真犯人
法廷に戻ったとき、空気が、先程とは、微かに違っていた。
私の本人尋問のあいだは、張り詰めていた法廷の緊張が、休廷の十五分のあいだに、少しだけ別のものに変質していた。次に始まる原告本人の尋問に向けて、傍聴席の記者たちは、ペンを持ち直し、姿勢を整えている。注意の向きが、私の側から、原告席の篠田のほうへ、移っていくところだった。
裁判長が入廷し、着席の後、本人尋問の続きが告げられた。
「原告、証言台へお進みください」
篠田は、ゆっくりと立ち上がった。動作の途中で、わずかによろめくような気配が、肩のあたりに、一瞬、見えた。岡本弁護士が、さりげなく、篠田の後ろから腕を軽く添えた。篠田は、そのまま歩き出した。添えた腕は、一歩で離れた。
-----
宣誓の声は、低く、しっかりと響いた。
「良心に従って、真実を述べ、何ごとも隠さず、偽りを述べないことを誓います」
声の出し方は、整えられていた。おそらく、岡本弁護士との打ち合わせで、何度も練習していたのだろう。それでも、最後の「誓います」のあとに、わずかに息の震えが残ったのが、私の席からでも、聞き取れた。
岡本弁護士が、主尋問を始めた。
-----
「篠田さん、お名前と、ご住所を、お願いします」
篠田は、氏名と住所を、低い声で答えた。住所は、アパートの住所ではなく、実家の住所を答えていた。実家を主な生活の場として申告していた。
岡本弁護士は、うなずいた。
「事件の無罪判決以降の、ご生活について、伺います」
「はい」
「判決の直後から、現在に至るまでの、ご自身の心身の状態を、ご説明ください」
篠田は、少しのあいだ、視線を証言台の上に落とした。それから、顔を上げた。
「判決のあと、私は、自宅のアパートから、ほとんど出られなくなりました」
篠田の声は、低く、やや抑えられていた。
「外に出られない理由は、何でしたか」
「私の顔が、広く知られてしまっていたからです。判決の後、一週間ほど、全く部屋から出られませんでした。その後、何度か、買い物などで、仕方なく出ましたが、近所の人にも、知らない人にも、視線を向けられました。スマートフォンを向けられたことも、一度、ありました。外へ出るたびに、誰かに見られているような感覚が、続きました。次第に、外へ出ることそのものが、重くなっていきました」
「食事は、どのように」
「判決の日に、裁判所の帰りに寄ったコンビニで買ったものを、しばらく食べていました。その後、母が訪ねてきて、食料を届けてくれました。母が帰った後は、また、限られた食事で、過ごしていました」
「睡眠は」
「ほとんど、眠れませんでした」
「実家に戻られたのは、いつ頃ですか」
「二月の半ばです」
「実家に戻られて、症状は、どうなりましたか」
「少しだけ、楽になりました」
「具体的には」
「眠れる夜が、増えました。食事も、少しは、取れるようになりました」
「完全には、回復されていない」
「完全には、回復していません」
「ご家族との関係は、どのように」
「母は、できるだけ、私に話しかけてくれます。父は、私に、ほとんど何も言いません。」
岡本弁護士は、少しの間、うなずいた。
「主尋問、以上です」
岡本弁護士は、短く一礼し、着席した。
主尋問は、私の場合よりも、はっきりと短かった。篠田の心身の状態を、法廷の記録に残すのが目的の、最小限の主尋問だった。これ以上を引き出せば、篠田が途中で崩れる可能性を、岡本弁護士は見ていたのかもしれない。
-----
近藤先生が、立ち上がった。
「反対尋問を、させていただきます」
近藤先生の声は、私への主尋問のときと同じように、落ち着きを保っていた。
「篠田さん」
近藤先生は、篠田の顔を、一度、正面から見た。
「なぜ、発言の撤回を求めておられるのですか。世間への拡散が収まるからですか」
「……それも、あります。でも」
篠田が、少し、止まった。
「問い返しが……なくなるかもしれない、と、思いました」
岡本弁護士の気配が、わずかに動いた。
「問い返し、とは」
近藤先生の声は、静かだった。
「……あの言葉が、頭の中で、繰り返されて……自分が、本当に、嘘をついていないのか、自分に、問い返す状態が、続いています」
私は、正面を向いていた。
正面を向きながら、篠田の言葉を、一つずつ聞いていた。
篠田が述べている症状は、私が発した言葉の、あの構造——条件節と、主体の置き換え——が、相手の内側で、作用していることを、示していた。
「発言が撤回されれば、その問い返しは、止まるとお考えですか」
「……分かりません」
「分からない」
「はい」
「つまり、止まるかどうかも分からないまま、撤回を求めておられる」
篠田は、答えなかった。
「世間への拡散が収まることと、問い返しがなくなること——どちらが、篠田さんにとって、優先されますか」
篠田は、少しのあいだ、動かなかった。
岡本弁護士が、立ち上がった。
「異議あり。原告の主観的優先順位は、本件の争点と直接関係しません」
「関係します」
近藤先生は、静かに応じた。
「撤回請求の目的が何であるかは、その請求の実効性と必要性を判断するために、不可欠な事項であります」
裁判長が、少しのあいだ、考えた。
「お答えください」
篠田は、顔を上げなかった。
「……どちらが、優先か、という問いには、答えられません」
「答えられない、ですか」
「はい」
「なぜですか」
「……どちらも、なくなってほしい。でも」
篠田が、止まった。
「でも」
近藤先生が、静かに、続きを促した。
「……拡散は、いつか、収まります。問い返しは、止まらないような気がします」
「問い返しを止める方法として、一つ、論理的には、考えられる形があります」
「……」
「ご自身が嘘をついていないと、内側で、確信することができれば、問い返しは、理論的には、止まります。違いますか」
「……」
篠田は、目を、わずかに下に落とした。
「……確信が、できない時期が、ありました」
「確信が、できない時期」
「はい」
「ご自身の中で、『自分は嘘をついていない』と、確信できない時期があった、ということですか」
短い沈黙。
「……時期、というより、瞬間、です」
「瞬間」
「はい。確信が、揺らぐ瞬間が、あります。ほとんどの時間は、確信しています。でも、一日のうちの、何回か、揺らぐ瞬間が、訪れます」
私は、正面を向いたまま、その声を、聞いていた。
篠田が、揺らぐ瞬間、と述べた。その言葉を、私は、自分の内側で、二度、反芻した。
「揺らぐ瞬間は、どのような時に、訪れますか」
「……主に、夜です。眠れないまま、布団の中で、一人でいるときに、訪れます」
「揺らいだ後、どうされますか」
「声に出して、『俺は、やってない』と、言ってみます」
「声に出すと、どうなりますか」
「普段は、それで、落ち着きます。ただ、自分の声が、自分の声に、聞こえない瞬間が、ありました」
法廷の空気が、一瞬、動いた。
傍聴席のどこかで、ペンを速めた音が、小さく響いた。
近藤先生は、うなずきもせず、静かに次の問いに移った。
「その経験があって、実家に戻られた、ということですか」
「はい」
「実家では、その感覚は、起こっていない」
「ほとんど起こっていません」
「わかりました」
近藤先生は、一度、間を置いた。
「別の角度から、伺います」
「はい」
「篠田さんは、事件の被害者、吉田咲希さんと、事件の一か月前まで、お付き合いをされていましたね」
「……はい」
「別れ話を切り出したのは、吉田咲希さんの側ですね」
「……はい」
「別れ話の後、吉田咲希さんに対して、連絡を、何度か、取られましたね」
「……はい」
「その連絡の頻度や内容について、吉田咲希さんが、恐怖を感じていたとの記録が、刑事裁判の中で、提出されています」
「……知っています」
「篠田さんは、事件の夜の、ご自身のアリバイを、『自宅で一人で飲んでいた』と、主張されていましたね」
「はい」
「しかし事件当夜、現場近くの基地局に、スマートフォンが接続していた記録が残っています。接続時刻は、被害者の推定死亡時刻と重なっていました」
「……はい」
「自宅で飲んでいたというアリバイとは、整合しません。刑事裁判では、この点を含め、十分な立証ができないまま、無罪判決が出ました」
「はい」
「事実として、篠田さんは、その時間帯に、外出されましたか」
ここで、篠田は、少し長めに、沈黙した。
私は、焦点を合わせずに、篠田の様子を視界に入れていた。篠田は、視線を、証言台の上に落としていた。何かを考えているというより、答えの重さを、手で測ろうとしているような、そういう沈黙に見えた。
岡本弁護士が、半ば立ち上がりかけた。
「異議あり。同じ事実関係は、既に刑事裁判で審理済みであり——」
「裁判長」
近藤先生が、穏やかに応じた。
「本件民事訴訟における、原告の受けている精神的苦痛の原因と、実際の事実関係の認知状態との関連を、確かめるための質問でございます。刑事判決の変更を求める質問ではありません」
裁判長は、少しのあいだ、両代理人を見比べた。
「質問は、簡潔に。お答えは、任意で」
裁判長の判断だった。岡本弁護士は、ゆっくり腰を下ろした。
篠田は、沈黙を続けていた。
近藤先生は、待たなかった。次の問いへ移った。
「答えにくい質問でしたら、結構です」
「……」
「別の質問をさせてください」
「はい」
近藤先生は、少し、身を前に寄せた。
「篠田さんは、吉田咲希さんが、事件で亡くなられた、ということを、ご存知ですね」
「……はい」
「そして、篠田さんは、ご自身が、事件の犯人ではない、と主張しておられます」
「……はい」
「それが、事実であれば、吉田咲希さんを殺害した、真犯人が、別に、存在することになります」
「……」
篠田が、顔を、わずかに上げた。
「違いますか」
「……違いません」
「真犯人が、別に存在する。その真犯人を、捕まえたい、捕まってほしい、と、篠田さんは、お考えになっていますか」
篠田は、動かなかった。
動かないまま、一秒、二秒、三秒が過ぎた。
法廷の、空気が、完全に止まった。
傍聴席のペンの音も、止まっていた。私は、正面を向いたまま、視界の端で、篠田の顔を、今度は、焦点を合わせて、見つめた。
篠田の顔には、表情が、無かった。
表情の筋肉が、緩んでいる、というのとも、違った。筋肉が、動き方を、今、この瞬間に、忘れてしまったような、そういう無表情だった。目だけが、近藤先生のほうを、まっすぐに、見ていた。
「篠田さん」
近藤先生は、もう一度、静かに、呼んだ。
「吉田咲希さんを殺害した真犯人を、捕まえてほしい、というお気持ちは、ございますか」
篠田の唇が、わずかに、動いた。
「……」
声は、出なかった。
唇だけが、何かの形を作ろうとして、作れないまま、そこにあった。
岡本弁護士が、また、半ば立ち上がりかけた。しかし、今度は、声は出さなかった。篠田が、まだ、答えようとしている、という判断だったのかもしれない。裁判長も、動かなかった。
篠田は、ようやく、声を、絞り出した。
「……それは」
「はい」
「……それは、警察の、仕事です」
声は、震えていた。
近藤先生は、うなずかなかった。
「警察の仕事、ですか」
「……はい」
「では、警察に、捕まえてほしい、とのお気持ちは」
「……」
再び、沈黙。
篠田の肩が、わずかに、上下した。息が、乱れ始めているのが、この距離からでも、確認できた。
近藤先生は、少しのあいだ、待った。
それから、次の問いに移った。
「もう一点、伺います」
篠田は、顔を上げる力が、落ちてきているように見えた。
「被告が、判決の日に発した発言について、お伺いします」
「……はい」
「発言の内容は、『あなたがもし嘘をついているなら、あなたは五年以内に死にます』というものでした」
「……はい」
「この発言を受けて以降、篠田さんは、ご自身が嘘をついていないか、内側で問い返す状態に置かれている、と、先程お答えになりました」
「……はい」
「問い返しが始まる条件は、ご自身の中に、発言と呼応する何かが、あった、ということですね」
岡本弁護士が、今度は、はっきりと立ち上がった。
「異議あり。誘導的な質問です」
「言い換えます」
近藤先生は、素直に、応じた。
「問い返しが止まらない、という状態は、ご自身の内側で、発言が、何かに触れ続けている、ということになりますか」
篠田は、少しのあいだ、答えなかった。
「……触れ続けている、と、言えるかどうかは、私には、分かりません」
「分からない、ですか」
「はい」
「分からないまま、問い返しだけが、続いている」
「……続いています」
「わかりました。反対尋問、以上です」
近藤先生は、一礼して、着席した。
-----
再主尋問は、岡本弁護士から、やや長めに行われた。
岡本弁護士は、近藤先生の尋問が残した印象を、できる限り補修しようと、いくつかの角度から、篠田に問いを投げた。発言による苦痛は、受け手が嘘をついているかどうかに関わらず、発言そのものが受け手の心身に負荷を与え得る、という一般論を、篠田の言葉で引き出そうとした。
篠田の答えは、再主尋問のあいだ、短く、抑えた調子だった。岡本弁護士の導く方向には、おおむね応じていた。応じていたが、答えの声の張りは、近藤先生の反対尋問の後で、明らかに、落ちていた。
「以上です」
岡本弁護士は、着席した。
裁判長が、補充尋問の有無を確認した。両代理人とも「ありません」と答えた。
「原告、お戻りください」
篠田は、椅子から、立ち上がった。立ち上がる動作が、尋問の前よりも、さらに、ゆっくりとしていた。通路を歩いて、原告席へ戻る途中、篠田は、一度、身体を、わずかに傾けた。岡本弁護士が、素早く立ち上がり、篠田の背中を、軽く支えた。
篠田は、原告席に、腰を下ろした。両肩が、少しのあいだ、止まらずに、上下していた。
-----
裁判長が、次回期日の指定に移った。
次回は、原告側が申請した、専門家証人の尋問の期日となる。約一か月後、五月の初旬に指定された。
閉廷が告げられた。
-----
法廷を出るとき、私は、篠田のほうを、一度、見た。
篠田は、岡本弁護士と肩を並べて、通路を歩いていた。うつむき方が、深くなっていた。こちらに視線を向ける余裕は、篠田にはもう残っていないように見えた。
近藤先生が、私の隣で、小さく、息を吐いた。
「……お疲れ様でした」
「はい」
「反対尋問は、難しい位置まで、入りました」
「……」
「篠田さんは、最後まで、正面から答えるのを、避けられませんでした。避けきれずに、身体のほうに、負担が、来ていたようです」
「……」
「次回の期日では、原告側が、専門家証人を呼びます。精神科医だそうです。法廷で、ノセボ効果という現象について、証言してもらう、とのことです」
「……ノセボ効果」
「はい。プラセボ効果の逆で、本来有害な作用のないものが、本人の信じ込みによって、実際に有害な作用を生む現象です。原告側は、吉田さんの発言が、まさにこの効果の構造を意図的に利用したものだと、立証しようとしてくる構えです」
「……はい」
「次回の期日までに、こちらも、対抗の準備を、整えていきます」
近藤先生は、それ以上の解説は、しなかった。通用口へ向かう廊下を、二人で並んで歩いた。
-----
車で家の近くまで送ってもらい、別れた。
家に戻り、コートを脱ぎ、手を洗い、台所に立った。
湯を沸かし、茶を淹れ、仏壇に供えた。
手を合わせる。
——今日、証言台に立ちました。
——次回の期日は、一か月後です。
心の中で、咲希に、そう伝えた。
リビングのソファに腰を、下ろした。
私は、少しのあいだ、目を閉じた。
——それは、警察の仕事です
その一言が、まだ、耳の奥に、残っていた。
あの答え方は、篠田が、反射的に返した防御の言葉だったのかもしれない。あるいは、篠田が、あの問いに直接答える言葉を、内側に持っていないが故の、言い逃れだったのかもしれない。それは、私には、わからない。
ただ、あの時の、篠田の沈黙が、長かったことだけは、確かだった。




