証言台
三月の末の朝、冬の名残を押しのけるように、春の光が差していた。
裁判所の門の前には、これまでで最も多い報道陣が集まっていた。前回までは、体を縮めていた記者たちが、今朝は、コートの前を開けて、軽やかに動いている。季節が、人の動きを柔らかくしていた。その群れのなかを、私は、いつもの足取りで通り抜けた。
「吉田さん、今日は、ご自身が証言台にお立ちになりますが」
「ご心境を、一言だけでも」
「判決前後のお気持ちを、ご本人の口から、どのように」
答えないと心に定めていた。定めていたから、迷わず、門を抜けた。
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ロビーで近藤先生と合流すると、彼女は、私の顔を、短く見た。
「おはようございます」
「おはようございます」
「眠れましたか」
「少しだけ」
「ご無理は、なさらないで」
それだけを交わし、近藤先生は、帰りの車の手配を簡単に確認した。その間に、私の呼吸が落ち着いていくのを、彼女は、視線の端で見守っていたように思う。
「今日は、原告側の本人尋問も、続けて行われます」
近藤先生は、小さく言い添えた。
「まず、吉田さん。続けて、篠田さん。一日で、双方の本人尋問を終える予定です」
「……はい」
「篠田さんの尋問のときも、吉田さんは、退廷なさらずに、被告席に座っていただきます。その順序です」
「わかりました」
その順序を、私は、頭の片隅に置いた。自分の尋問が終わった後に、あの男の声を、最後まで聞かなければならない——その構えを、先に作っておいたほうが、一日を乗り切るには、たぶん、楽だった。
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法廷に入り、被告席の近藤先生の横に座る。
今日も、傍聴席は、前回と同じくらい埋まっていた。本人尋問という節目の日を取材に来ている報道関係者が、ノートの用意を整えて、最前列から三列目までを押さえていた。
後方の端に、坂口さんの姿が、今日もあった。目が合った。前回より、少し長く。私は正面に向き直り、坂口さんも、それ以上の動きはしなかった。
原告席に、岡本弁護士と篠田が、やはり並んでいた。
篠田の姿は、前回の第三回期日のときよりも、わずかに、落ち着いて見えた。頬のこけ方は少し和らぎ、表情の筋肉に、いくらか弾力が戻っているようだった。髭は、丁寧に剃られている。髪も、短く整えられていた。
しかし、目の奥の薄い膜は、今日も、そこにあった。
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裁判官が入廷し、手続きが始まった。
「本件においては、双方代理人の合意により、証人尋問に先立ち、本人尋問を実施いたします」
裁判長が、本人尋問の順序を確認した。まず被告本人、続いて原告本人。
「被告、証言台へお進みください」
私は、立ち上がった。
立ち上がる瞬間、隣で近藤先生が、私のコートの袖に、ほんの軽く、指先で触れた。「慌てずに」の合図なのだと思う。私は、一度、短く息を吸い、通路を歩いた。
証言台に立ち、宣誓書を読み上げる。
宣誓書の言葉は、咲希の公判でも、読み上げたことがある。しかし今日は、違った。自分が訴えられる側として、この言葉を発するのは、初めてだった。発した瞬間に、言葉が自分の中に入ってくる感覚があった。入ってきた言葉を、私は、胸の奥の深いところに、収めた。
宣誓を終え、証人席に着席する。
正面に、裁判官席。右手に、原告席——岡本弁護士と篠田。左手に、被告席——近藤先生。後ろに、傍聴席。視線の四方が、全て誰かに向かって開かれていた。
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近藤先生の主尋問から、始まった。
「吉田さん」
近藤先生の声は、いつもの事務所の応接室で聞く声と、ほぼ同じ落ち着きを保っていた。
「お名前と、ご住所を、お願いします」
私は、氏名と、住所を、そのまま答えた。
「吉田さんが、本件の発言を行われた経緯について、順を追って伺っていきます。まず、事件のご説明から、お願いできますか」
「はい」
近藤先生は、ここから、咲希の事件の概要、公判の進行、判決までの経緯を、私の口から、ゆっくりと引き出していった。どの質問も、事前の打ち合わせで一通り整理していた内容だった。答えに迷うところは、ほとんどなかった。
咲希が二十五歳であったこと。事件のあった十月の夜のこと。咲希からの電話。咲希の声の震え。警察からの電話。公判の期間。判決当日の朝、家を出るときの私の心境——ひとつひとつを、私は、正面の裁判官席のあたりに目を向けたまま、淡々と答えていった。
淡々と答えているあいだ、私の視界の端には、被告席の近藤先生が、原告席の岡本弁護士と篠田が、おぼろげに入っていた。背後の傍聴席から、ペンを走らせる気配が、伝わってきた。篠田が、どのような姿で、私の言葉を聞いているかは、目の端に入れてはいるけれど、焦点を合わせなかった。
「判決当日、主文を聞いた瞬間のことを、覚えていらっしゃいますか」
近藤先生の問いが、核心の近くへ、慎重に寄せられてきた。
「覚えています」
「どのように、感じられましたか」
私は、少し、間を置いた。
「冷たいものが、胸の真ん中に、落ちてきた感覚を、覚えています。冷たさは、一瞬で、全身に広がりました」
「その後、ご自身は、どう動かれましたか」
「被告人が席を立つのを見て、私は、立ち上がりました」
「立ち上がって、何を考えておられましたか」
「考えていた、というより、体が、動いていた、という感覚に近いです。何かを考える時間は、あのときは、ほとんどありませんでした」
「通路に出た後、ご自身の発言を、発されました」
「はい」
「その発言を、ここで、もう一度、発していただくことは、できますか」
短い沈黙。
近藤先生の問いは、事前に打ち合わせていた。証言台で、私自身の口から、あの言葉をもう一度発する——これは、法廷での立証の一部だった。発することに迷いはなかった。迷ったのは、発する声の大きさと、速度だった。あの日と同じ声で発すれば、あの日の感情が、また自分の内側に戻ってくる。戻らせるか、戻らせないか、そこを、今、自分で選ばなければならなかった。
戻らせることにした。
あの日と同じ声で、発することにした。
私は、息を、一度、静かに整えた。
「あなたがもし嘘をついているなら、あなたは五年以内に死にます」
「それは、私があなたにかける呪いではありません」
「あなたが、あなた自身にかける呪いです」
「あなたがもし嘘をついているなら、あなただけが、それを知っています。あなたがどれほど周囲に嘘を貫き通しても、あなた自身は、自分が嘘をついていることを知っている」
「あなたが、あなたを殺します」
発し終えて、私は、短く、息を吐いた。
傍聴席のどこかで、ノートに何かを書き留めるペンの音が、かすかに、響いた。
正面の裁判官は、無表情のまま、聞いていた。
原告席の、岡本弁護士の顔は、視界に入らないようにした。篠田の顔も、入れなかった。
「この発言を、今、この法廷で、改めて発されたお気持ちを、お聞かせください」
近藤先生は、静かに、次の問いを投げた。
「……あの通路で発したときと、同じ気持ちです」
「具体的には」
「娘のために、私が、発さなければならない言葉だったと、今も思っています」
「発したことへの、後悔は」
「ありません」
「なぜでしょうか」
「後悔するということは、あの言葉を、本気でなかったと認めることに、近くなります。本気で発した言葉を、後から本気でなかったと認めることは、娘に対する裏切りになります。私は、咲希を、裏切りません」
「主尋問、以上です」
近藤先生は、一礼して、着席した。
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岡本弁護士が、静かに立ち上がった。
「反対尋問を、させていただきます」
岡本弁護士の声は、普段と変わらぬ、淡々とした落ち着きを保っていた。
「吉田さん」
岡本弁護士は、私の顔を、一度、正面から見た。
「今、主尋問で、発言の内容を、ご自身の口から、再度、発されましたね」
「はい」
「この発言を、判決より一か月前、ご自身の親しい知人に対して、ある発言をされていたことと、関連付けて伺いたいのですが、よろしいですか」
「はい」
「判決の約一か月前、ある知人のご自宅で、『あの男は、たとえ法が届かなくても、私は赦さない』と、仰ったことが、ございますね」
「はい」
「呪いの発言は、紙に書かれたものを、法廷で読み上げられましたね」
「はい」
「その紙は、いつ書かれたものですか」
「判決の、数日前です」
「数日前」
「はい」
「判決がどちらに出るかは、その時点では、まだ分からなかった」
「分かりませんでした」
「つまり、無罪判決が出た場合に、ああいう内容の発言をするつもりで、紙を用意されていた」
「はい」
岡本弁護士は、少し、間を置いた。
「有罪判決が出た場合は、どうされるつもりでしたか」
「発しませんでした」
「発しない、とは」
「有罪判決が出た場合、法が届いています。法が届いたところに、私が何かを発する必要はありません。あの言葉は、法が届かなかった場合にのみ、発するものでした」
岡本弁護士は、もう一度、間を置いた。
「『あの男は、たとえ法が届かなくても、私は赦さない』——知人への発言と、法廷での発言は、その意味で、繋がっているわけですね」
「繋がっています」
「どのように繋がっていますか」
「一か月前のあの言葉は、私の気持ちです。法廷でのあの言葉は、その気持ちが、形を見つけたものです」
「形を見つけた、とは」
「赦せない、という気持ちだけでは、何も届きません。その気持ちを、無実の人間を傷つけず、かつ、嘘をついている人間の内側にだけ届く形に、整えなければならなかった。その形を、見つけるまでに、時間がかかりました」
「……整えた、ということですね」
「整えた、というより、見つけた、という感覚です」
「その違いを、説明していただけますか」
「整えるというのは、目的があって、そこへ向かって作ることだと思います。私は、ある形を作ろうとしたのではありません。無実の人間を傷つけない、という条件を外せなかった。その条件を満たす形が、ほかになかった。だから、あの形になりました」
「無実の人間を傷つけない、という条件を、最初から持っていた」
「はい」
「それは、篠田さんが無実である可能性を、考慮していた、ということですか」
私は、少し、間を置いた。
「私の主観を、客観的に疑う必要がある、とは、分かっていました」
「その結果として、条件節を置いた」
「はい」
「条件節を置いたことで、もし篠田さんが無実であれば、あの言葉は何も引き起こさない」
「はい」
「しかし、篠田さんは精神的苦痛を受けたと主張しています」
私は、岡本弁護士の目を、まっすぐに見た。
「それが、何を意味するかは、私には、申し上げられません」
岡本弁護士は、それ以上、その点を追わなかった。
「承知しました」
短くそう告げて、次の問いに、移った。
「もう一点、別の角度から、伺います」
「はい」
「あの通路で、ご自身が発言された、その時の事を、伺いたいのですが」
「はい」
「あの発言を発されたとき、吉田さんは、心の中で、原告が嘘をついていると思っていらっしゃいましたか」
法廷の空気が、わずかに、止まった。
私は、視線を、証言台の前の、自分の手のあたりに、一度落とした。
そして、私は昨夜、仏壇の前で、咲希に告げた言葉を、思い出した。
——用意した答えを、用意した通りに発するかどうかは、まだ、分かりません。
昨夜のあの言葉の重みを、私は、今、この一瞬で、自分で確かめ直した。
顔を、上げた。
「……思っていた、と申し上げるのが、正直なところです」
岡本弁護士は、軽く、うなずいた。
「思っていらしたのですね」
「はい」
「それでは、なぜ、『嘘をついているなら』という条件節を、発言に含められたのですか。心の中で断定なさっていたのなら、断定する形で発言なさるほうが、率直であったように、思いますが」
法廷の空気が、もう一度、わずかに、止まった。
答える方向は、私の中で、はっきりしていた。
「篠田氏が嘘をついていることは、私の中で、確信していました」
「はい」
「しかし、その確信を、強制的に彼に押しつける形で発するのは、違うと感じました」
「違う、とは」
私は、少し、間を置いた。
「人の内心から真実を引き出そうとする方法は、いくつかあります」
岡本弁護士は、何も言わなかった。続きを待っていた。
「威圧的な聴取があります。拷問があります。嘘発見器があります。これらはすべて、外側から、人の内側に、力を加えようとするものです」
「……」
「外側から力を加えれば、内側にあるものが出てくるかもしれない。しかし同時に、内側にないものまで、出てきてしまうことがある。苦しければ、人は、ないことをあると言います。怖ければ、人は、やっていないことをやったと言います。機械は、小心者の心拍を、嘘と読み違えます。だから、冤罪が生まれます」
傍聴席のペンの音が、少し、速くなっていた。
「私が発したのは、そういうものとは、違います。条件節は、そのために、置きました」
「……続けてください」
「嘘をついている人間の内側には、自分が嘘をついているという事実が、あります。その事実は、本人だけが知っています。外側から力を加えなくても、すでに、そこにある。私の言葉は、その、すでにそこにあるものに、触れようとしたのです」
「……」
「触れるだけでいい。引き出そうとしなくていい。ただ、触れれば、内側にあるものは、動き始める。動き始めたものが、どこへ向かうかは、本人が決めることです。私が決めることではありません」
「条件節は、そのために、置きました。相手が誰であろうと、この形でなければなりませんでした」
私は、一度、息を整えた。
「嘘をついていない人間の内側には、私の言葉と呼応するものが、ありません。呼応するものがなければ、言葉は、触れるものを見つけられない。だから、何も起きない。冤罪は、生まれません。もし私の確信が間違っていたとしても、この言葉は、無実の人間を傷つけません。私はそのことを、確かめてから、発しました」
岡本弁護士は、しばらく、私の顔を見ていた。
それから、短く、一度、うなずいた。
「承知しました。もう一つ、伺います」
「はい」
「あの発言を発されたとき、吉田さんは、死ぬと、本当に思っていらっしゃいましたか」
法廷の空気が、また、止まった。
この問いへの答えは、すでに、自分の中にあった。
顔を、上げた。
「思っていました」
岡本弁護士は、軽く、うなずいた。
「思っていらしたのですね」
「はい」
「つまり、あなたは、条件節に当てはまった場合、篠田さんが死ぬと、確信をもって告げた」
「はい」
「死なねばならない、でもなく、死んでほしい、でもなく、死ね、でもなく、死ぬ、と」
「そうです」
答えながら、私は、岡本弁護士を見ていなかった。答えるべき相手は、今も、一人しかいない。
「それは、法が届かなかった場合に、ご自身が、篠田さんに対して、死という結果をもたらすつもりだった、ということではありませんか」
「……それは、違います」
「違いますか。死ぬと確信しながら発した言葉は、相手の死を目的とした発言と、どう違うのですか」
「私が目的としたのは、真実です。死ではありません」
「しかし結果として、あなたは、法の外で、篠田さんに対して、死を宣告した。これは、私的な制裁——死刑の宣告と、どう違うのですか」
岡本弁護士の声は、淡々としていた。淡々としていたからこそ、その一語が、法廷の空気の中に、はっきりと置かれた。
私は、答えようとした。しかし、答えが口をつく前に、隣で近藤先生が立ち上がった。
「異議あり」
近藤先生の声は、いつもの落ち着きを保っていた。
「死刑とは、国家が法の手続きを経て、確実に執行するものです。原告代理人は、被告の発言を私的な死刑宣告と性格付けておられますが、死刑宣告が成立するためには、その言葉が、確実に死をもたらす手段でなければなりません」
裁判長が、岡本弁護士に目を向けた。
「原告代理人、ご意見は」
「当方は、被告の発言が、死という結果を意図したものだったという点を、問題にしております」
「では、伺います」
近藤先生は、岡本弁護士のほうに、静かに向き直った。
「呪いに、人を殺す効力があると、原告代理人はお考えですか」
法廷が、また止まった。
近藤先生は、法廷に向けて、問いを発していた。しかし、私と篠田のあいだでは、問いは必要なかった。呪いは、法廷の言葉とは、別のところに、あった。
岡本弁護士は、一瞬だけ、間を置いた。
「呪いの効力の有無は、本件の直接の争点ではありません」
「その問いに答えていただかない限り、死刑宣告という性格付けは、成立しません」
岡本弁護士は、それ以上、応じなかった。
裁判長が、両代理人を、順に見た。
「異議については、後ほど判断します。原告代理人、続けてください」
岡本弁護士は、軽く頭を下げ、私のほうに向き直った。
「もう一つ、伺います」
「はい」
「ご自身が発された言葉と、同じ構造の発言を、別の人が、別の相手に向けて発したとしたら、吉田さんは、それを正当だと、お考えになりますか」
「別の人の発言を、私が、正当かどうか判断する立場には、ありません」
「判断する立場にない、とは」
「私が発したあの言葉の正当性は、私が、娘のために、私の責任で、引き受けています。他の人が、他の事情で、似た構造の言葉を発したときに、それが正当かどうかは、その人自身が、その人の責任で、引き受けるべきことです。」
「反対尋問、以上です」
岡本弁護士は、もう一度、私の顔を見てから、一礼し、着席した。
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再主尋問は、近藤先生から、短く行われた。
「吉田さん、一点だけ、補足で伺います」
「はい」
「先ほどの反対尋問の中で、法廷での発言と、知人への『赦さない』という発言が、繋がっている、とお答えになりました」
「はい」
「その一か月のあいだ、ご自身の中では、どのような時間でしたか」
「……娘のために発するべき言葉が、私の中で整っていく時間でした。整える、というよりは、整っていく、という感覚でした。私が能動的に整えたのではなく、娘を思っているうちに、言葉のほうが、私の中で、自然に整っていきました」
「再主尋問、以上です」
近藤先生は、一礼して、着席した。
裁判長が、補充尋問の有無を双方に確認し、どちらも「ありません」と答えた。
「被告、被告席へ、お戻りください」
私は、証言台を離れ、通路を歩いて、被告席に戻った。
被告席に腰を下ろしたとき、膝が、わずかに震えていることに、気づいた。震えは、座ってから、少しずつ、引いていった。
近藤先生が、隣で、聞こえるか聞こえないかの小さな声で、
「お疲れ様でした」
と、囁いた。
私は、うなずきだけを返した。
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短い休廷のあと、次は、原告の本人尋問に入ることになる。
休廷の十五分のあいだ、私は、法廷から出て、廊下のベンチに腰を下ろしていた。近藤先生が、飲み物のボトルを手に、そばに座ってくれた。
「よくお応えになりました」
近藤先生の声は、静かだった。
「はい」
「発言のうちのいくつかは、裁判所の判断に、一定の影響を及ぼすかもしれません。その点は、こちらで、最終準備書面の中で、補足させていただきます」
「……お願いします」
近藤先生は、少し、声を低めた。
「吉田さんは、想定外の問いに、ご自身の言葉で、応じられました。法廷の中で、裁判長と裁判官方の、耳と目に、どう映ったかは、私にも、まだ分かりません。ただ、あの判断が、吉田さんらしい応じ方であったことは、私は、今日、確かに聞きました」
私は、うなずいた。
うなずきながら、自分の目の縁が、わずかに湿っていることに、気づいた。化粧は、最小限に留めてあった。泣くつもりは、なかった。泣きはしなかった。ただ、目の縁に、薄い膜のような湿りが、一瞬だけ、現れていた。
近藤先生は、それに気づかないふりをしてくださった。
十五分が過ぎ、私たちは、再び法廷の扉をくぐった。




