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【連作短編058】 足洗い 全22話 ―元会長と、AIと、三毛猫―  作者: マチャオ (Machao)


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第三話 烏賊の夜:「お前の顔は昔から読みやすい」

第3話です。舞台は北へ移って、函館。

十五年前に礼二が送り出した、元組員の漁師に会います。

第1・2話をまだお読みでない方は、そちらからどうぞ。

 函館に着いたのは夕方だった。


 フェリーを降りると、潮の匂いが違った。銚子とは種類が違う。冷たくて、少し鉄っぽい。礼二はそれを肺に入れてから、歩き出した。


 シンが隣を歩いた。ハルはバッグの中で、顔だけ出していた。


「寒いですね」とシンが言った。


「お前は寒くないだろう」


「寒くはありません。ただ、気温が低いという情報を伝えました」


 礼二は何も言わなかった。


---


 知り合いの名前は木津といった。


 十五年前、礼二が組から送り出した。当時二十六歳。喧嘩は強かったが、人を傷つけることを嫌がった。そういう人間が長くいられる場所ではなかった。礼二が話をつけて、北へ行かせた。


 今は函館の漁師だ。


 待ち合わせの食堂は、駅から歩いて十分ほどの路地にあった。カウンターだけの小さな店で、イカの塩辛の匂いがした。


 木津は先に来ていた。


 四十一歳になっていた。日焼けして、肩が厚くなっていた。礼二を見て立ち上がろうとしたので、礼二は手で制した。


「座ってろ」


「……はい」


 十五年。木津の口調が少し戻っていた。礼二は気づいていたが、何も言わなかった。


---


 イカ刺しと、イカソーメンと、塩辛が出た。


「食えるか?」と礼二は言った。


「うまいですよ、それ」と木津は言った。「朝獲れです」


 礼二は一口食べた。


 何も言わなかった。しばらく食べ続けた。木津はそれを見ていた。


「うまいな」と礼二は言った。


 木津は少し笑った。礼二が「うまい」と言うのを、初めて聞いた気がした。


 シンはカウンターの端に座っていた。イカを見ていた。


「何を見ている?」と礼二が言った。


「イカの透明度を観察していました。鮮度の指標になります」


「食べてみろ」


「食べられません」


「わかってて言っている」


 シンは少し間を置いた。「冗談ですか?」


「どう思う?」


 シンはまたイカを見た。「判断できません」


 木津が礼二を見た。礼二は何も言わなかった。


---


 酒が進んだ頃、木津の顔が少し変わった。


 礼二はそれに気づいていた。銚子の吉岡と同じ変わり方だった。言いたいことがあって、言い出せないでいる。


 今回は待たなかった。


「何かあるか?」


 木津は少し驚いた顔をした。


「わかりますか?」


「お前の顔は昔から読みやすい」


 木津は杯を置いた。


「同じ船の仲間が、最近おかしくて」


「おかしい、というのは?」


「金回りがいい。でも水揚げは普通です。残業も特にしていない」


 礼二は木津を見た。


「密漁か?」


「わかりません。でも」木津は声を落とした。「その人間、最近怖い目をするようになって。前はそんな人じゃなかったんです」


 礼二は少し考えた。


「名前は?」


「言っていいかどうか」


「言わなくていい」と礼二は言った。「明日、その人間の顔を見せてくれればいい」


 木津は礼二を見た。


「会長は」木津は言いかけて、止めた。「礼二さんは、変わりましたね」


「どこが?」


「昔は、名前を先に訊いた」


 礼二は返事をしなかった。


---


 食堂を出ると、夜景が見えた。


 函館山の麓から港にかけて、光が広がっていた。シンがそれを見ていた。


「きれいですか?」と礼二は訊いた。


「光の分布として、密度が高い地域です」とシンは言った。


「それはきれいとは言わない」


「では、なんと言うんですか?」


 礼二はしばらく夜景を見た。


「わからん」


 ハルがバッグの中で動いた。礼二はバッグの口を少し開けてやった。ハルは顔を出して、夜景を見た。それから興味を失って、また引っ込んだ。


「ハルにはわかりませんでしたか?」とシンが言った。


「お前よりはわかってると思う」


 シンは何も言わなかった。


---


 翌朝、木津の案内で港に行った。


 船が出る前の時間で、漁師たちが動いていた。木津が視線だけで示した先に、三十代の男がいた。


 礼二はその男を見た。


 顔色がいい。体が締まっている。しかし目に、何か余計なものが入っていた。緊張ではない。値踏みだ。周囲の人間を常に値踏みしている目。


 礼二はその目を知っていた。長くいた場所で、毎日見ていた目だ。


 それからもう一つ気づいた。


 田所は手袋をしていた。漁師が港で手袋をするのは珍しくない。しかし田所のそれは、作業用ではなかった。薄い革手袋だ。荷物を掴んでも跡が残らないための手袋を、礼二は見慣れていた。


「シン」と礼二は小声で言った。


「はい」


「あの男の動きを、今日一日見ていられるか? 俺は別に動く」


「わかりました。何を探しますか?」


「船の積み荷の動きだ。どこで降ろして、誰が受け取るか」


---


 礼二は港の外れにある小さな食堂で、朝飯を食いながら待った。


 木津の話では、田所は最近、夜の水揚げに混じることが多い。表の仕事はある。しかしそれだけではないと木津は思っている。


 昼前にシンが戻ってきた。


「田所さんは、午前中に二回、港の外れで別の人間と話しました。同じ人間ではありません」


「どんな人間だった?」


「二人とも、漁師の格好をしていました。ただ」シンは少し間を置いた。「一人は、話すとき田所さんに背を向けました。顔を見せないようにしていた」


「俺が見た手袋と合う」と礼二は言った。「跡を残したくない人間の動きだ」


「もう一点」とシンは続けた。「二人目の人間が、田所さんから小さな封筒を受け取りました。中身はわかりません。ただ、受け取った後すぐに上着の内側に入れた」


「現金か、あるいはリストだ」


「どちらだと思いますか?」


「この薄さなら紙だろう」と礼二は言った。「現金を封筒で渡すこともある。だがこの厚みじゃない」


 シンは少し間を置いた。「なるほど」


「なるほど、じゃない。これだけじゃ何も言えない。証拠にはならん」


「わかっています。礼二さんはどうするんですか?」


「木津に話す。あとは木津が決める」


 シンは少し間を置いた。「解決しなくていいんですか?」


 礼二は椀を置いた。


「木津の話だ。俺の話じゃない」


---


 夕方、木津に話した。


 木津は黙って聞いていた。最後まで聞いてから、少し黙った。


「封筒」と木津は言った。「それ、前にも見たことがあります。田所が別の船の人間と話してて、同じように」


「言えばよかった」と礼二は言った。


「言えなかった」


「なぜだ?」


「田所は、もともといいやつなんです」木津は手元を見た。「変わったのは半年前で。それまでは、船の中で一番気が利いた。だから」


 礼二は木津を見た。


「情があると、見えてるものが見えなくなる」


「そうです」木津は少し間を置いた。「礼二さんに言ったら、そのまま動いてくれると思ってました。俺が決めなくていいように」


 礼二は何も言わなかった。しばらくしてから立ち上がった。


「警察に話せ。田所のことも、封筒のことも、全部」


「田所は?」


「それは警察が決めることだ。お前が決めることじゃない」


 木津は少し間を置いた。「そうですね」


 礼二は上着を取った。


「また来ます」とシンが木津に言った。


「また来い」と礼二が言った。


 木津は今度は立ち上がった。礼二が止める前に、頭を下げた。


「世話になりました」


 礼二は何も言わなかった。それが返事だと、木津は知っていた。


 二人と一匹は夜の函館を歩いた。港の灯りが水面に伸びていた。ハルがバッグから顔を出して、それを見た。今度は少し長く見ていた。

お読みいただき、ありがとうございます。

夜の函館山の灯りを、シンは「光の分布」と言い、礼二は「わからん」と答えました。

どちらも、きれいとは言っていません。

次回は、山の宿へ。ブックマークをしていただけると励みになります。

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