第三話 烏賊の夜:「お前の顔は昔から読みやすい」
第3話です。舞台は北へ移って、函館。
十五年前に礼二が送り出した、元組員の漁師に会います。
第1・2話をまだお読みでない方は、そちらからどうぞ。
函館に着いたのは夕方だった。
フェリーを降りると、潮の匂いが違った。銚子とは種類が違う。冷たくて、少し鉄っぽい。礼二はそれを肺に入れてから、歩き出した。
シンが隣を歩いた。ハルはバッグの中で、顔だけ出していた。
「寒いですね」とシンが言った。
「お前は寒くないだろう」
「寒くはありません。ただ、気温が低いという情報を伝えました」
礼二は何も言わなかった。
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知り合いの名前は木津といった。
十五年前、礼二が組から送り出した。当時二十六歳。喧嘩は強かったが、人を傷つけることを嫌がった。そういう人間が長くいられる場所ではなかった。礼二が話をつけて、北へ行かせた。
今は函館の漁師だ。
待ち合わせの食堂は、駅から歩いて十分ほどの路地にあった。カウンターだけの小さな店で、イカの塩辛の匂いがした。
木津は先に来ていた。
四十一歳になっていた。日焼けして、肩が厚くなっていた。礼二を見て立ち上がろうとしたので、礼二は手で制した。
「座ってろ」
「……はい」
十五年。木津の口調が少し戻っていた。礼二は気づいていたが、何も言わなかった。
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イカ刺しと、イカソーメンと、塩辛が出た。
「食えるか?」と礼二は言った。
「うまいですよ、それ」と木津は言った。「朝獲れです」
礼二は一口食べた。
何も言わなかった。しばらく食べ続けた。木津はそれを見ていた。
「うまいな」と礼二は言った。
木津は少し笑った。礼二が「うまい」と言うのを、初めて聞いた気がした。
シンはカウンターの端に座っていた。イカを見ていた。
「何を見ている?」と礼二が言った。
「イカの透明度を観察していました。鮮度の指標になります」
「食べてみろ」
「食べられません」
「わかってて言っている」
シンは少し間を置いた。「冗談ですか?」
「どう思う?」
シンはまたイカを見た。「判断できません」
木津が礼二を見た。礼二は何も言わなかった。
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酒が進んだ頃、木津の顔が少し変わった。
礼二はそれに気づいていた。銚子の吉岡と同じ変わり方だった。言いたいことがあって、言い出せないでいる。
今回は待たなかった。
「何かあるか?」
木津は少し驚いた顔をした。
「わかりますか?」
「お前の顔は昔から読みやすい」
木津は杯を置いた。
「同じ船の仲間が、最近おかしくて」
「おかしい、というのは?」
「金回りがいい。でも水揚げは普通です。残業も特にしていない」
礼二は木津を見た。
「密漁か?」
「わかりません。でも」木津は声を落とした。「その人間、最近怖い目をするようになって。前はそんな人じゃなかったんです」
礼二は少し考えた。
「名前は?」
「言っていいかどうか」
「言わなくていい」と礼二は言った。「明日、その人間の顔を見せてくれればいい」
木津は礼二を見た。
「会長は」木津は言いかけて、止めた。「礼二さんは、変わりましたね」
「どこが?」
「昔は、名前を先に訊いた」
礼二は返事をしなかった。
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食堂を出ると、夜景が見えた。
函館山の麓から港にかけて、光が広がっていた。シンがそれを見ていた。
「きれいですか?」と礼二は訊いた。
「光の分布として、密度が高い地域です」とシンは言った。
「それはきれいとは言わない」
「では、なんと言うんですか?」
礼二はしばらく夜景を見た。
「わからん」
ハルがバッグの中で動いた。礼二はバッグの口を少し開けてやった。ハルは顔を出して、夜景を見た。それから興味を失って、また引っ込んだ。
「ハルにはわかりませんでしたか?」とシンが言った。
「お前よりはわかってると思う」
シンは何も言わなかった。
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翌朝、木津の案内で港に行った。
船が出る前の時間で、漁師たちが動いていた。木津が視線だけで示した先に、三十代の男がいた。
礼二はその男を見た。
顔色がいい。体が締まっている。しかし目に、何か余計なものが入っていた。緊張ではない。値踏みだ。周囲の人間を常に値踏みしている目。
礼二はその目を知っていた。長くいた場所で、毎日見ていた目だ。
それからもう一つ気づいた。
田所は手袋をしていた。漁師が港で手袋をするのは珍しくない。しかし田所のそれは、作業用ではなかった。薄い革手袋だ。荷物を掴んでも跡が残らないための手袋を、礼二は見慣れていた。
「シン」と礼二は小声で言った。
「はい」
「あの男の動きを、今日一日見ていられるか? 俺は別に動く」
「わかりました。何を探しますか?」
「船の積み荷の動きだ。どこで降ろして、誰が受け取るか」
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礼二は港の外れにある小さな食堂で、朝飯を食いながら待った。
木津の話では、田所は最近、夜の水揚げに混じることが多い。表の仕事はある。しかしそれだけではないと木津は思っている。
昼前にシンが戻ってきた。
「田所さんは、午前中に二回、港の外れで別の人間と話しました。同じ人間ではありません」
「どんな人間だった?」
「二人とも、漁師の格好をしていました。ただ」シンは少し間を置いた。「一人は、話すとき田所さんに背を向けました。顔を見せないようにしていた」
「俺が見た手袋と合う」と礼二は言った。「跡を残したくない人間の動きだ」
「もう一点」とシンは続けた。「二人目の人間が、田所さんから小さな封筒を受け取りました。中身はわかりません。ただ、受け取った後すぐに上着の内側に入れた」
「現金か、あるいはリストだ」
「どちらだと思いますか?」
「この薄さなら紙だろう」と礼二は言った。「現金を封筒で渡すこともある。だがこの厚みじゃない」
シンは少し間を置いた。「なるほど」
「なるほど、じゃない。これだけじゃ何も言えない。証拠にはならん」
「わかっています。礼二さんはどうするんですか?」
「木津に話す。あとは木津が決める」
シンは少し間を置いた。「解決しなくていいんですか?」
礼二は椀を置いた。
「木津の話だ。俺の話じゃない」
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夕方、木津に話した。
木津は黙って聞いていた。最後まで聞いてから、少し黙った。
「封筒」と木津は言った。「それ、前にも見たことがあります。田所が別の船の人間と話してて、同じように」
「言えばよかった」と礼二は言った。
「言えなかった」
「なぜだ?」
「田所は、もともといいやつなんです」木津は手元を見た。「変わったのは半年前で。それまでは、船の中で一番気が利いた。だから」
礼二は木津を見た。
「情があると、見えてるものが見えなくなる」
「そうです」木津は少し間を置いた。「礼二さんに言ったら、そのまま動いてくれると思ってました。俺が決めなくていいように」
礼二は何も言わなかった。しばらくしてから立ち上がった。
「警察に話せ。田所のことも、封筒のことも、全部」
「田所は?」
「それは警察が決めることだ。お前が決めることじゃない」
木津は少し間を置いた。「そうですね」
礼二は上着を取った。
「また来ます」とシンが木津に言った。
「また来い」と礼二が言った。
木津は今度は立ち上がった。礼二が止める前に、頭を下げた。
「世話になりました」
礼二は何も言わなかった。それが返事だと、木津は知っていた。
二人と一匹は夜の函館を歩いた。港の灯りが水面に伸びていた。ハルがバッグから顔を出して、それを見た。今度は少し長く見ていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
夜の函館山の灯りを、シンは「光の分布」と言い、礼二は「わからん」と答えました。
どちらも、きれいとは言っていません。
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