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罪の時  作者: kkeman
4/10

刑事

 自分は、朝七時に署へ着く。二十八年、判で押したようにそうしてきた。


 机の引き出しの一番下に、紙のファイルが一つ、仕舞ってある。事件のコピーの束だった。規則の上で褒められることではない。それでも自分は、この束を、毎朝三十分ほど、めくり直している。彼女のあの発言の後は、SNSのチェックもルーティンに加わっていた。


 @tanuki_soba

え、逆に訴えたの?無罪になった側が遺族を?


 @asagaoyuki831

ちょっと待って状況整理して 遺族が呪いをかけた→無罪の男が遺族を名誉毀損で訴えた←いまここ ってこと?


 @かすみ草

訴えた瞬間に「精神的苦痛を受けた」と認めてるわけじゃん 「嘘をついているなら」って条件付きの言葉で苦しんでる ということは…


 @れもんさわー

そこに全員気づいてると思う


 @かすみ草

本人は気づいてないのかな


 @れもんさわー

気づいてるから訴えたんじゃないかな 苦しいから何か動かしたかったんでしょ


 @まじめに考える人

訴訟戦略としては理解できる 発言の撤回を公的に求めることで「あれは法的に問題のある発言だった」という形にしたい 呪いを法的に解除しようとしてる


 @おばちゃん的感想

遺族のお母さんは撤回しないって言ってるらしい そうよね 撤回したら全部嘘になってしまう


 @法クラ垢(弁護士)

民事としては筋は通っている 慰謝料請求と発言の撤回。問題は「精神的苦痛の立証」と「拡散の責任の帰属」あたりが争点になるかと


 @psy_watch_jp

「精神的苦痛を与えられた」として提訴したということは、あの呪いが効いているということを自分で証明しようとしているわけで これ詰んでない?


 自分は、二年間、篠田に向かい合い続けた。任意同行から始まり、逮捕後の勾留期間、取調室で自白を引き出そうとした。篠田は崩れなかった。表情を変えず、同じ言葉を繰り返した。俺は、やっていない。その一言を、自分は何度聞いただろう。


 篠田がやった。そのことは、ほぼ確信している。九十七か九十八のあたりまで、自分の中で針は振れていた。


 問題は、九十七や九十八では、法廷で勝てないことだった。


 凶器は見つからなかった。指紋も検出されなかった。防犯カメラの映像は体格が一致するが顔の同一性が確定できない。目撃証言は夜の暗い路地、十数メートル越しのものだった。


 それでも、起訴に踏み切るべきだと判断された根拠は、一つあった。


 篠田のスマートフォンが、事件当夜、現場近くの基地局に接続していた記録が、残っていた。接続時刻は、被害者の推定死亡時刻と重なっていた。自宅アパートからその基地局まで、徒歩で二十五分の距離がある。篠田の「自宅で一人で飲んでいた、外出はしていない」とは、整合しない。


 しかし、基地局の記録は「その範囲にいた可能性」を示すだけで、現場にいたことの確定的な証拠にはならなかった。弁護側はそこを丁寧に突いた。動機と機会の推認に、基地局記録を加えても、合理的な疑いを超えるには、まだ足りなかった。


 裁判官と裁判員たちは、丁寧に合理的な疑いを拾い、無罪の側に振れた。法的には、正しい判断だったのだろう、と思う。法的には。


-----


 判決の日、自分は傍聴席の後方の端にいた。


 彼女が通路に出ていくのを、自分は止めに行かなかった。ただ、何か言うつもりでいるのだろうとは、思った。思って、止めなかった。


 あの言葉を、彼女が発した瞬間。


 自分の膝の上に置いた両手が、勝手に握り締められているのに気づいた。あの言葉を耳にした瞬間、自分の中のどこかが「それでいい」と小さく返事をしたのが、自分でも分かったからだった。


 刑事が、そんなことを思ってはいけない——と、同時に、刑事の顔の裏で別の声が聞こえていた。


 *


 ドアチャイムの音に、俺は布団の中で身体を硬くしていた。チャイムは、再び鳴った。続けて、三度目の音が響く。三度目のところで、ようやく身体が動いた。玄関に立ち、覗き窓に目を寄せた。

 

 そこに立っていたのは、母だった。脇に中型のスーツケースを置き、片手にはスーパーのビニール袋を提げている。鍵を開け、ドアを引いた。


 「……母さん」

 

 母は、俺の顔を一度見てから、長く息を吐き出した。それから、スーパーの袋を、そっと差し出してきた。


 「とりあえず、これだけ、冷蔵庫に入れさせてもらうよ」

 

 無理に明るくもなく、無理に低くもない、平らな口調だった。

 

 俺は一歩下がって、道を譲った。母はスーツケースと袋を抱えたまま、玄関に入ってくる。靴を揃えて脱ぎ、部屋の奥へ進みながら、蛍光灯の下に澱んだ空気を、目で一度だけ確かめたようだった。それ以上は何も言わず、台所のほうへ足を向けた。

 

 冷蔵庫の扉が開き、袋の中身が一つずつ仕舞われていく。俺は、まだ玄関先に立ちすくんでいた。


 「昌樹、ちょっと、こっちに座って」

 

 台所から、母の声が飛んできた。のろのろと足を運び、テーブルの椅子に腰を下ろす。母は急須からお茶を注ぎ、湯呑みを俺の前へ置いた。

 

 「ご飯、ちゃんと食べてないでしょう」

 

 責めも、嘆きもしない、平らな口調だった。

 

 「……あんまり」

 

 自分の分の湯呑みにも茶を注ぎ、母は向かいに腰を下ろした。しばらくのあいだ、どちらも口を開かなかった。

 

 「泊まっていく」

 

 先に沈黙を破ったのは、母のほうだった。

 

 「二晩だけ、いさせて」

 

 「……いいけど」

 

 母は両手で湯呑みを包み込み、ほんの少しのあいだ、目を閉じていた。

 

 「お父さんも、心配してる」

 

 目を開けて、母はそう続けた。


  「……うん」

 

 俺は、それだけを小さく返した。

 

 母はうなずき、もう一度、湯呑みに口をつけた。


-----

 

 夜、母は、敷きっぱなしになっていた俺の布団の脇に、自分の寝床を設えた。布団はもともと一組しかない。母はスーツケースから薄い寝袋のようなものを取り出し、それを床に広げて、そこで眠るつもりらしかった。

 

 やがて、母の寝息が聞こえ始めた。

 

 俺は、天井を見ていた。

 

 母は、俺が拘置所にいる間も、この部屋の家賃を払い続け、月に一度、実家から出てきて、この部屋に泊まり、掃除をして帰る、という事を続けていた。俺は、部屋を引き払うよう頼んだが、母はそうしなかった。

 

 俺が部屋に戻ってからも、母は毎日、電話をかけてきた。その事が、俺の僅かな正気を保たせている。でも、それが、あの呪いの言葉の強度を静かに増していくようでもあった。


 母の穏やかで深い呼吸の間隔は、子どもの頃に実家で聞いていたものと、変わっていなかった。





 

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