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【連作短編058】 足洗い 全22話 ―元会長と、AIと、三毛猫―  作者: マチャオ (Machao)


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第二話 潮の重さ:「うまいな」と、男は言った。

第2話です。舞台は第1話に続いて銚子。

小さな港町で、一人の漁師が戻りませんでした。

第1話をまだお読みでない方は、そちらからどうぞ。

 翌朝、吉岡は港まで来た。


 来なくていいと言ったが、来た。礼二は何も言わなかった。吉岡が案内したいのではなく、案内しないと不安なのだということは、歩き方でわかった。


 死んだ漁師の名前は平井といった。五十二歳。妻と息子が一人。


「借金があったそうですね」とシンが言った。


「ありました」と吉岡は言った。「でも、返せないほどじゃなかった。船の修理代です。去年の台風で」


「保険金は?」


「おりてます。先月」


 礼二は港を見ていた。朝の光の中で、船が並んでいた。どの船も同じに見えるが、漁師には全部違うのだろう。昔、組の車を全部覚えていた若い衆がいた。型番と色と傷の位置を。


「平井さんの船は?」


「あれです」と吉岡が指した。


 誰も乗っていない船が、波に揺れていた。


---


 吉岡に頼んで、漁協の顔役に会わせてもらった。


 顔役の男は宮越といった。六十過ぎ。日焼けした首に、細い傷が一本あった。礼二はその傷を一度見て、それから目を上げた。


「平井さんのことを聞きたい」


「刑事さんですか?」と宮越は言った。


「違う」


「じゃあ、なんで?」


「吉岡に頼まれた」


 宮越は吉岡を見た。吉岡は目を伏せた。宮越は礼二に戻ってきた。


「事故ですよ。夜中に一人で出て、戻らなかった。よくあることだ」


「夜中に一人で出た理由は?」


「さあ」


「聞いていない?」


「聞いてません」


 礼二は三秒、宮越を見た。宮越は視線を外さなかった。外さないことに、少し力が入っていた。


「そうか」と礼二は言った。「世話になった」


 立ち上がると、シンがついてきた。ハルは入り口付近で丸くなっていた。


---


 外に出てから、シンが言った。


「宮越さんは、嘘をついていました」


「わかってる」


「ただし、全部ではありません。夜中に出た理由は、本当に聞いていないかもしれない」


「聞いていないが、知っている」


 シンは少し間を置いた。「どこで判断しましたか?」


「聞いていないと言うとき、人間は少し胸を張る。知らないことへの防御だ。あいつはそれをしなかった」


「なるほど」とシンは言った。「私の観測と一致します。呼吸のパターンが、記憶を参照しているときのものでした」


 礼二は何も言わなかった。


 ハルが礼二の足元に来た。それから何かの匂いを嗅いで、港の方に顔を向けた。


「何か見えるか?」と礼二はハルに言った。


 ハルは答えなかった。


---


 吉岡の店に戻って、昼飯を食った。


 イワシの刺身と、アラの味噌汁と、飯。


「うまいな」と礼二は言った。今度は「食えるな」ではなかった。


 吉岡は少し驚いた顔をした。礼二はそれに気づいていたが、何も言わなかった。


「平井さんの奥さんに会えるか?」


「会えます。でも——」吉岡は言い淀んだ。「今は少し、不安定で」


「わかった」


 礼二は味噌汁を飲んだ。アラから出た出汁が、塩辛いような、甘いような、判断のつかない味がした。


---


 平井の妻は節子といった。


 自宅のドアを開けた瞬間、礼二は読んだ。憔悴している。夫の死に納得していない。こちらの話を聞く余裕はない。


 全部外れた。


 節子は静かで、落ち着いていて、お茶を出した。礼二とシンを交互に見て、「吉岡さんから聞きました」と言った。


「辛いところをすみません」と礼二は言った。自分でも珍しいと思った。


「辛くはないです」と節子は言った。「ただ、怒っています」


 礼二は何も言わなかった。


「夫は臆病な人でした。揉め事が嫌いで、自分から動くことをしない人で」節子はお茶を見た。「だから、封筒を持って出たと聞いたとき、これは普通じゃないと思いました」


「息子さんから聞きました。水揚げの数字がおかしいと言っていたと」


「そんなこと、颯太に」節子の眉が少し動いた。「あの子には黙っていてほしかった。まだ高校生なのに」


 礼二は節子を見た。さっき読んだことが全部ずれている。憔悴でも混乱でもなく、この人は最初から怒っていて、息子を守ろうとしている。


「夫が持ち出した資料の控えは、ありますか」


 節子は少し黙った。


「あります」


---


 節子が持ってきたのは、薄い封筒だった。


「夫は几帳面で。何でも一枚、手元に残す人でした」


 中には手書きのメモが数枚。水揚げの日付と量が、几帳面な字で並んでいた。


 シンがメモを見た。


「これを分析できますか?」と礼二は訊いた。


「公開記録と照合します」とシンは言った。「ただし、仲買の実取引記録がなければ、差異の確認は半分しかできません。このメモだけでは、数字の食い違いを示せますが、誰が操作したかまでは出ません」


「それでいい。食い違いだけ出せ」


 シンは数分、静かだった。


「三年分、水揚げ量が公開記録より多い日が、不規則に混じっています。差額は小さいですが、累計すると」


「いくらだ?」


 シンが数字を言った。


 節子が、初めて表情を動かした。怒りではなく、疲労に近い何かだった。


---


 その夜、礼二はシンに言った。


「仲買の記録まで突き合わせたい。吉岡に訊いてみる」


「有効だと思います」


「どのくらい有効か言え」


「七割です」とシンは言った。


 礼二は少し間を置いた。「覚えてたか?」


「七割は来た、というデータを参照しました」


 礼二は何も言わなかった。ハルが膝に乗ってきた。礼二は払わなかった。


 しばらくして、礼二は言った。


「節子さんを読み違えた」


「どう読んでいたんですか?」


「混乱していると思った。違った」


「私には、最初から落ち着いて見えました」とシンは言った。


「最初から言え」


「言おうとしましたが、礼二さんがすでに動いていたので」


 礼二は返事をしなかった。ハルが欠伸をした。


---


 翌日の昼過ぎ、吉岡が仲買人の記録を持ってきた。


「田辺さんっていう、二十年来の付き合いで。礼二さんのことを話したら、すぐ出してくれました」


「名前は出すな」と礼二は言った。


「もう出しました」


 礼二は吉岡を見た。吉岡は少し首をすくめた。


 シンが二つの記録を照合した。三年分。水揚げ量の差異が、数字として浮いた。


「平井さんが気づいた」と吉岡は言った。声が低かった。


「気づいて、宮越に届けた」と礼二は言った。「宮越がやったのか、宮越の上にいる人間がやったのかは、まだわからん」


「警察に言えますか?」


「言える。ただし」礼二は吉岡を見た。「お前が言え。俺が言っても、聞かれ方が変わる」


 吉岡は少し笑った。複雑な笑い方だった。


「礼二さんみたいな人が、なんでそんなに?」


「なんでそんなに、何だ?」


「わかってくれるんだろうと思って」


 礼二は返事をしなかった。立ち上がって、上着を取った。


「北海道に知り合いがいる。そっちに行く」


「急ですね」


「最初からそのつもりだった」


 ハルがバッグの中に入った。シンが玄関に立った。


「また来ます」とシンが吉岡に言った。


「また来い」と礼二が言った。


 似たようで、違う言葉だった。


 吉岡は二人と一匹が出ていくのを、店の入り口に立って見ていた。礼二は振り返らなかった。そういう男だ、と吉岡は思った。そしてそれが、昔から変わっていないことも。

お読みいただき、ありがとうございます。

第1話で「食えるな」と言った礼二が、この話では少し違う言葉を口にします。

どこで言ったか、探していただけたら嬉しいです。

次回は、北へ。ブックマークをしていただけると励みになります。

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