第一話 足洗い:「食えるな」と、男は言った。
お読みいただき、ありがとうございます。
七年の刑期を終えた元会長と、人型ロボットと、三毛猫が、全国を巡る連作です。
一話ずつ読めますが、順に読むと、少しずつ見えてくるものがあります。
全二十二話、完結済みです。毎日更新します。
出所した日、空は妙に青かった。
礼二は正門前に止まったタクシーを無視して、しばらく立っていた。七年。数字にすれば短いが、膝と腰には正直に刻まれている。
タクシーは行ってしまった。
次の便を待つ間、足元に猫が来た。三毛の、目が少し大きすぎる猫だった。礼二は猫を見た。猫も礼二を見た。どちらも何も言わなかった。
猫がズボンの裾に頭をこすりつけてから、また離れた。
礼二はその猫をハルと呼ぶことにした。理由は特にない。
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半年後、礼二は千葉にいた。
相棒ができたのはその間のことだ。正確に言えば、姪の夫が持ち込んできた。
「叔父さんの話し相手になってほしいんです」
礼二は何も言わなかった。姪の夫は構わず続けた。機械には詳しいが、空気を読む気がない男だ。礼二は昔からそういう人間に、少し用心する。
「うちの会社が試験導入してるやつで、まだ市販はされてないんですけど。叔父さんなら壊してくれても困らないんで」
礼二は姪の夫を見た。冗談のつもりらしかった。
シンは礼二の部屋の隅に立っていた。人間に似ているが、人間ではない。関節の動きが滑らかすぎる。そして目が——光の当たり方によって、少し灰色がかって見える。
「しゃべれるか?」
「はい」とシンは言った。「ただし、命令ではなく会話の形式を好みます」
礼二は三秒、その言葉を咀嚼した。それから姪の夫に向いた。
「いらん」
「叔父さん——」
「機械に話し相手はいらんと言っている」
姪の夫は困った顔をした。シンは何も言わなかった。礼二はしばらくシンを見た。シンも礼二を見ていた。目が動かない。人間なら、ここで視線を外す。
「……置いていけ」
理由は言わなかった。
ハルがシンの足元を嗅いだ。シンは動かなかった。ハルは二度嗅いで、それから縁側に移動した。
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旅に出たのは、翌月だ。
出所してから礼二に連絡してきた人間が、いくつかある。金の無心は断った。同情は無視した。残ったのは、昔、礼二が引き上げた人間からの短い便りだった。
銚子の料理人。長野の宿。北海道の漁師。鹿児島の左官。
会長だった頃に礼二が目をかけ、組を出てカタギになれと背中を押した連中だ。出所を聞きつけて、「飯でも食いにこい」「泊まっていけ」と言ってきた。
礼二に断る理由はなかった。
「連れていく」と礼二はシンに言った。
「承知しました」
「荷物は自分で持て」
「荷物がありません」
「そうか」
礼二は昔、組の者に荷物を持たせていた。今は自分で持つ。スーツケース一つ。ハルは専用のバッグに入った。シンは手ぶらで玄関に立っていた。
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銚子についたその夜、料理人の吉岡の店で水揚げされたばかりのキンメダイを食べた。
「うまいか?」と吉岡は訊いた。
「食えるな」と礼二は言った。
吉岡は苦笑した。礼二の流儀を知っている。褒めるより難しい言葉だ、と昔礼二に言われたことがある。
「連れさん、食べないんですか?」と吉岡がシンを見た。
「こいつは食わない」
「そうですか」
吉岡はしばらくシンを見た。人間かどうか、値踏みしている。それから「失礼しました」と言って厨房に引っ込んだ。
ハルは店の隅で丸くなっていた。
礼二が二杯目の酒を頼んだとき、吉岡が戻ってきた。顔が少し変わっていた。
「実は、相談があって」
礼二は杯を置いた。
「金か?」
「違います」
「女か?」
「違います」吉岡は少し間を置いた。「同じ漁港の仲間が、死にました。事故だって言われてます。でも」
礼二は何も言わなかった。
「おかしいと思って」
シンが口を開いた。
「どの点が、おかしいと感じましたか?」
吉岡は少し驚いた顔をした。礼二はそれを見て、また酒を飲んだ。
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翌朝、礼二は港に出た。
シンが隣を歩いた。ハルは礼二のバッグの口から顔だけ出していた。
「昨日の話、どう思う?」
「情報が少ないです」とシンは言った。「ただ、吉岡さんの話し方には、知っていて言わないことが混じっていた」
「どこで判断した?」
「文の途中で止まる回数と、目の動きの方向です。嘘ではありません。しかし全部ではない」
礼二は波の音を聞いた。昔、海の見えない部屋でよく海を想像した。実際の海は音がうるさい。
「俺が長くいた場所でも、そういうことはあった。知ってて言わないやつ」
「どうしていたんですか?」
「待った。大抵、向こうから言いに来る」
「それは有効な手法ですか?」
「七割は来た」
シンは何も言わなかった。
ハルが欠伸をした。シンがハルを見た。
「ハルは何を考えていますか?」
「わからん」と礼二は言った。
「私も、わかりません」シンは少し間を置いた。「人間の行動は、ある程度予測できます。しかしあの猫は」
「読めないか?」
「読めません」
礼二はそれを聞いて、初めて少し表情が動いた。動いた、という程度で、笑ったとは言えない。
しばらく波を見ていた。七年前、自分の部下が人を殺した。止められなかった。いや——止める気があったかどうかも、今となってはわからない。
それだけのことだ。
今は旅をしている。
「行くか」と礼二は言った。
「はい」とシンは言った。
三人は港の奥へ歩いていった。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
礼二の旅は、行き先を決めないまま、ここでひとまず終わります。
それでいいのだと思っています。
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