第八話 夜の客:「後悔してますか」と、男は訊いた。
第8話です。舞台は九州へ移って、福岡・博多。
十年前に礼二が送り出した、タクシー運転手の西原と再会します。
今回は、事件のない一話です。
第1〜7話をまだお読みでない方は、そちらからどうぞ。
博多駅を出ると、雨だった。
梅雨の終わりの、重い雨だ。礼二は少し立って、空を見た。
「傘はありません」とシンが言った。
「わかってる」
「買いますか?」
「いらん」
礼二は歩き出した。シンがついてきた。ハルはバッグの中で、出てくる気配がなかった。
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知り合いの名前は西原といった。
十年前、礼二が組から送り出した。当時三十五歳。口が達者で、人懐っこくて、しかし短気だった。短気は直らなかったが、それ以外は使えた。礼二が二種免許の費用を出して、福岡へ行かせた。
今はタクシーの運転手だ。
待ち合わせは中洲の手前の橋の上だった。西原は傘をさして待っていた。
礼二を見て、顔を崩した。
「ずぶ濡れじゃないですか?」
「問題ない」
「問題ありますよ」西原は傘を礼二に向けた。「どうぞ」
「お前が濡れる」
「俺はいいんです。会長に風邪ひかれると寝覚めが悪い」
礼二は西原を見た。「会長と呼ぶな」
「すみません。癖で」西原は全く反省していない顔で言った。「礼二さん、でいいですか?」
「それでいい」
礼二は傘を受け取った。西原はすでに次の話を始めていた。
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西原の車に乗った。
営業中ではなく、私用の軽自動車だった。助手席に礼二、後部座席にシンとハルのバッグ。
「シンさんって、AIなんですって」と西原は言った。走り出しながら言った。
「そうです」とシンが言った。
「どんな感じですか、AIって?」
「どんな感じ、というのは?」
「なんか、考えてるとき、頭の中どうなってるのかなと思って」
シンは少し間を置いた。「処理が走っています」
「処理。なるほど」西原は信号で止まった。「俺もタクシー乗ってると、頭の中でいろんな処理が走ってますよ。あのお客さん、どこ行くんだろうとか、この道混んでるなとか」
「それは私と似ているかもしれません」
「AIと一緒にされた」西原は礼二を見た。「礼二さん、こいつ面白いですね」
礼二は窓の外を見ていた。「そうか」
「そうですよ。俺、人間より話しやすいかも」
「失礼じゃないですか?」とシンが言った。
「褒めてるんです」
「褒め方が独特ですね」
西原が笑った。声の大きな笑い方だった。礼二は何も言わなかった。
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西原の行きつけの店に連れていかれた。
屋台だった。中洲の外れにある、古い屋台だ。豚骨ラーメンと、おでんと、焼き鳥。
「ここ、二十年やってる店です」と西原は言った。「親父さんが始めて、今は息子が継いで」
「うまいか?」
「うまいです。礼二さんに食べさせたかった」
ラーメンが来た。
礼二は一口食べた。スープが濃かった。骨の味がした。
「うまいな」と礼二は言った。
西原は嬉しそうな顔をした。子どもみたいな顔だった。四十五歳の元組員の顔ではなかった。
シンは屋台の造りを見ていた。
「何を見ている?」と礼二が言った。
「屋台の構造を観察していました。可動式でありながら、安定性を確保するための設計が」
「飲んでみろ」
「飲めません」
「わかってて言っている」
「冗談ですか?」
「どう思う?」
シンは少し間を置いた。「七割の確率で冗談だと思います」
西原が礼二を見た。「七割って何ですか?」
「こいつなりの答え方だ」
「面白い答え方ですね」西原はシンを見た。「残り三割は何なんですか?」
「本気で食べさせようとしている可能性です」
西原がまた笑った。
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酒が入った頃、西原の話が変わった。
福岡での十年。最初の三年は別の仕事をしていた。うまくいかなくて、タクシーに変えた。今は夜の仕事が多い。中洲を中心に走っている。
「夜は面白いですよ」と西原は言った。「いろんな人が乗ってくる。泣いてる人、笑ってる人、黙ってる人」
「黙ってる客は何を考えていると思う?」
「大抵、誰かのことを考えてます」西原はおでんを食べた。「俺、そういうの、もうわかるんです。十年乗ってると」
「そうか」
「礼二さんは、タクシー乗ってるとき何考えてますか?」
礼二は少し間を置いた。「何も考えていないことが多い」
「それ、すごいですよ」西原は言った。「俺、何も考えないってできないんです。頭の中、ずっとうるさい」
「昔からか?」
「昔からです。だから短気だった」西原は杯を置いた。「礼二さんに出ていけと言われたとき、何も考えるなって言われた気がして」
「そんなことは言っていない」
「言ってないですけど、そう聞こえました」西原は礼二を見た。「おかげで少しましになりました。頭の中」
礼二は何も言わなかった。
屋台の外で、雨がまだ降っていた。
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深夜、西原が車で送ってくれた。
ホテルの前に着いて、礼二が降りようとしたとき、西原が言った。
「礼二さん、一個だけ聞いていいですか?」
「何だ?」
「後悔してますか? 組を続けていれば、もっと別の人生があったとか」
礼二は少し間を置いた。
「ない」
「ほんとですか?」
「組を続けていれば、お前はまだあの中にいた」礼二はドアを開けた。「それは後悔しない」
西原は少し黙った。それから「ありがとうございます」と言った。声が少し変わっていた。
礼二は何も言わずに降りた。
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ホテルの部屋に入った。
シンが言った。「西原さんは、礼二さんのことが好きですね」
「そうか」
「はっきり出ていました」
「うるさい男だ」と礼二は言った。
「でも」とシンは続けた。「礼二さんも、嫌いではないようでした」
礼二は上着を脱いだ。返事をしなかった。
ハルがバッグから出てきて、ベッドに乗った。礼二はそれを見て、ベッドの端に座った。
雨の音がした。福岡の夜の、重い雨だった。
お読みいただき、ありがとうございます。
雨の夜の屋台で、礼二は「後悔はない」と答えました。
そのあとの一言を、どう受け取るかは、読んでくださった方にお任せします。
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