第七話 酵母の話:「好きにしろ」と、男は言った。
第7話です。舞台は京都から東へ戻って、山梨・甲府。
三年前に礼二が借金を肩代わりした、パン屋の主人を訪ねます。
第1〜6話をまだお読みでない方は、そちらからどうぞ。
甲府に着いたのは午前中だった。
礼二はホームのベンチに少し座った。シンが隣に立った。
「京都から直接来ましたね」とシンが言った。
「そうだ」
「休んだ方がいいと思いますか?」
「思わない」
シンは少し間を置いた。「礼二さんが思わなくても、体は別に判断しているかもしれません」
「余計なことを言うな」
「わかりました」
礼二は立ち上がった。ハルがバッグから顔を出した。それから引っ込んだ。
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パン屋の名前は「朝種」といった。
甲府の郊外、果樹園が続く道沿いにあった。小さな店で、看板も小さかった。しかし駐車場に車が三台止まっていた。
店主の原田は、礼二を見て頭を下げた。
四十代の半ば。小麦粉が腕についていた。目が疲れていた。
「来てくださって」
「来ると言った」と礼二は言った。
「そうですね」原田は少し笑った。作った笑いではなかった。疲れた人間が、それでも笑う顔だった。
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店に入ると、パンの匂いがした。
焼きたてではなく、酵母の匂いだ。発酵している何かが、店の奥にある。礼二はその匂いを一度嗅いだ。
「シン」
「はい」
「この匂いは何だ?」
「天然酵母です。小麦と水と、空気中の菌を使って培養したものと思われます。市販のイーストとは異なり、管理に時間がかかります」
「うまくなるか?」
「風味が複雑になります。ただし、扱いが難しい」
原田が少し表情を動かした。「よくわかりましたね」
「こいつはそういうものだ」と礼二は言った。
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客が引いた昼過ぎ、原田が話し始めた。
三年前、礼二に借金を肩代わりしてもらって店を開いた。最初の一年は苦しかったが、今は常連がついている。問題は別のところにあった。
「近くに新しいパン屋ができたんです。半年前に」
「競合か?」
「それだけなら構わないんですが」原田は手元を見た。「うちの看板商品のパンと、ほぼ同じものが売られていて」
「レシピが漏れた」
「そう思っています。ただ、証明できない」
礼二は原田を見た。
「従業員は何人いる?」
「二人です。どちらも長い付き合いで、疑いたくないんですが」
「疑いたくない、と疑っていない、は違う」
原田は少し黙った。「そうですね」
「その二人の名前と、いつから働いているか、教えろ」
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翌朝、礼二は新しいパン屋に行った。
シンを連れずに、一人で行った。
店は国道沿いにあった。きれいで、広くて、駐車場も大きかった。礼二は客として入った。問題のパンを買った。食べた。
うまかった。
しかし何かが足りなかった。原田の店のものと比べると、表面は似ているが、中が違う。酵母が違う。同じレシピで作っても、菌が違えば同じにはならない。
礼二はそれを確認してから、店を出た。
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「シン」と礼二は戻ってから言った。「レシピが同じでも、酵母が違えば別のパンになるか?」
「なります」とシンは言った。「天然酵母は店ごとに異なる菌の構成を持ちます。レシピを完全に複製しても、酵母そのものを持ち出さない限り、同じ風味は出ません」
「酵母を持ち出す、というのは可能か?」
「可能です。培養中の酵母を少量取り出して、自分で育てれば再現できます。ただし、時間がかかる」
礼二は少し考えた。
「原田の店で酵母の管理をしているのは誰だ?」
礼二は原田に向いた。
原田が答えた。「二人のうち、古い方の高木です。もう五年になります」
「高木はいつから様子が変わったか?」
「変わった、とは?」
「新しい店ができる前後で、何か変わったことはないか? 遅刻が増えたとか、休みの使い方が変わったとか」
原田は少し考えた。「そういえば」と原田は言った。「去年の秋から、週一で早退するようになりました。病院に行くと言っていて、気にしていなかったんですが」
シンが口を開いた。「新しい店の開業準備期間と重なりますか?」
「重なります」と原田は言った。声が少し変わった。
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その日の夕方、礼二は高木に会った。
原田が席を外した。礼二と高木と、シンの三人になった。
高木は三十代の後半。痩せていて、目が細かった。礼二を見て、少し体が固まった。
「座れ」と礼二は言った。
高木は座った。
「酵母を持ち出したか?」
高木は何も言わなかった。
「答えなくていい」と礼二は言った。「顔を見ればわかる」
沈黙が続いた。
「なぜやった?」と礼二は訊いた。責める声ではなかった。本当に理由を知りたい声だった。
高木は少し間を置いてから言った。「向こうの店に、兄がいます。開業するとき、何か力になれないかと言われて」
「断れなかったか?」
「はい」
「原田には言えなかったか?」
「言えませんでした」
礼二はしばらく高木を見た。
「原田に話せ。俺からは言わない。お前の口から言え」
「解雇されます」
「されるかもしれない。それはお前が決めることじゃない」
高木は手元を見た。長い沈黙だった。
「わかりました」と高木は言った。
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夜、原田と二人で店の裏に出た。
甲府の夜は静かだった。遠くに山の稜線が見えた。
「高木から聞きました」と原田は言った。
「そうか」
「どうすればいいか、わかりません」
「俺にもわからん」と礼二は言った。「ただ、高木は兄に断れなかった。それだけのことだ」
「それだけのことで、五年の信頼が」
「壊れるかどうかはお前が決める」礼二は山の方を見た。「俺には関係ない」
原田は少し黙った。
「礼二さんは、冷たいですね」
「そうか」
「でも」原田は続けた。「二十年前も同じでした。借金を肩代わりしてくれて、一言だけ言って帰った」
「何と言った?」
「好きにしろ、と」原田は少し笑った。「あのとき、冷たいと思いました。でも今は、それが一番ありがたかったとわかります」
礼二は何も言わなかった。
夜風が来た。果樹園の方から、何かの匂いがした。
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翌朝、発つ前に原田が紙袋を持ってきた。
「持っていってください」
礼二は受け取った。中に食パンが一斤入っていた。
「うちの酵母で焼いたやつです」
礼二は袋の口を少し開けた。昨日嗅いだ匂いがした。発酵した、複雑な匂いだ。
「シンに訊いてみろ」と礼二は言った。「うまいかどうか」
「食べられないと言われました」と原田は言った。
「それはもうわかってる」
二人は少し笑った。どちらも大きくは笑わなかった。
「また来ます」とシンが原田に言った。
「また来い」と礼二が言った。
二人と一匹は果樹園の道を歩いた。礼二は紙袋を持っていた。しばらくしてから、パンを一枚ちぎって食べた。
「うまいな」と礼二は言った。誰にも言わなかった。独り言だった。
シンが聞いていたが、何も言わなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
礼二は、紙袋のパンを一人で食べて、独り言を言いました。
誰にも聞かせるつもりのない言葉です。
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