第五話 壁の目:「そういうもの、は理由になる」と、男は言った。
第5話です。舞台は南へ移って、霧島。
十二年前に礼二が送り出した、左官職人の坂元を訪ねます。
第1〜4話をまだお読みでない方は、そちらからどうぞ。
霧島に着いたのは朝だった。
新幹線を降りてバスに乗り換え、山の方へ向かった。窓の外で景色が変わった。平地が消えて、木が増えて、道が細くなった。
「山ですね」とシンが言った。
「見ればわかる」
「礼二さんは山が好きですか?」
「嫌いではない」
「どういうときに好きだと感じますか?」
「静かなとき」
シンは少し間を置いた。「今は静かですか?」
「お前がしゃべっている」
シンは黙った。ハルがバッグから顔を出して、窓の外を見た。木々が流れていった。
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知り合いの名前は坂元といった。
十二年前、礼二が組から送り出した。当時三十歳。不器用で、言葉が少なくて、しかし手だけは確かだった。左官の師匠を礼二が探した。今は霧島で独立している。
坂元は待ち合わせの場所に軽トラで来た。
四十二歳。日焼けした顔に、白い粉がついていた。石膏か、漆喰か。礼二を見て、軽く頭を下げた。それだけだった。
「変わらんな」と礼二は言った。
「礼二さんこそ」と坂元は言った。
二人とも、それ以上は言わなかった。シンが二人を交互に見た。
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坂元の仕事場は霧島神宮の近くにあった。
古い民家の改修工事だ。施主は東京から移住してきた夫婦で、築八十年の家を直して住むつもりらしい。坂元が壁の左官仕事を請け負っていた。
現場に着くと、壁の一面が塗り直されていた。白い漆喰が、朝の光の中で乾いていた。
「きれいだな」と礼二は言った。
「まだ途中です」と坂元は言った。「でも、施主から連絡が来て」
「何の連絡だ?」
坂元は少し黙った。「ひび割れが出た、と。手抜きじゃないかと言ってきました」
「ひび割れは出ているか?」
「出ています。ただ」坂元は壁を見た。「これは乾燥収縮です。漆喰が乾く過程で必ず出る。施工の問題じゃない」
「施主には説明したか?」
「しました。でも、信じてもらえなくて」
礼二は壁を見た。白い壁に、細い線がいくつか入っていた。
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施主の夫婦は昼過ぎに来た。
四十代。夫の方が先に口を開いた。
「見てください、このひび割れ。引き渡し前からこんな状態で」
「見ています」と礼二は言った。
夫は礼二を見た。「あなたは?」
「坂元の知り合いです」
夫は少し警戒した顔をした。礼二はその顔を見た。悪意ではない。不安だ。大金を出して買った夢が、壊れていくように見えている。
「シン」と礼二は言った。
「はい」
「この壁を見て、わかることを言え」
シンは壁に近づいた。ひび割れを一本ずつ見た。指で触れなかった。見るだけだった。
「ひび割れの方向が、重力に沿っています」とシンは言った。「構造的な問題であれば、斜めや横方向に走ります。これは収縮によるものと判断できます」
「それは坂元さんの説明と同じじゃないですか?」と夫は言った。「信用できない人間が言っても」
「信用できないのは人間ですか、それとも説明ですか?」
夫は少し黙った。
「説明の中身を確かめる方法があります」とシンは続けた。「他の左官職人に見てもらうか、あるいは施工記録と写真を照合するかです。坂元さんに記録はありますか?」
「あります」と坂元は言った。「毎日撮っています」
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坂元がスマートフォンを出した。
工程ごとの写真が、日付つきで並んでいた。下地の状態、漆喰を塗る前、塗った直後、乾燥していく過程。ひび割れが入る前の壁も、入った後の壁も、全部あった。
夫はそれを見た。妻も横から見た。
礼二は二人を見ていた。
夫の顔が少し変わっていた。壁ではなく、写真を見ている。日付を確認している。言いがかりをつけようとしていたのではなく、本当に心配していたのだとわかった。
「これだけ記録があれば」と妻が言った。「最初から見せてもらえれば、安心できたのに」
坂元は少し黙った。「そうでした。こちらの説明が足りなかった」
礼二は坂元を見た。坂元は礼二の視線に気づいて、少し首を動かした。謝るのが下手な男だ。昔からそうだ。しかし今、ちゃんと言えた。
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夕方、夫婦が帰った後、坂元と二人で神社の近くを歩いた。
シンがハルのバッグを持っていた。礼二が渡した。理由は言わなかった。
「助かりました」と坂元は言った。
「シンが助けた」と礼二は言った。
「礼二さんが連れてきた」
礼二は返事をしなかった。
霧島神宮の鳥居が、夕日の中に立っていた。大きくて、古くて、少し傾いていた。
「あれ、傾いていますね」とシンが言った。
「わかってて建てている」と坂元は言った。「わざとじゃないですが、何百年も経てばそうなる。でも誰も直さない」
「なぜですか?」
「そういうものだから、じゃないですか?」
シンは少し間を置いた。「そういうもの、というのは理由になりますか?」
「なる」と礼二は言った。
坂元が少し笑った。礼二が短く答えるのを、久しぶりに聞いた気がした。
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夕飯は坂元の家で食った。
鶏の刺身と、さつまいもの煮物と、芋焼酎。
「うまいな」と礼二は言った。
「鶏は地鶏です」と坂元は言った。「霧島の」
シンは芋焼酎を見ていた。
「何を見ている?」と礼二が言った。
「芋焼酎の色と香りを観察していました。発酵の過程で生成される成分が——」
「飲んでみろ」
「飲めません」
「わかってて言っている」
「冗談ですか?」
「どう思う?」
「……今回は判断できません」
坂元が二人を見た。礼二は何も言わなかった。芋焼酎を一口飲んだ。
ハルが坂元の膝に乗った。坂元は少し驚いた顔をしたが、払わなかった。
「懐きましたね」とシンが言った。
「猫は人を選ぶ」と礼二は言った。
「坂元さんのどこを見て選んだんでしょう?」
「手だろう」と礼二は言った。「職人の手は、猫が好む」
坂元は自分の手を見た。漆喰で荒れた、大きな手だった。
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翌朝、発つ前に坂元が言った。
「礼二さんが組を出ろと言わなければ、俺はまだあの中にいた」
「どうなっていたと思う?」
「わかりません」坂元は手元を見た。「でも、壁は塗っていなかった」
礼二は何も言わなかった。
「また来てください」
「鹿児島まで来るのは遠い」
「来たじゃないですか?」
礼二は返事をしなかった。それが返事だと、坂元は知っていた。
「また来ます」とシンが坂元に言った。
「また来い」と礼二が言った。
二人と一匹は霧島の朝の中を歩いた。神社の方から、風が来た。檜の匂いがした。
ハルがバッグの中で鼻をひくひくさせた。
「今回は嫌いじゃないようです」とシンが言った。
「余計なことを言うな」と礼二は言った。
でも、歩く速度は変わらなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
シンは今回、芋焼酎を前にして、初めて「判断できません」と答えました。
冗談かどうかを、迷うようになったのかもしれません。
次回は、西へ。ブックマークをしていただけると励みになります。




