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罪の時  作者: kkeman
10/11

梅の葉

 四月に入って、街路樹の枝先が、一斉に、緑を開きはじめた。


 一夜のあいだに、色が変わったかのような日があった。数日前までは、まだ芽の先が硬く閉じていた木々が、ある朝、窓から見ると、うす緑の薄い膜を幹の周囲に広げていた。緑は、日ごとに濃くなり、一週間もすると、若葉らしい厚みを帯びはじめた。


 本人尋問から、十日が経っていた。


 次回期日——専門家証人の尋問の日——まで、あと三週間と少し。


 その三週間は、思っていた以上に、静かに過ぎていきそうだった。近藤先生からは、一度、短いメールが届いた。専門家証人の反対尋問に向けて、こちらも書面の準備を進めているとの報告と、来週あたり、一度事務所までお越しいただきたい、という一文も添えられていた。それ以外に、新たな動きは、今のところ、なかった。


-----


 本人尋問の翌日から、数日のあいだ、私は、家の中で、ほとんど動かずにいた。


 昨年の判決直後の、あの静止の時期とは、また別の、少し軽い静止の時期が、訪れていた。軽いというのは、息の仕方が、判決直後ほどは、詰まっていなかったからだった。証言台で言うべきことは、言った。言い終えた後の、薄い空白だった。

 

 そんな日の朝、スマートフォンが鳴った。

 

 画面に表示された名前を見て、私は、少しのあいだ、手を止めた。

 

 千恵さんだった。

 

 第三回期日で、「赦さない」という言葉が法廷で読み上げられたあの日から、私は千恵さんに連絡を取っていなかった。取らなかった理由は、自分でも、うまく整理できていない。千恵さんを責めたいわけではなかった。ただ、連絡を取るための言葉が、見つからなかった。

 

 電話に、出た。


 「もしもし」


 「……直子さん」


 千恵さんの声は、いつもと変わりなく聞こえた。


 「……千恵さん」

 

 「久しぶりね」

 

 「……うん」


 「元気にしてる?」 


 「……元気と言うのは、難しいけど、なんとかやってる」


 「そう」


 その「そう」という声に、笑っているような、泣いているような、息のもれ方があった。

 

 千恵さんは、おそらく、あのことを知っているだろう。それでも、千恵さんは、私に直接そのことを尋ねるようなことは、しなかった。千恵さんは、いつもそういう人だった。


「今日、ふと、あなたと行ったお菓子屋さんのことを思い出して。半年くらい前に、一緒に行ったところ」


「……ああ」


「駅前の、洋菓子店の。あそこの、レモンケーキが、春になると出るのよ」


「……春限定」


「そう。今度、一緒に行きませんか」


 私は、受話器を持ったまま、少しのあいだ、黙った。


 千恵さんは、急かさなかった。


「……行きたい」


「じゃあ、また連絡する。日にちは、そちらの都合のいいときでいいから」


 それだけの短い電話だった。


 通話が切れたあと、私は、スマートフォンを、胸の前で、両手で包み込むように握った。握ったまま、しばらく動かなかった。


 千恵さんは、あのことを知ったうえで、そのことには触れずにいる。もし、知らないなら、何も知らないまま、いつも通りの優しさで、声をかけてくれている。どちらだとしても、千恵さんの私への態度は、変わらない。


 こちらから尋ねなければ、千恵さんは、黙っていてくれる。

 

 黙っていてくれる方が、今日のところは、ありがたかった。

 

 いずれにせよ、千恵さんとレモンケーキを食べに行くのは、証人尋問が終わったあとになるだろう。


 *


 本人尋問が行われた日の翌日、誰もいないリビングで、テレビをつけると、昼のワイドショーが、その話題を取り上げていた。


 俺は、コーヒーを淹れるために台所に向かい、テレビからは、断片的に音声が届いていた。最初は、聞いていなかった。それでも、いくつかの言葉が、湯気の立つカップの上を、横切って耳に届いた。


 最後の一言で、コーヒーを淹れる手を、止めた。


 台所の入り口から、リビングのテレビを、覗いた。


 「真犯人を望まない原告——本人尋問で見えた違和感」


 そう表示されたスタジオのモニターを背に、二人のコメンテーターが、何かを話し合っていた。


 俺はテレビを消し、リモコンをソファの脇に置いた。


 「見ないほうが、いいのよ。」


 突然、後ろから声がして、振り向くと、母が台所の入り口に、立っていた。


 母の声は、優しかったが、目の奥に、わずかな影が見えた。母は、すでにニュースを見ていたのかもしれない。あるいは、近所の人が、何かを母に言ったのかもしれない。母は、俺を心配しているという顔の下に、もう一つの心配を、抱えはじめているように見えた。


「何か、近所の人に、言われたりした?」


「いや」


 母は、即座に否定した。


「いや、何も、言われてない」


 即座に否定する、ということが、否定の内容を、かえって裏返してしまうことがある。母は、それに気づいていない様子だった。あるいは、気づいた上で、それでも否定するしかない状況に、追い込まれているのかもしれない。


 俺は、それ以上、追及しなかった。


 追及して、母に何を言わせても、母を苦しめるだけだった。


-----


 夕方、母が買い物から帰ってきたとき、母の顔色を、無意識のうちに、確かめている自分に、気づいた。母が、外で何か言われたのではないか。母が、知らない人にスマートフォンを向けられたのではないか。母が、責められたのではないか——そういう想像が、自分の中で、勝手に動きはじめた。


 母は、いつもと同じ顔で、台所に入っていった。


 「ただいま」の声は、いつもと変わらなかった。


 変わらなかったことに、俺は、安堵すると同時に、別の心配を始めていた。母が、外で何かを浴びても、それを家に持ち込まないように、必死で表情を整えているのではないか。整える努力が、母の中で、どのくらい無理を強いているのか。


 その夜、夕食の席で、食べ終わった父が、いつもなら見るはずの新聞を広げなかった。


 母は、台所のシンクの前で、洗い物の手を止めていた。止めた手の甲が、少しのあいだ、震えていた。


 俺は、自分の茶碗の中の、まだ半分残っている白飯を見ていた。


 半分残っている白飯を、食べる気が、しなかった。それでも、母を心配させたくなかったので、箸を伸ばし、機械的に、口に運んだ。


-----


 深夜、眠れないまま、二階の部屋で天井を見ていた。

 

 階下の両親の部屋は、静かだった。父も母も、もう眠っているはずだった。眠っているなら、それでいい。眠れていないなら、その理由を、俺は知っている。知っていて、何もできない。

 

 母の手の甲が、震えていた。

 

 あの震えは、今に始まったことではなかった。

 

 俺が逮捕されたとき、両親は、何を浴びたか。近所の人たちの視線が、どう変わったか。

 

 あの頃、俺は拘置所にいた。両親は、俺のいない家で、それを受け続けていた。

 

 二年のあいだに、世間の関心は薄れていっただろう。両親も、少しずつ、その状態に慣れていったはずだった。無罪の判決で、やっと息がつける、はずだった。

 

 しかし、あの女の発言で、判決の直後から、また波が来た。無罪という事実と、あの発言による俺への不信感が、世間の中で交錯して、どちらとも言えない空気が、続いた。

 

 今日の報道のインパクトは、近所の人たちを、俺が逮捕された頃のような状態に、再び、戻す力のあるものだった。母が外に出るたびに、誰かの目線が動く。誰かが何かを言う。言わなくても、空気が変わる。

 

 逮捕のときから、ずっと、両親は、それを受け続けてきた。


 自分のために、家族を消耗させている。

 

 その事実は、アパートで一人でいたときの、自分の声が、自分の声に聞こえなくなる感覚とは、また別の重さで、胸の内側に、広がっていた。


-----


 翌朝、朝食の後、父が居間を出ていったのを確かめてから、俺は母に声をかけた。


「母さん」

 

 母は、洗い物の手を止めて、振り返った。


「……アパートに、戻ろうかと、思ってる」

 

 母は、少しのあいだ、俺の顔を見ていた。それから、手を拭きながら、ゆっくりとこちらに向き直った。


「……そう」


「これから、岡本先生とのやり取りが、増えてくるから。アパートの方が、動きやすい」

 

 母は、うなずいた。


「……そうね」

 

 母の声は、それだけだった。嘘だと気づいているかどうかは、分からなかった。気づいていて、その嘘を受け取ってくれているのかもしれなかった。


「いつ、出るの」


「来週中には」

 

 母は、もう一度、うなずいた。それ以上は、何も聞かなかった。

 

-----


 その日の午後、二階の部屋で、岡本先生にメールを送った。

 

 来週中に、アパートに戻る予定であること。連絡先は変わらないこと。それだけを、短く書いた。

 

 送信ボタンを押してから、窓の外を見た。

 

 庭の、小さな梅の木が、風に揺れていた。葉が、青くなっていた。

 

 俺が家を出ても、母が外で何かを浴びることは、変わらないかもしれない。

 

 それは分かっていた。

 

 それでも、俺がここにいる限り、この家の中の空気は、今のままだった。三人が、同じ屋根の下で、それぞれに、言えないことを抱えたまま、食卓を囲む夜が続く。

 

 俺がいなければ、二人は、少し、違う話ができるかもしれない。俺のいない空間で、二人だけの言葉が、少し動くかもしれない。

 

 それだけのことだった。

 

 劇的な理由ではなかった。ただ、俺がいることで狭くなっているものが、この家にある。それが、少し広くなれば、それだけでいい。

 

 アパートに戻ったら、声が自分の声に聞こえなくなる夜が、また来るかもしれない。

 

 アパートで一人でいる苦しさと、ここにいることで家族を消耗させる苦しさと、どちらが重いか——

 

 ただ、どちらを選ぶかは、自分で決めるしかなかった。

 

 梅の葉が、また、風に揺れた。


 *


 四月に入って、冬とは角度を変えた陽の光が、署の窓から差し込んでいた。


 自分は、机の引き出しを開け、切り抜き用のファイルを取り出した。


 切り抜きは、今週の分だけで、七枚になっていた。全国紙が三枚、地方紙が二枚、週刊誌が二枚。週刊誌の一枚は、本人尋問の翌週に出たもので、見出しが大きかった。


 ——「沈黙した男」十分間の法廷——


 記事の中身は、自分が、法廷で見ていたことと、ほぼ重なっていた。ほぼ、というのは、自分が見ていたものと、記者が書いたものとのあいだに、わずかなずれがあったからだった。記者は、篠田が答えなかった事実を書いた。自分が見ていたのは、篠田が答えようとして、答えられなかった、その動きだった。


 答えようとして、答えられなかった。


 その違いを、記事は書けない。書けないのは、記者のせいではない。あの瞬間の篠田の内側は、法廷にいたほとんどの者には、正確には見えていなかっただろう。


 もう一枚の週刊誌は、吉田直子の特集だった。「呪いの母、証言台に立つ」という見出しで、発言の全文と、これまでの裁判の経緯が、五ページにわたって整理されていた。写真は、法廷画家の描いた彼女の横顔だった。


 自分は、その横顔を、しばらく見ていた。


 判決の日、通路に踏み出したあの背中と、尋問の日に証言台に立っているこの横顔とが、同じ人間の、二つの時間として、重なった。


 切り抜きを、ファイルに挟み、引き出しを閉めた。


 スマートフォンを手に取り、SNSアプリを開いた。


 @anonymous_law_talk

本人尋問の総括 近藤弁護士の反対尋問は想定以上だった 「外出したか」への沈黙と「警察の仕事」という答え あの二点だけで、この裁判の構図が変わった気がする


 @通りすがりの元検察

近藤弁護士が引き出したのは法的な証拠ではない しかし法廷の空気を変えるには十分だった 裁判官の心証がどう動いたかは判決が出るまで分からないが


 @れもんさわー

「真犯人を捕まえてほしいか」に答えられなかったらしい 普通に考えたらおかしくないか やってないなら即答できるはずじゃないの


 @sirokuma_0721

↑でも本当にやってない人でも、あの状況であの質問されたら固まるかもしれない 一概には言えないと思う


 @かもめ食堂

傍聴した人の話を聞いただけで苦しくなった 沈黙が長すぎたって


 @法クラ垢(弁護士)

法的には本人尋問で出てきた内容がそのまま判決に直結するわけではない ただ裁判官も人間だ あの沈黙を見た後で書く判決文は、見ていない場合と、同じにはならないかもしれない


 @psy_watch_jp

「問い返しは止まらない」という原告の発言が一番気になった 撤回されても止まらないかもしれないと自分でも言っている では何のための訴訟なのかという疑問が残る


 @higashino_watch

次回は専門家証人 精神科医が出てくるらしい そこでまた空気が変わるかもしれない


 捜査のあいだ、自分たちが追っていたのは、「犯行を立証するための証拠」だった。


 今、自分が見ているのは、「犯行以降の篠田の内側の動き」だった。


 二つは、捜査としては、まったく別の種類のものだった。後者は、もう、刑事の職務の対象ではない。刑事の職務を離れた場所で、自分は、篠田の内側の動きを、観察している。


 観察は、どこに、行き着くのか。


 行き着いた先で、自分は、何ができるのか。


 できることは、おそらく、何もない。


 自分は、ただ、見届けたいだけ、なのかもしれなかった。


 見届けたい、という欲望を、自分は、自分の職業の倫理の外側に、ずっと前から、置いてしまっている。職業の倫理の外側に置いた欲望を、内側に引き戻す気は、もう、ない。自分は、引き戻さないまま、この先も、朝、署に来て、コピーをめくり、切り抜きを挟み、引き出しを閉じる。その繰り返しを、続けるだろう。


 

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