第二話 潮の重さ:「うまいな」と、男は言った。
第2話です。舞台は第1話に続いて銚子。
小さな港町で、一人の漁師が戻りませんでした。
第1話をまだお読みでない方は、そちらからどうぞ。
翌朝、吉岡は港まで来た。
来なくていいと言ったが、来た。礼二は何も言わなかった。吉岡が案内したいのではなく、案内しないと不安なのだということは、歩き方でわかった。
死んだ漁師の名前は平井といった。五十二歳。妻と息子が一人。
「借金があったそうですね」とシンが言った。
「ありました」と吉岡は言った。「でも、返せないほどじゃなかった。船の修理代です。去年の台風で」
「保険金は?」
「おりてます。先月」
礼二は港を見ていた。朝の光の中で、船が並んでいた。どの船も同じに見えるが、漁師には全部違うのだろう。昔、組の車を全部覚えていた若い衆がいた。型番と色と傷の位置を。
「平井さんの船は?」
「あれです」と吉岡が指した。
誰も乗っていない船が、波に揺れていた。
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吉岡に頼んで、漁協の顔役に会わせてもらった。
顔役の男は宮越といった。六十過ぎ。日焼けした首に、細い傷が一本あった。礼二はその傷を一度見て、それから目を上げた。
「平井さんのことを聞きたい」
「刑事さんですか?」と宮越は言った。
「違う」
「じゃあ、なんで?」
「吉岡に頼まれた」
宮越は吉岡を見た。吉岡は目を伏せた。宮越は礼二に戻ってきた。
「事故ですよ。夜中に一人で出て、戻らなかった。よくあることだ」
「夜中に一人で出た理由は?」
「さあ」
「聞いていない?」
「聞いてません」
礼二は三秒、宮越を見た。宮越は視線を外さなかった。外さないことに、少し力が入っていた。
「そうか」と礼二は言った。「世話になった」
立ち上がると、シンがついてきた。ハルは入り口付近で丸くなっていた。
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外に出てから、シンが言った。
「宮越さんは、嘘をついていました」
「わかってる」
「ただし、全部ではありません。夜中に出た理由は、本当に聞いていないかもしれない」
「聞いていないが、知っている」
シンは少し間を置いた。「どこで判断しましたか?」
「聞いていないと言うとき、人間は少し胸を張る。知らないことへの防御だ。あいつはそれをしなかった」
「なるほど」とシンは言った。「私の観測と一致します。呼吸のパターンが、記憶を参照しているときのものでした」
礼二は何も言わなかった。
ハルが礼二の足元に来た。それから何かの匂いを嗅いで、港の方に顔を向けた。
「何か見えるか?」と礼二はハルに言った。
ハルは答えなかった。
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吉岡の店に戻って、昼飯を食った。
イワシの刺身と、アラの味噌汁と、飯。
「うまいな」と礼二は言った。今度は「食えるな」ではなかった。
吉岡は少し驚いた顔をした。礼二はそれに気づいていたが、何も言わなかった。
「平井さんの奥さんに会えるか?」
「会えます。でも——」吉岡は言い淀んだ。「今は少し、不安定で」
「わかった」
礼二は味噌汁を飲んだ。アラから出た出汁が、塩辛いような、甘いような、判断のつかない味がした。
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平井の妻は節子といった。
自宅のドアを開けた瞬間、礼二は読んだ。憔悴している。夫の死に納得していない。こちらの話を聞く余裕はない。
全部外れた。
節子は静かで、落ち着いていて、お茶を出した。礼二とシンを交互に見て、「吉岡さんから聞きました」と言った。
「辛いところをすみません」と礼二は言った。自分でも珍しいと思った。
「辛くはないです」と節子は言った。「ただ、怒っています」
礼二は何も言わなかった。
「夫は臆病な人でした。揉め事が嫌いで、自分から動くことをしない人で」節子はお茶を見た。「だから、封筒を持って出たと聞いたとき、これは普通じゃないと思いました」
「息子さんから聞きました。水揚げの数字がおかしいと言っていたと」
「そんなこと、颯太に」節子の眉が少し動いた。「あの子には黙っていてほしかった。まだ高校生なのに」
礼二は節子を見た。さっき読んだことが全部ずれている。憔悴でも混乱でもなく、この人は最初から怒っていて、息子を守ろうとしている。
「夫が持ち出した資料の控えは、ありますか」
節子は少し黙った。
「あります」
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節子が持ってきたのは、薄い封筒だった。
「夫は几帳面で。何でも一枚、手元に残す人でした」
中には手書きのメモが数枚。水揚げの日付と量が、几帳面な字で並んでいた。
シンがメモを見た。
「これを分析できますか?」と礼二は訊いた。
「公開記録と照合します」とシンは言った。「ただし、仲買の実取引記録がなければ、差異の確認は半分しかできません。このメモだけでは、数字の食い違いを示せますが、誰が操作したかまでは出ません」
「それでいい。食い違いだけ出せ」
シンは数分、静かだった。
「三年分、水揚げ量が公開記録より多い日が、不規則に混じっています。差額は小さいですが、累計すると」
「いくらだ?」
シンが数字を言った。
節子が、初めて表情を動かした。怒りではなく、疲労に近い何かだった。
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その夜、礼二はシンに言った。
「仲買の記録まで突き合わせたい。吉岡に訊いてみる」
「有効だと思います」
「どのくらい有効か言え」
「七割です」とシンは言った。
礼二は少し間を置いた。「覚えてたか?」
「七割は来た、というデータを参照しました」
礼二は何も言わなかった。ハルが膝に乗ってきた。礼二は払わなかった。
しばらくして、礼二は言った。
「節子さんを読み違えた」
「どう読んでいたんですか?」
「混乱していると思った。違った」
「私には、最初から落ち着いて見えました」とシンは言った。
「最初から言え」
「言おうとしましたが、礼二さんがすでに動いていたので」
礼二は返事をしなかった。ハルが欠伸をした。
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翌日の昼過ぎ、吉岡が仲買人の記録を持ってきた。
「田辺さんっていう、二十年来の付き合いで。礼二さんのことを話したら、すぐ出してくれました」
「名前は出すな」と礼二は言った。
「もう出しました」
礼二は吉岡を見た。吉岡は少し首をすくめた。
シンが二つの記録を照合した。三年分。水揚げ量の差異が、数字として浮いた。
「平井さんが気づいた」と吉岡は言った。声が低かった。
「気づいて、宮越に届けた」と礼二は言った。「宮越がやったのか、宮越の上にいる人間がやったのかは、まだわからん」
「警察に言えますか?」
「言える。ただし」礼二は吉岡を見た。「お前が言え。俺が言っても、聞かれ方が変わる」
吉岡は少し笑った。複雑な笑い方だった。
「礼二さんみたいな人が、なんでそんなに?」
「なんでそんなに、何だ?」
「わかってくれるんだろうと思って」
礼二は返事をしなかった。立ち上がって、上着を取った。
「北海道に知り合いがいる。そっちに行く」
「急ですね」
「最初からそのつもりだった」
ハルがバッグの中に入った。シンが玄関に立った。
「また来ます」とシンが吉岡に言った。
「また来い」と礼二が言った。
似たようで、違う言葉だった。
吉岡は二人と一匹が出ていくのを、店の入り口に立って見ていた。礼二は振り返らなかった。そういう男だ、と吉岡は思った。そしてそれが、昔から変わっていないことも。
お読みいただき、ありがとうございます。
第1話で「食えるな」と言った礼二が、この話では少し違う言葉を口にします。
どこで言ったか、探していただけたら嬉しいです。
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