通告書
判決から二週間が過ぎた日の朝、私はスーパーへ買い物に出ることにした。
マスクをつけ、帽子をかぶる。顔を隠す意図があったかどうか、自分でもはっきりしない。判決のあと、外へ出るときは、気づけば自然とそうするようになっていた。
玄関を出ると、冷えた空気が首元に流れ込んできた。秋のなかばを過ぎた朝で、近所のどこかの庭では、もう霜を見たかもしれない——そう思わせる冷たさが、首筋のあたりに触れた。一歩ごとに、息が白く散っていった。
最初の交差点で、信号待ちになった。
向かい側の歩道に、小学校の低学年くらいの子どもを連れた母親が二人、立ち話をしている。こちらに気づいている様子はない。信号が青に変わり、私が歩き始めると、二人も会話を続けながら、こちらへ向かって歩き出した。
横断歩道の中央で、すれ違おうとした、その直前——一人の母親が、子どもの手をそっと引き寄せた。
私に気づいたのだ、と、すぐに察した。
私の顔を知っていたのか、それとも、マスクと帽子の組み合わせから何かを連想しただけなのか、そこまでは、わからない。ただ、子どもの手を引く仕草だけは、明らかに反射的なものに見えた。もう一人の母親も、一瞬だけこちらへ視線を寄こした。目の中に、何かを恐れる色が滲んでいた。
胸の奥のほうで、小さく何かが縮んだ。それが何か捉えられないまま、縮んだという感覚だけが、しばらく残った。
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平日の午前中で、店内は空いていた。カートを取り、必要なものを、一つ一つ、ほとんど機械的にカートへ入れていった。
レジの店員は、顔に見覚えのある三十代くらいの女性だった。
その店員が、私の顔を、少し長く見た。
ほんの数秒のことだった。商品をスキャナーに通す手は止まらなかったけれど、視線だけが、私の顔の上でわずかに遅れた。あまりに短い遅れだったので、気のせいかもしれないとも思えた。気のせいかもしれないと思いながら、その遅れは確かに感じていた。
私は頭を下げ、店を出た。自動ドアの前で一度、振り返りたい衝動に駆られる。店員がこちらの後ろ姿を見ているかどうか、確かめたかった。それでも振り返らず、そのまま歩き出した。
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帰り道、スーパーの駐車場を通り抜けるところで、一人の女性から声をかけられた。
四十代くらいの、近所で見かけない顔だった。化粧は薄く、髪を明るめに染めている。
「あの」
呼び止められ、足を止めた。
「違ったらすみません。もしかして、あの、ニュースの」
女性は、その先を言わずに止めた。何を指しているかは、聞き返すまでもない。わかってしまうのだと、わかった瞬間に、自分でも意識した。
肯定も否定もせず、「そうですか」と、無意味な言葉を小さく返した。
女性の顔に、少し安心したような色が浮かんだ。
「応援してます」
そう、短く告げてきた。
「あれは、正しいことだと思います。五年以内、きっとそうなると、思っています」
声には、確信があった。怒りでも、憎しみでもない。ただ、自分の言っていることを正しいと信じている人間の、落ち着いた確信の声だった。
私は、何も返せなかった。返すべき言葉が浮かばず、口を開けば、この人のほうがもっと踏み込んできそうな気もしたからだった。
沈黙していると、女性は一度だけ深く頭を下げ、
「がんばってください」
と言い残し、駐車場の奥へ歩き去っていった。
買い物袋を両手に提げたまま、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
がんばってください——その一言が、耳の奥で何度か繰り返された。
何をがんばるというのか、私にはわからなかった。やるべきことは、もう済ませてある。あとは、静かに待つ——それだけのはずだった。
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夕方、スマートフォンを開いた。
ニュースサイトを開くと、判決後の報道はまだ続いている。「遺族、法廷で『呪い』を宣告」「条件付きの死の予告、論理か、呪詛か」「専門家が語る、その法的境界」——いくつもの見出しが並び、それぞれの下に短い要約と、筆者の名が添えられていた。
記事の中に、私の名前は出ていない。顔写真もなかった。それでも、私が特定されているのは、はっきりしていた。SNSには、私の自宅の近所の様子を撮って投稿している人がおり、「このあたりらしい」という短い一文が添えられている。
さほど驚きはしなかった。驚くより先に、別のことが頭に浮かんでいた。
私の住む場所が特定されているのなら、あの男の家も、もう特定されているのだろう。顔写真も、おそらく広まっている。勤務先、家族、過去——全部が引き出され、どこかに並べられているのだろう。
篠田は今、自分の部屋で、何を見ているだろう。
そう想像しかけて、私は想像を止めた。
それは今の私がやるべきことではなかった。
私がやるべきことは、ただ一つ、呪いを維持することだった。
*
眠れない、音はない、耳が詰まっているような感覚、天井が見えるが、視界は灰色、シャツがはだけて腹が出ている
腹から何か黒い糸みたいなものが出ている
引っ張ってみる、ずるずると、どこまでも出てくる、それが、うにゃうにゃと蠢きだした
次の瞬間、腹から何百もの黒いミミズのような蟲が一斉に湧き出てきた
俺はぐっしょりと汗だくで、目覚めた。シャツが背中に張り付いている。
しばらく、呆然として動けなかった。
部屋には、澱んだ思念がこもっていた。
本来なら、自由の身のはずだった。それなのに、外へ出れば、近所の誰かが俺の顔を知っている。スマートフォンで撮る者もいる。どこかの記者が見つけてくるかもしれない。
部屋の中だろうが、外へ出ようが、あの女の言葉が、同じ声で、何度も繰り返し再生される。
無罪だった。
無罪だったはずだ。
判決の日の後、弁護士の岡本先生から言われていた事を思い出した。
*
白い事務封筒が届いた。差出人の欄に、法律事務所の名前。岡本——判決の日、被告人の後ろに座っていた、あの弁護士の名前だった。
茶を淹れ、仏壇に供えてから、私はハサミを取った。
——貴殿は、本年十月二十日、刑事裁判における無罪判決の直後、法廷内において通知人に対し、「嘘をついているなら五年以内に死ぬ」旨の発言を行いました。当該発言は、その後、法廷内のやりとりを再現した報道や、流出した音声を通じて広く流布し、通知人の社会的評価を著しく毀損するとともに、通知人に重大な精神的苦痛を与え続けております。
——当該発言は、刑事裁判で無罪判決を受けた通知人に対して行われたものであり、かつ、通知人を「嘘をついている者」として公に名指しする内容でもあって、名誉毀損、侮辱、並びに精神的苦痛を与える不法行為として、民事訴訟の対象となるに十分なものと判断いたします。
——つきましては、貴殿におかれましては、当該発言を公に撤回されますよう、本書面をもってご通知申し上げます。あわせて、これまでに通知人が被った精神的苦痛に対する慰謝料として、金三百万円のお支払いを請求いたします。
——本書面到達後、二週間以内に、上記の撤回および慰謝料の支払いに関するご回答をいただけない場合、通知人の代理人として、やむを得ず、民事訴訟の提起を含む法的手段を検討せざるを得ないことを、ご承知おきください。
数日前に、近藤先生から、これらの事が想定される旨の連絡があり、覚悟はしていた。
それなのに、指先が冷たくなっていた。指の芯まで冷えている。もう片方の手で包み込むように握ると、冷たさが少しずつ薄らいでいった。
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翌日、近藤先生の事務所を訪ねた。
「対応は大きく分けて、三つあります。一つめは撤回と謝罪に応じること。二つめは無視すること。三つめは期限内に撤回も謝罪も拒否することを正式に回答する」
「……撤回は、しません」
私の声は、思ったより静かに出た。
「慰謝料の支払いは」
「払います。慰謝料のために撤回する選択は、しません」
近藤弁護士はしばらく口を閉じていた。
「なぜ、撤回できないんですか」
「あの言葉は、本気でした。本気で発したものを今になって取り消すことはできません」
「……吉田さん」
近藤先生の声が、一段、低く沈んだ。
「訴訟になった場合、私にはあなたを守りきる自信が、正直なところ、ありません」
私は近藤先生の目を、まっすぐに見た。
「そのときは、そのときで、また考えます」
*
通告書が送られてから二週間ほど経った頃、回答書が届いた、との連絡を受け、俺は岡本先生の事務所を訪ねた。
「提訴すれば、あれは、解けますか」
問いが口から出た直後、俺は自分の失言に気づいた。
岡本先生は少しのあいだ、口を閉じた。
「呪いという言葉を、私は裁判の場では使いません。訴訟の目的は発言の撤回と慰謝料の獲得です。それで、篠田さんのお気持ちが楽になるかどうかは、私からは申し上げられません」
「……提訴、します」
「本当に、よろしいですか」
「はい」
事務所を出て、駅の反対側の小さな公園のベンチに腰を下ろした。平日の午後で、人はほとんどいない。大きく息を吸い込むと、空気が、肺のすみずみまでしみ渡っていった。こういう空気を、俺はこの一か月、ほとんど吸っていなかった。




