓の外の畑を見た。「だから証拠を積む。それしかない」
三浦はしばらく黙っていた。
「礼二さんが来てくれなかったら、売っていたかもしれません」
「売ってもよかった」と礼二は言った。
「え?」
「お前が決めることだ。守りたいなら守れ。売りたいなら売れ。俺はどちらが正しいかは言えない」
三浦はそれを聞いて、少し笑った。「澤田さんから聞いていました。礼二さんはいつもそう言うって」
「澤田から聞いたか?」
「出所してからも旅を続けているって。うちにも来てくれるかもしれないって」
礼二は何も言わなかった。旅先の人間が、互いに話しているとは思っていなかった。
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発つ前に、三浦が畑から野菜を持ってきた。
ネギと大豆と、小さな玉ねぎ。
「持っていってください」
「持って歩けない」
「シンさんに持ってもらえば」
礼二はシンを見た。シンは既にネギを持っていた。
「いつ受け取った?」と礼二は言った。
「三浦さんが渡してくれたので」
「俺に訊いてから受け取れ」
「わかりました。ただ、もう持っています」
三浦が笑った。西原と同じような笑い方だった。礼二は何も言わなかった。
「また来ます」とシンが三浦に言った。
「また来い」と礼二が言った。
二人と一匹は農道を歩いた。シンはネギを持っていた。ハルがバッグから顔を出して、ネギの匂いを嗅いだ。それからすぐ引っ込んだ。
「気に入らなかったようです」とシンが言った。
「そうか」と礼二は言った。空が、来たときよりも青かった。
お読みいただき、ありがとうございます。
礼二は旅先で、思いがけない言葉を聞きます。
旅先の人たちは、礼二の知らないところで、互いに話していたようです。
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