波
判決の夜から、波は三つに分かれて押し寄せた。
最初は報道だった。法廷画と音声が二日もせずテレビへ流れ、SNSで拡散した。
次は手紙だった。三日目から見知らぬ差出人の封筒が届き始めた。厚いものは長い応援か長い批判。薄いものは短い励ましか短い呪詛。「お前は殺人犯と同じだ」という一行だけの封筒も来た。黙って同じ引き出しに重ねた。十日で、その引き出しが閉まらなくなった。
三つ目は電話だった。固定電話には取材の申し込み、スマートフォンには見知らぬ番号。着信拒否の設定を追加しているうちに気が遠くなって、半ばで止めた。
そのあいだ、私は仏壇の茶を替え、食事を作り、掃除機をかけるという日課だけが、変わらなかった。
近所の調剤薬局に勤めていたが、判決の翌週から休ませてもらっていた。咲希の父親とは、彼女が幼い頃に別れ、それからは、薬局の給料と、細々とした貯金で暮らしている。それとは別に、咲希の将来の為にこつこつとしていた貯金はそのままあった。
遺影の咲希は、今朝もいつもの笑顔で私を迎えた。海を背景に髪をなびかせて笑っているその写真は、葬儀の際に、咲希の親友が選んでくれたものだった。
警察からの電話が鳴ったのは、土曜日の午後のことだった。二年ほど前のあの日、私は居間で洗濯物を畳んでいた。
「中央署の、坂口と申します。吉田さんのお宅でしょうか」
その先のことは、細かく思い出さないようにしている。
公判の中で語られたことは、数多くあった。咲希が二十五歳だったこと、事件の一ヶ月前まで篠田と交際していたこと、別れを切り出したあと篠田からの連絡が執拗になったこと、咲希が相談窓口に行くかどうか迷っていたこと、私が「行くだけ行ったほうがいい」と勧めたこと、咲希が「もう少し様子を見る」と答えたこと、その「もう少し」が終わらないうちに咲希が亡くなったこと——そうした一つ一つを、公判のたびに幾度も繰り返し語られるのを、私は傍聴席で聞き続けた。
繰り返されることが、咲希の死を明らかにしていく作業だとは、どうしても思えなかった。むしろ、娘の死を別の何かへ変換していく作業のように感じられた。法的に扱える形に。立証できる形に。そして、立証できなかったものは、一つまた一つと、削り落とされていった。
立証できなかったもののなかに、私の確信があった。
篠田が、娘を殺した——そのことを、私は知っていた。
知っていた、という言い方が正確なのかどうかは、わからない。法廷では、確信は証拠にならない。それでも、娘の母親として私が抱え込んできたものは、確かにあった。咲希があの男をどれほど恐れていたか。相談窓口に行くことを、どれほど迷い続けていたか。電話をかけてきた咲希が、何を話し、どんな声で話したか——声の震えの質までも、私は覚えていた。
震えは、物証にはならなかった。
公判のあいだ、私は遺族として法廷に参加し、何度か証言台にも立った。私についてくれた弁護士が、事前に陳述の形を一緒に組み立ててくれた。近藤先生という、四十代の女性の弁護士だった。あの人の手を借りなければ、私はあの法廷で、ほとんど何も言えなかったかもしれない。
判決の二週間ほど前、近藤先生は、最後の打ち合わせの際に、私に向けて、一つの説明を加えてくださった。一事不再理、という言葉だった。一度、無罪の判決が確定した事件は、たとえ後になって本人が告白したとしても、新たな証拠が出てきたとしても、同じ事実については、もう二度と起訴することはできない。日本の刑事制度の、最も重い原則の一つです——近藤先生は、そう告げ、続けて、判決後の警察の動きについても、率直に語ってくださった。再捜査も、組織としては、ほとんど行われない。検察も同じ、と。
あの男に無罪判決が出てしまえば、法は、もう二度とあの男を裁かない。頭では、分かった。分かりながら、身体のほうが、それを受け入れる時間を、必要としていた。
判決文の言葉は、法的には正しいのだろうと思う。法的には。しかし、法的に正しいことと、事実として正しいことは、同じではない。その違いを、私は公判のあいだに幾度も確かめた。確かめた違いを、法廷の中では受け入れることができなかった。受け入れきれなかったことの帰結として、あの通路が、あった。
*
カーテンは閉めたままで、蛍光灯は一日じゅう点けっぱなしだった。コンビニで買い込んだ食料が半分ほど残っている。俺は判決から一週間、部屋から一歩も出ていなかった。
事件の捜査が始まって間もなく、会社には辞表を出していた。正確には、出さざるを得なかった。貯金は、この二年で半分以下になり、実家からの仕送りが、残りを支えていた。
あの女の言葉が、頭から離れなかった。
——あなたが、あなた自身にかける呪いです。
ここ数日、夜の深い時刻になっても、眠れなくなっていた。
眠ろうとすれば、あの女の声が頭の中で再生される。再生されれば、意識が鮮明になる。鮮明になれば、眠れない。眠れないまま時間が過ぎていくうちに、身体は疲れているのに、頭だけがどこまでも冴えていった。
スマートフォンを手に取り、SNSアプリをひらいた。
@みかん
音声聞いた 声が全然震えてない あの静けさが逆に怖い でもなんか 泣いた
@れもんさわー
「嘘をついていなければ何も起こらない」って部分が頭いいよな 無実なら痛くも痒くもない呪いなわけだから でも有罪なら…という
@higashino_watch
これをスカッととか言ってる人たち正気?他人の死を願うことがエンタメになってるの普通に終わってる
@かもめ食堂
娘さんを殺されたお母さんが二年間どんな気持ちで過ごしてきたか そっちを想像してほしい
@sirokuma_0721
RTされてきた音声聞いた 「あなたの潜在意識は、あなた自身の嘘を知っている」のところ 頭から離れない 夜眠れるかな
@パインヘッド
小さな嘘だと、おそらく呪いの効果はない
殺人級の嘘を抱えていたら、作用する
俺は、やってない。
声に出してみた。部屋の中で、自分の声を、自分で聞いた。もう一度繰り返した。二度目のほうが、わずかに強く響いた。三度目を言おうとして、やめた。三度目は、自分の声ではないような気がしたからだった。




