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罪の時  作者: kkeman
11/12

専門家

 五月の初旬、専門家証人の期日は、雨だった。


 前日の夜から降りはじめた冷たい雨が、朝になっても止まず、裁判所の門の前の石畳を、黒く濡らしていた。報道陣は、前回よりも少なかった。雨の日は、戸外の取材が敬遠されるのだろう。それでも、傘を差しながら立っている記者が、数人、門の脇に見えた。


 私は、黒い傘を少し傾けて、顔を正面に向けたまま、門をくぐった。マイクは、今日は差し向けられなかった。雨の音が、声を届かせる邪魔をしていた。


 ロビーで近藤先生と合流する。


「今日は、傍聴席が、前回より埋まると思います」


 近藤先生は、手の水滴をハンカチで拭いながら、小さくそう言った。


「先方が専門家証人を申請したことは、報道でも伝わっています。興味を持った記者や研究者が、いつもより多めに来ると思います」


「吉田さんは、証人の発言を、表情を変えずに聞いていただく。それだけで、十分です」


 近藤先生の声は、いつも通り、落ち着いていた。ただ、水滴を拭うハンカチを折り畳む指先の動きが、わずかに速かった。重要な日だと、身体のほうは知っているのだろう、と思った。


-----


 法廷の廊下で、岡本弁護士と篠田が、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。


 篠田の姿を、今日もまず最初に目に入れた。本人尋問の日には、わずかに戻っていた頬の肉が、また削げていた。髭は、丁寧に剃られている。髪も、短く整えられていた。それでも、目の奥のあの薄い膜は、厚みを増しているようにも、感じられた。


 岡本弁護士の後ろを、篠田はやはり、うつむきがちに歩いていた。


 -----


 今日の傍聴席は、後ろの方の席まで、隙間がほとんどなかった。手元にノートとペンを用意している人が、半分以上いる。


 坂口さんの姿は、今日も、後方の端にあった。濡れたジャケットを腕にかけていた。


 着席の後、手続きが始まった。


 冒頭、いつも通りの形式的な陳述が交わされ、裁判長が次に進む合図をした。


「証人、入廷してください」


 廷吏が、入口の扉を静かに開けた。


 入ってきたのは、五十代半ばの、白衣ではない、紺色のスーツを着た男性だった。少し白髪の混じった短い髪を、きちんと整えている。眼鏡の縁は、金属の細いもの。手には、薄いクリアファイルを一つ。歩き方は、急がず、慌てず、自分の足の運び方を正確に把握している人の歩き方だった。


 宣誓書を読み上げる声は、低く、しっかりしていた。医師として長年、人前で話してきた人の、落ち着きのある声だった。嘘を言わない、という宣誓の言葉を、言い慣れた専門用語のように、よどみなく発した。


 岡本弁護士が立ち上がり、主尋問を始めた。


-----


「証人のお名前と、ご職業をお伺いします」


「三浦と申します。精神科医として、大学病院で勤務しております」


「専門領域を教えてください」


「臨床精神医学、および、心身相関の領域を主に研究しております」


「証人は、ノセボ効果という概念について、ご存知ですか」


「存じております。専門の一つとして扱ってまいりました」


「では、この法廷で、ノセボ効果について、概要の説明をお願いできますか」


「はい」


 証人は、傍聴席のほうには目をやらず、静かに答えはじめた。


「ノセボ効果とは、本来、有害な作用のない物質や言葉が、受け手がそれを有害だと信じ込むことにより、実際に有害な作用を及ぼす現象を指します。プラセボ効果の反対で、偽薬が本来の薬理作用を持たないにもかかわらず、服用する人が『効く』と信じ込むことで効果を示すのと同じ構造が、逆方向に働いた結果です」


 岡本弁護士は、一度、短くうなずいた。


「ノセボ効果は、医学的に裏付けられた現象ですか」


「はい。複数の研究論文で報告されており、臨床の現場でも、投薬の副作用説明が過剰に行われると、実際にその副作用が患者に現れる頻度が上がる、という形で、日常的に観察されています」


「次に伺いますが、特定の発言が、受け手にノセボ効果を及ぼすことは、ありえますか」


「はい」


「どのような場合に、ノセボ効果が生じやすいか、お教えください」


「条件があります。第一に、発言の内容が、受け手にとって有害な結果を予告するものであること。第二に、発言を行う主体が、受け手にとって権威ある、あるいは信じるに足る存在だと認識されていること。これらが揃うと、受け手は、発言の内容を拒絶することが難しくなり、内容を繰り返し想起するようになります。この反復が、不安や恐怖を強化し、心身の不調として実際に現れる過程が、ノセボ効果の典型的な発生機序です」


 岡本弁護士は、傍聴席にもわずかに聞こえる音量で、ページをめくった。


「本件の、被告の法廷での発言について伺います。被告は、無罪判決の直後、法廷内において、原告に対して、『あなたが嘘をついているなら、あなたは五年以内に死にます』旨の発言を行いました。証人のお立場から、この発言は、ノセボ効果を生じさせ得る構造を備えているとお考えになりますか」


「お答えする前に、一点、申し上げてもよろしいでしょうか」


「どうぞ」


「発言の具体的な受け手が、実際にノセボ効果を受けたかどうかは、診察と検査を経なければ、医学的には確定できません。ここでお答えできるのは、当該発言が、一般論として、ノセボ効果を生じさせる構造を備えているか否か、という点までです」


「結構です。その範囲でお答えください」


 証人は、小さく呼吸を整えた。


「結論から申し上げれば、備えていると考えます」


「どのような理由からでしょうか」


「第一に、発言の内容が、『五年以内に死ぬ』という、受け手にとって極めて有害な結果を予告しています。第二に、発言者の立場についてです。ノセボ効果の発生には、発言者が受け手にとって、信じるに足る、あるいは無視しにくい存在であることが、条件の一つとなります。本件において、発言者は、娘を失った被害者遺族です。この立場は、社会的な権威とは異なりますが、受け手にとって、発言を単純に退けることが難しい、道義的な重みを持つものです。この意味において、条件を満たしていると考えます。以上の点から、この発言は、先ほど申し上げた二つの条件を、満たしていると考えます」


「ありがとうございます」


 岡本弁護士は、少し間を置いた。


「もう一つ、伺います。被告の発言は、『嘘をついているなら』という条件節を含んでいます。この条件節の存在は、ノセボ効果の生じ方に、どのような影響を与えるとお考えですか」


「興味深いご質問です」


 証人は、一度、眼鏡を指先で押し上げた。


「条件節の存在は、一見、発言の有害性を和らげるようにも見えます。嘘をついていなければ、死ぬことはない、と読めるからです。しかし、ノセボ効果の観点からは、条件節は、むしろ、受け手の内面における自己省察を強制的に引き起こす作用を持ちます。受け手は、発言を耳にした瞬間から、自分が嘘をついているかどうかを、意識的、あるいは無意識的に、繰り返し問いかける状態に置かれます。この問いかけが持続すれば、心身への負荷は、条件節のない直接の呪詛よりも、大きくなる場合があります」


「条件節のない直接の呪詛よりも、大きくなる場合がある、ということですね」


「はい。条件節は、逃げ道を与えるふりをして、実質的には逃げ道を塞ぐ構造として機能し得ます」


 私は、正面を向いていた。


 正面を向きながら、耳の奥で、証人の言葉を、一つずつ受け止めていた。条件節が逃げ道を塞ぐ——その読みは、私が、あの通路で言葉を発したときに、自分の中で半ば分かっていたことでもあった。相手が嘘をついていなければ、何も起きない。嘘をついていれば、起きる。この二つのあいだを、相手に絶えず問い続けさせる構造を、私は見つけた。


 しかし、証人の言葉が、もう一つの含意を帯びて、私の耳に届いた。


 条件節が、受け手の内面における自己省察を強制的に引き起こす作用を持つ——この読みは、私の意図を、医学の側から裏打ちしてくれてもいた。私は、相手の内側に、強制的に問いを投げ込みたかった。投げ込んで、相手が自分自身と向き合う形に開いておきたかった。それを、医学の言葉が、肯定する形で読み直してくれている。


 ただし、医学の言葉は、それと同時に、私の発言を「逃げ道を塞ぐ構造」として性格付けてもいた。私の中の意図と、医学の言葉の評価は、重なる部分と、重ならない部分が、同時にあった。


「主尋問、終わります」


 岡本弁護士は、軽く一礼して、着席した。


-----


 近藤先生が立ち上がった。


「証人に、いくつか伺います」


「どうぞ」


 近藤先生の声は、いつもと変わらぬ落ち着きを保っていた。


「先ほど、証人は、ノセボ効果が生じる条件として、二つの要素を挙げられました。発言内容の有害性、そして、発言者が受け手にとって無視しにくい存在であること。これらは、おおむね、客観的な条件として整理可能ですね」


「はい」


「しかし、一点、確認させてください。これら二つの条件が揃ったとしても、受け手にノセボ効果が実際に生じるかどうかは、受け手自身の内面の状態に依存する、ということで、よろしいですね」


「……依存の度合いはありますが、はい、基本的には、受け手の内面の状態が関与します」


「具体的には、受け手が、発言の内容を自分の中に取り込むかどうかに、左右される」


「そのように申し上げて、差し支えありません」


「取り込むかどうかは、受け手の、どのような要素によって決まるのでしょうか」


「複数の要素が絡みます。発言に対する信じ込みの程度、発言の内容と受け手の自己認識との一致度、その他の心理的脆弱性などです」


「発言の内容と、受け手の自己認識との一致度」


 近藤先生は、その言葉を、ゆっくり繰り返した。


「はい」


「この点について、もう少し詳しく、お伺いできますか」


 証人は、一瞬、視線を下に落とした。言葉を選んでいる、と、私は感じた。


「……ノセボ効果は、発言の内容が、受け手の中のある種の自己認識と一致する場合に、より強く生じる傾向があります。発言が、受け手が既に自分の内側で抱えていた不安や、疑念や、恐れと呼応するとき、受け手はその発言を、より深く内面化します」


「つまり、発言が、受け手の内側に『すでにあったもの』を引き出すとき、効果は強まる、ということですね」


「そう申し上げても、大きな誤りはないかと存じます」


「では、逆に伺います。発言が、受け手の内側にあるものと、全く一致しない場合——たとえば、発言内容が、受け手にとって、自分のこととして全く感じられない場合には、ノセボ効果は、生じにくい、ということになりますね」


「……はい、そのような傾向は、ございます」


「本件の被告の発言は、『あなたが嘘をついているなら』という条件節で始まっています。もし、発言を受けた方が、自分が嘘をついていないと、自分の内側で明確に確信していた場合——条件節の前提が、自分には当てはまらないと、内面で確固として認識していた場合——ノセボ効果は生じるでしょうか」


 短い沈黙があった。


「……理論的には、生じにくくなります」


「生じにくい、と」


「はい。受け手の内側で、発言の前提が自分には当てはまらないと確信されていれば、発言を内面化する回路が、作動しにくくなります」


 近藤先生は、小さくうなずいた。


「もう一点、伺います」


「どうぞ」


「被告の発言は、『あなたが、あなた自身にかける呪いです』という、主体の置き換えを含んでいます。呪いをかけるのは発言者ではなく、受け手自身だ、という主体の置き換えです。この構造は、ノセボ効果の生じ方に、どのような影響を及ぼすとお考えですか」


「……興味深い構造です」


「お答えください」


「主体の置き換えは、受け手に対して、発言の責任を受け手自身に帰属させる効果を持ちます。発言者は『私はかけていない』と述べる。したがって、受け手が苦しむとすれば、それは受け手自身が自分にかけたものだ、という構造になります」


「そのとき、受け手が苦しむかどうかは、受け手自身の内面の問題だ、ということになりますね」


「形式上は、そう整理できます」


「形式上だけではなく、実質的にもそうではありませんか」


 証人は、少し答えにくそうに、眼鏡を直した。


「……ノセボ効果の観点からは、発言が受け手の内面に働きかけた時点で、発言者の作用を完全に切り離すことはできないと、申し上げたいところです」


「しかし、被告の発言の構造は、発言者の作用をあらかじめ切り離す形で組み立てられている。違いますか」


「……構造上は、そう設計されていると申し上げられます」


 近藤先生は、ここで、わずかに間を取った。傍聴席の空気が、少し動いた。手元のペンを速めた記者が、何人か見えた。


「最後に、一点、確認させてください」


「どうぞ」


「ノセボ効果は、科学的に裏付けられた現象です。しかし、その発生は、受け手の内面の状態に大きく依存する。受け手が、発言の前提を自分には当てはまらないと内側で確信していれば、効果は生じにくい。発言が、主体の置き換えを含む構造で設計されていれば、効果が生じるかどうかは、受け手自身の内面の問題として整理される。これで、よろしいですね」


「……はい、おおむね、その通りです」


「反対尋問、以上です」


 近藤先生は、一礼して、着席した。


-----


 岡本弁護士が、再度立ち上がった。


「再主尋問、一点だけ、伺います」


「どうぞ」


「ただいまの反対尋問の内容を踏まえた上で、証人に伺います。ノセボ効果の発生が受け手の内面の状態に依存するとしても、有害な発言が行われた事実そのものが、受け手の内面に何らかの影響を及ぼし得る、という点は、変わりませんね」


「はい、変わりません」


「発言が、完全に、受け手の内面と一致しない場合であっても、受け手の心身に一定の負荷を与え得る、という一般論は、医学的に成立しますか」


「成立します」


「再主尋問、終わります」


 岡本弁護士は、再び着席した。


 裁判長は、双方の代理人に、補充尋問の有無を確認し、どちらも「ありません」と答えた。


「証人、ご退廷ください」


 精神科医は、丁寧に一礼し、静かに法廷を後にした。


-----


 その後、手続きは粛々と進み、次回期日の指定で、閉廷が告げられた。


 次回は、双方の最終準備書面の提出と、口頭弁論の終結——結審——を行う期日となる。約一か月後、六月の初旬に指定された。


 閉廷後、近藤先生は、隣で、小さく「お疲れ様でした」とだけ言った。


 法廷を出るとき、廊下で、篠田と、目が一度、合った。


 今日の篠田の目には、前回までとは、別のものが混じっていた気がした。ノセボ効果という科学の言葉で、呪いの作用を解きほぐして見せられることが、篠田にとってどのような経験だったかは、私には、わからない。ただ、目の奥のあの薄い膜のようなものが、今日は、少しだけ揺らいで見えた。


 視線を外し、私は、近藤先生の後について、通用口へ向かった。


-----


 家に帰り、濡れた上着を脱いで、手を洗った。それから、仏壇の前に座った。


 ——今日は、難しい言葉が、法廷で、たくさん交わされました。


 心の中で、咲希に伝えた。


 ——ノセボ効果、という言葉を、初めて知りました。あの通路で、私が発した言葉の中の一部を、医者の口から、医学の言葉で説明されました。


 自分の行為を、他人の口で、別の言葉で翻訳される——それは、第三回期日で「赦さない」の一言が読み上げられたときとも、「条件節の形式を取りながら実質的には嘘つきと名指す効果」と整理されたときとも、別種の経験だった。あの二度は、私の感情の言葉や、行為の構造が、法律の言葉で整理された。今日は、私の見つけた論理が、医学の言葉で、私が知らなかった名前で、整理された。


 私の見つけた論理を、医者の言葉で裏返されて見せられたとき、それが、私のものであって、私のものだけではない——私の発明ではなく、人間の心の一般的な構造に根差していた——という感覚に、ほんの少しだけ触れた。


 これが、自分にとって、怖いことなのか、ありがたいことなのか、まだ判りかねた。


 ただ、咲希に、今日のことは、伝えておきたかった。


 ——次は、結審の日になります。一か月後です。


 遺影の前で、しばらく、手を合わせたままでいた。


 窓の外で、雨の音が、まだ続いていた。

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