第四話 湯の宿:「お前が決めろ」と、男は言った。
第4話です。舞台は北から山へ移って、長野の温泉街。
二十年前、礼二が借金を肩代わりした宿の主人に会います。
第1〜3話をまだお読みでない方は、そちらからどうぞ。
野沢温泉に着いたのは昼過ぎだった。
バスを降りると、硫黄の匂いがした。礼二は少し立ち止まった。
「どうしましたか?」とシンが言った。
「匂いが強い」
「野沢温泉の源泉は硫黄成分が高く——」
「説明はいい」
礼二は歩き出した。石畳の細い道が続いていた。外湯の建物がいくつも見えた。観光客が手ぬぐいを持って歩いていた。ハルがバッグから顔を出して、鼻をひくひくさせた。それからすぐ引っ込んだ。
「ハルも匂いが強いと思っているようです」とシンが言った。
「お前にわかるのか?」
「鼻の動きから推測しました」
「猫の鼻の動きが読めるなら、昨日からそう言え」
シンは少し間を置いた。「昨日は鼻を観察していませんでした」
礼二は何も言わなかった。
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宿の名前は「さわ屋」といった。
温泉街の少し外れにある、小さな宿だ。十部屋もない。看板も古い。しかし玄関先の石畳は丁寧に掃かれていた。
主人の澤田は、玄関で待っていた。
五十手前。細くて、背が少し丸い。礼二を見て、深く頭を下げた。
「来てくれると思っていませんでした」
「来ると言った」と礼二は言った。
「そうですね」澤田は顔を上げた。目が少し赤かった。「すみません。嬉しくて」
礼二は何も言わなかった。シンが澤田を見ていた。ハルはバッグの中で丸くなっていた。
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部屋に通されて、茶が出た。
礼二は茶を飲みながら、澤田の話を聞いた。
二十年前、澤田の父親が病気で倒れた。宿は借金まみれで、このまま潰れると思っていた。そのとき礼二が肩代わりをした。
「なぜ礼二さんが助けてくださったのか、今でもわからないんです」
「宿の飯が良かった」と礼二は言った。
澤田は少し笑った。「それだけですか?」
「それだけだ」
シンが口を開いた。「礼二さんはよくその宿に来ていたんですか?」
「月に一度くらい」と澤田が言った。「当時、礼二さんは——」澤田は少し止まった。「忙しい方だったので、ここで休んでいたんだと思います」
礼二は茶を飲んだ。
忙しい方、という言い方を、礼二は訂正しなかった。
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夕飯は部屋で出た。
信州サーモンの刺身、きのこの土瓶蒸し、野沢菜の漬物、蕎麦。
「うまいな」と礼二は言った。箸を置かずに言った。
澤田は廊下から顔を出して、「ありがとうございます」と言った。声が少し震えていた。
シンは膳の前に座っていた。土瓶蒸しを見ていた。
「何を見ている?」
「土瓶の形状を観察していました。熱効率の点で合理的な設計です」
「飲んでみろ」
「飲めません」
「わかってて言っている」
「今回は冗談だとわかりました」とシンは言った。
礼二は少し間を置いた。「なぜわかった?」
「前回と同じ間合いだったので」
礼二は返事をしなかった。蕎麦を手繰った。
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夜、澤田が廊下を歩く音がした。
一度ではなく、何度も往復していた。礼二は布団の中でそれを聞いていた。眠れていないのではなく、何かを考えながら歩いている音だ。違いは足音の重さでわかる。
翌朝、礼二は澤田の顔を見た。
目の下に隈があった。しかし表情は昨夜より締まっていた。何かを決めた顔だ。
「相談があります」と澤田は朝飯の後に言った。
「言え」
「宿を売ろうと思っています」
礼二は澤田を見た。
「買い手がついたのか?」
「話が来ています。不動産の会社から。悪い条件じゃないんですが」澤田は手元を見た。「ただ、従業員が二人いて。地元の人間で、ここ以外に行くところがないような人たちで」
「その二人はどう言っている?」
「まだ言っていません」
礼二は少し考えた。
「なぜ俺に相談する?」
「礼二さんなら、正直に言ってくれると思って」澤田は顔を上げた。「続けた方がいいか、売った方がいいか?」
礼二は答えなかった。すぐには答えなかった。
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午後、礼二は温泉街を歩いた。
シンが隣を歩いた。ハルはバッグから顔を出して、温泉街を見ていた。外湯の前で足を止めた。
「入るか?」とシンが言った。
「お前は入れんだろう」
「礼二さんが入る間、外で待ちます」
礼二は少し考えてから、外湯に入った。
平日の昼で、客は二人だけだった。地元の老人と、礼二。
老人が先に上がった。礼二は一人になってから、湯に沈んだ。
澤田の宿は古い。設備も古い。しかし飯は丁寧だった。廊下の掃除も行き届いていた。それは二十年前から変わっていない。
変わったのは、澤田の父親が死んで、澤田が一人になったことだ。
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外湯を出ると、シンが立っていた。ハルは地面に降りて、石畳の匂いを嗅いでいた。
「ハルが出たがっていたので」とシンが言った。
「勝手に出すな」
「すみません。ただ、バッグの中で鳴いていたので」
礼二はハルを見た。ハルは石畳の隅で何かの匂いを嗅いでいた。
「澤田さんはどうするんだと思いますか?」とシンが言った。
「売る」と礼二は言った。
「そうですか」
「続けたいなら俺に相談しない。売ると決めているが、背中を押してほしい」
シンは少し間を置いた。「では、礼二さんは何と言うんですか?」
「まだわからん」
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夕方、礼二は澤田を呼んだ。
二人で縁側に座った。庭に柿の木があった。実がついていた。
「従業員に話したか」
「まだです」
「先に話せ」と礼二は言った。「相手がどう思っているかわからないまま決めるな」
澤田は少し黙った。
「もし二人が、ここを続けたいと言ったら」
「続ければいい」
「経営が苦しいのは変わりません」
「苦しいのと潰れるのは違う」礼二は庭を見た。「苦しくても続けたい人間がいるなら、それは答えだ」
澤田はしばらく柿の木を見ていた。
「礼二さんは、続けろと言わないんですね」
「お前が決めることだ」
「そうですね」澤田は少し笑った。「二十年前も、同じことを言われました」
「何を言った?」
「お前が決めろ、と」澤田は礼二を見た。「そのとき礼二さんは、借金を肩代わりしてくれた後で、それだけ言って帰りました」
礼二は返事をしなかった。
庭の柿が、夕日の中で少し光った。
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翌朝、発つ前に澤田が玄関に出てきた。
「従業員と話してみます」と澤田は言った。「結果がどうなっても、礼二さんに報告します」
「いらん」と礼二は言った。
澤田は少し笑った。「報告させてください」
礼二は何も言わなかった。それを澤田は許可と受け取った。
「また来ます」とシンが澤田に言った。
「また来い」と礼二が言った。
石畳を歩いて、温泉街の方へ向かった。
今回は振り返った。一度だけ。
澤田はまだ玄関に立っていた。礼二は何も言わなかった。ただ、顎を少し動かした。澤田はそれを見て、深く頭を下げた。
礼二は前を向いて、歩き続けた。
お読みいただき、ありがとうございます。
礼二は今回、一度だけ振り返りました。
第1話から読み返すと、旅の中で変わっていく仕草がわかるかもしれません。
次回は、南へ。ブックマークをしていただけると励みになります。




