法廷
第一回口頭弁論は一月の、冷え込みの厳しい朝だった。判決の日から、三か月が過ぎていた。そのあいだに、近藤先生と数度の打ち合わせを重ね、答弁書を仕上げ、裁判所へ提出した。昨日の近藤先生との打ち合わせで、今日は形式的な確認だけだと聞いていた。
裁判所の門の前に多くの報道陣が立っていた。足を止めずに、顔を隠さず、視線は合わせずに、門をくぐる。近藤先生に言われていたことだった。
廊下で、先方とすれ違った。岡本弁護士が先、その後ろに篠田。判決の日の法廷で見たときよりも、頬がこけていた。顎のあたりに、剃り残したような短い髭が、うっすらと伸びている。外にほとんど出ずに過ごしてきたであろう時間の色が、その姿の全体に、薄く積もっていた。
今日の法廷は、咲希の公判で通っていた大法廷とは、違った。民事の口頭弁論のための、ごく普通の規模の法廷だった。それでも、天井は高く、壁の木目は濃く、法廷としての格は、あの大法廷と変わらずに整っていた。傍聴席の後方の端に、坂口さんの姿があった。咲希の事件の担当刑事で、あの夜、電話で私に咲希の死を知らせた人だった。公判のあいだも、いつも同じ位置に座っていた。
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第一回は形式的な確認だけで終わった。次回期日が指定された。
近藤先生は、裁判所の裏手の通用口に、事務所の車を待たせていた。帰りの車の中で、彼女は言った。
「次回、先方は拡散の責任という争点を打ち出してきます。吉田さんが直接行ったのは通路での発言だけで、拡散は第三者の行為ではあるものの、報道関係者が傍聴していた公的な場での発言だったのだから客観的に拡散は予見できた、と先方は組み立ててくる」
「……拡散を、予見していたか」
「ご自身の中で、整理しておいてください」
少しのあいだ、車の中が静かになった。
「それから、これはまだ先の話ですが、今日のうちに頭の片隅に置いておいてください」
「はい」
「本人尋問で、岡本弁護士から必ず聞かれる問いがあります。あの発言を発した瞬間、篠田さんが嘘をついていると思っていらしたか。そして——死ぬと、本当に思っていらしたか」
私は、窓の外を見たまま、答えなかった。
近藤先生も、それ以上は言わなかった。
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家に帰り着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
玄関でコートを脱ぎ、マスクを外し、手を洗い、リビングに入り、ソファに腰を下ろした。
──死ぬと、本当に思っていたか。
その問いを、私はまだ、誰にも答えていなかった。
スマートフォンを手に取り、SNSアプリをひらいた。
@ネット民観察日記
コメント欄の空気が変わってきた 最初は遺族への同情一色だったのに提訴後は「訴えた彼も被害者では?」という声が出始めてる
@通りすがりの元検察
遺族側の「嘘をついていなければ精神的苦痛はゼロのはず」という主張が法廷で通るかどうか 通れば民事訴訟の概念を相当揺るがす 通らなければ遺族側の敗訴が濃厚 どちらにしても記憶に残る裁判になる
@sirokuma_0721
正直に言う 最初は遺族の側が完全に正しいと思ってた でも「無実の人間が二年間苦しんだ可能性」も ゼロじゃないわけで どっちの立場で考えても苦しくなってきた
@かもめ食堂
どっちが勝っても 娘さんは戻ってこないんだよな それだけがずっと頭にある
かもめ食堂、というアカウントの一行が、しばらく、頭の中に残っていた。
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第二回期日当日の裁判所の門の前には、第一回のときよりも、少し多めの報道陣が立っていた。私が近づくと、前回と同じように数人が振り向いた。マイクを向けてくる記者の声も、ほぼ同じ口ぶりだった。「吉田さん、一言」「ご心境を」——答えずに、歩くペースを変えずに、門をくぐる。手順は、前回で身体が覚えていた。
裁判官が入廷し、着席の後、手続きが始まった。
今日の主役は、相手側の準備書面だった。冒頭、岡本弁護士が立ち上がり、「準備書面、陳述します」と告げた。提出済みの書面の内容が、ここで「陳述されたもの」とみなされる。それだけで、形式上は済む。
しかし、岡本弁護士は、続けて、口頭で補足を述べはじめた。
「準備書面の要旨を、裁判所のご便宜のために、簡単に申し上げます」
裁判長は、軽くうなずいた。
岡本弁護士の口調は、淡々としていた。
「本件における第一の争点は、被告吉田直子氏の発言と、その後の拡散との関係であります」
私は、正面を向いていた。近藤先生の指示通りに、表情を変えずにいた。
「被告が直接行ったのは、判決の日に法廷の通路で言葉を発したこと——その一点であります。発言の音声が報道番組で繰り返し再生されたこと、SNSで広く拡散されたこと、これらは、それぞれが第三者の行為であります。被告が、自らの手でこれらの拡散を実行したわけではない。この点は、当方も認めるところです」
私は、岡本弁護士の声を、一言ずつ聞いていた。
「しかしながら、発言者の責任を、自らが直接関与した範囲のみに限定する考え方には、限界があります。本件の発言は、第一に、法廷という極めて公的な性格を持つ場で行われました。第二に、当該法廷には、複数の報道関係者が傍聴しておりました。第三に、被告は、被害者遺族として社会的注目を集める立場にあり、その立場からの発言が報道される蓋然性は、客観的に高い状況にありました」
岡本弁護士は、傍聴席にもわずかに聞こえる音量で、ページをめくった。
「これらの状況下で、被告は、極めて整った構造を持つ発言を行ったのであります。条件節、主体の置き換え、期限の設定——これらの構造を備えた発言が、報道関係者の前で行われたとき、その後の拡散は、客観的に予見可能でありました」
「予見可能であった以上、被告の責任は、自らが直接行った発言のみに限定されるものではない。予見可能な結果の範囲についても、発言者は一定の責任を負う——これが、当方の第一の主張であります」
法廷の空気は、静かだった。傍聴席のペンの動きが、これまでよりも、わずかに速くなっているのが、空気の質感から伝わった。
「以上の事由により、我々は、本件発言と、その後の拡散による原告の名誉毀損および精神的苦痛との間に、法的な相当因果関係が成立すると主張いたします。詳細は準備書面に記載の通りです」
岡本弁護士は、軽く一礼して、着席した。
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私の隣で、近藤先生が立ち上がった。
「被告側、一言だけ、申し上げます」
裁判長が、うなずいた。
「原告側の主張については、こちらとしても反論の余地があると考えております。特に、客観的予見可能性を、判決直後の通路という極限的な状況下に一律に適用することの妥当性、また、発言の構造の整い方をもって予見可能性を推認するとの点——いずれも、次回以降の準備書面で、詳細に論じさせていただきたく存じます」
「承知しました」
裁判長が、書類を整えた。
「では、次回期日を定めます」
第三回期日は、三週間後の、同じ時間に指定された。双方の代理人が、手帳に記入する。閉廷が告げられた。
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家に帰り、コートを脱ぎ、手を洗い、台所に立った。
湯を沸かす。茶葉の缶を取り、急須を温める。急須に茶葉を入れ、湯を注ぎ、少し待つ。供える湯呑みに注ぎ、仏壇の前へ運んだ。
帰り際に近藤先生に言われた事を思い出していた。
「法律の言葉は、人の動きを切り取るための、一つの道具に過ぎません。切り取られた形が、本当の気持ちと一致しない部分があったら、ご自身の中の輪郭を、その形に合わせて変えていただく必要は、ありません」
法律の言葉に、自分の輪郭を合わせない。輪郭を、自分の中で、自分のまま保つ。それが、これからの公判のあいだ、私が自分に対して守らなければならない、一つの姿勢になるのだろう、と思った。




