↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連作短編058】 足洗い 全22話 ―元会長と、AIと、三毛猫―  作者: マチャオ (Machao)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/12

第四話 湯の宿:「お前が決めろ」と、男は言った。

第4話です。舞台は北から山へ移って、長野の温泉街。

二十年前、礼二が借金を肩代わりした宿の主人に会います。

第1〜3話をまだお読みでない方は、そちらからどうぞ。

 野沢温泉に着いたのは昼過ぎだった。


 バスを降りると、硫黄の匂いがした。礼二は少し立ち止まった。


「どうしましたか?」とシンが言った。


「匂いが強い」


「野沢温泉の源泉は硫黄成分が高く——」


「説明はいい」


 礼二は歩き出した。石畳の細い道が続いていた。外湯の建物がいくつも見えた。観光客が手ぬぐいを持って歩いていた。ハルがバッグから顔を出して、鼻をひくひくさせた。それからすぐ引っ込んだ。


「ハルも匂いが強いと思っているようです」とシンが言った。


「お前にわかるのか?」


「鼻の動きから推測しました」


「猫の鼻の動きが読めるなら、昨日からそう言え」


 シンは少し間を置いた。「昨日は鼻を観察していませんでした」


 礼二は何も言わなかった。


---


 宿の名前は「さわ屋」といった。


 温泉街の少し外れにある、小さな宿だ。十部屋もない。看板も古い。しかし玄関先の石畳は丁寧に掃かれていた。


 主人の澤田は、玄関で待っていた。


 五十手前。細くて、背が少し丸い。礼二を見て、深く頭を下げた。


「来てくれると思っていませんでした」


「来ると言った」と礼二は言った。


「そうですね」澤田は顔を上げた。目が少し赤かった。「すみません。嬉しくて」


 礼二は何も言わなかった。シンが澤田を見ていた。ハルはバッグの中で丸くなっていた。


---


 部屋に通されて、茶が出た。


 礼二は茶を飲みながら、澤田の話を聞いた。


 二十年前、澤田の父親が病気で倒れた。宿は借金まみれで、このまま潰れると思っていた。そのとき礼二が肩代わりをした。


「なぜ礼二さんが助けてくださったのか、今でもわからないんです」


「宿の飯が良かった」と礼二は言った。


 澤田は少し笑った。「それだけですか?」


「それだけだ」


 シンが口を開いた。「礼二さんはよくその宿に来ていたんですか?」


「月に一度くらい」と澤田が言った。「当時、礼二さんは——」澤田は少し止まった。「忙しい方だったので、ここで休んでいたんだと思います」


 礼二は茶を飲んだ。


 忙しい方、という言い方を、礼二は訂正しなかった。


---


 夕飯は部屋で出た。


 信州サーモンの刺身、きのこの土瓶蒸し、野沢菜の漬物、蕎麦。


「うまいな」と礼二は言った。箸を置かずに言った。


 澤田は廊下から顔を出して、「ありがとうございます」と言った。声が少し震えていた。


 シンは膳の前に座っていた。土瓶蒸しを見ていた。


「何を見ている?」


「土瓶の形状を観察していました。熱効率の点で合理的な設計です」


「飲んでみろ」


「飲めません」


「わかってて言っている」


「今回は冗談だとわかりました」とシンは言った。


 礼二は少し間を置いた。「なぜわかった?」


「前回と同じ間合いだったので」


 礼二は返事をしなかった。蕎麦を手繰った。


---


 夜、澤田が廊下を歩く音がした。


 一度ではなく、何度も往復していた。礼二は布団の中でそれを聞いていた。眠れていないのではなく、何かを考えながら歩いている音だ。違いは足音の重さでわかる。


 翌朝、礼二は澤田の顔を見た。


 目の下に隈があった。しかし表情は昨夜より締まっていた。何かを決めた顔だ。


「相談があります」と澤田は朝飯の後に言った。


「言え」


「宿を売ろうと思っています」


 礼二は澤田を見た。


「買い手がついたのか?」


「話が来ています。不動産の会社から。悪い条件じゃないんですが」澤田は手元を見た。「ただ、従業員が二人いて。地元の人間で、ここ以外に行くところがないような人たちで」


「その二人はどう言っている?」


「まだ言っていません」


 礼二は少し考えた。


「なぜ俺に相談する?」


「礼二さんなら、正直に言ってくれると思って」澤田は顔を上げた。「続けた方がいいか、売った方がいいか?」


 礼二は答えなかった。すぐには答えなかった。


---


 午後、礼二は温泉街を歩いた。


 シンが隣を歩いた。ハルはバッグから顔を出して、温泉街を見ていた。外湯の前で足を止めた。


「入るか?」とシンが言った。


「お前は入れんだろう」


「礼二さんが入る間、外で待ちます」


 礼二は少し考えてから、外湯に入った。


 平日の昼で、客は二人だけだった。地元の老人と、礼二。


 老人が先に上がった。礼二は一人になってから、湯に沈んだ。


 澤田の宿は古い。設備も古い。しかし飯は丁寧だった。廊下の掃除も行き届いていた。それは二十年前から変わっていない。


 変わったのは、澤田の父親が死んで、澤田が一人になったことだ。


---


 外湯を出ると、シンが立っていた。ハルは地面に降りて、石畳の匂いを嗅いでいた。


「ハルが出たがっていたので」とシンが言った。


「勝手に出すな」


「すみません。ただ、バッグの中で鳴いていたので」


 礼二はハルを見た。ハルは石畳の隅で何かの匂いを嗅いでいた。


「澤田さんはどうするんだと思いますか?」とシンが言った。


「売る」と礼二は言った。


「そうですか」


「続けたいなら俺に相談しない。売ると決めているが、背中を押してほしい」


 シンは少し間を置いた。「では、礼二さんは何と言うんですか?」


「まだわからん」


---


 夕方、礼二は澤田を呼んだ。


 二人で縁側に座った。庭に柿の木があった。実がついていた。


「従業員に話したか」


「まだです」


「先に話せ」と礼二は言った。「相手がどう思っているかわからないまま決めるな」


 澤田は少し黙った。


「もし二人が、ここを続けたいと言ったら」


「続ければいい」


「経営が苦しいのは変わりません」


「苦しいのと潰れるのは違う」礼二は庭を見た。「苦しくても続けたい人間がいるなら、それは答えだ」


 澤田はしばらく柿の木を見ていた。


「礼二さんは、続けろと言わないんですね」


「お前が決めることだ」


「そうですね」澤田は少し笑った。「二十年前も、同じことを言われました」


「何を言った?」


「お前が決めろ、と」澤田は礼二を見た。「そのとき礼二さんは、借金を肩代わりしてくれた後で、それだけ言って帰りました」


 礼二は返事をしなかった。


 庭の柿が、夕日の中で少し光った。


---


 翌朝、発つ前に澤田が玄関に出てきた。


「従業員と話してみます」と澤田は言った。「結果がどうなっても、礼二さんに報告します」


「いらん」と礼二は言った。


 澤田は少し笑った。「報告させてください」


 礼二は何も言わなかった。それを澤田は許可と受け取った。


「また来ます」とシンが澤田に言った。


「また来い」と礼二が言った。


 石畳を歩いて、温泉街の方へ向かった。


 今回は振り返った。一度だけ。


 澤田はまだ玄関に立っていた。礼二は何も言わなかった。ただ、顎を少し動かした。澤田はそれを見て、深く頭を下げた。


 礼二は前を向いて、歩き続けた。

お読みいただき、ありがとうございます。

礼二は今回、一度だけ振り返りました。

第1話から読み返すと、旅の中で変わっていく仕草がわかるかもしれません。

次回は、南へ。ブックマークをしていただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。