判決
主文が読み上げられた瞬間、私は身じろぎもしなかった。
被告人を無罪とする。
その一文が落ちて、法廷の空気が、薄く揺れた。傍聴席のどこかで息を呑む音が漏れ、すぐにまた静まる。裁判官の声は区切りを置かずに判決理由の要旨に移っていた。検察官の提出した証拠は、被告人が本件犯行に及んだことを合理的な疑いを超えて立証するに足りない。動機と機会については一定の推認が成り立つものの、これらを犯行と直接結びつける物証は十分でなく、アリバイに関する被告人の供述についても、全面的な虚偽を認定するまでの事情は認められない——よって主文のとおり判決する。
私はその声を、被告人席に座る篠田昌樹という男の、後頭部だけを見ながら聞いていた。
彼はうなだれていた。判決が読み上げられる前から、そうしていた。無罪の一言を聞いた後も、その姿勢に変化はなかった。肩が一瞬、震えたように見えたが、泣いたのか、息を吐いたのか、この位置からは判じられない。弁護士が何か囁き、篠田はゆっくり顔を上げた。横顔がわずかに覗く。そこには、何の色も浮かんでいなかった。
閉廷が告げられた。
裁判官たちが立ち上がり、法服の黒が机の向こうで揺れる。傍聴席のあたりから、息を吹き返したような衣擦れが戻ってきた。篠田は弁護士に促されて腰を上げ、退廷口のほうへ向き直った。
私も、立ち上がった。
傍聴席の柵を抜け、中央通路に踏み出す。靴音が石の床に一歩ずつ響いた。それが自分の足音だと気づくまでに、わずかな遅れがあった。数歩進んで、篠田と弁護士の前に立った。
私より先に、周囲が止まった。弁護士が何か言いかけて、声にならなかった。篠田の視線が、弁護士を経由して、こちらに届く。法廷の奥のほうで、裁判官たちがまだ退出せず、立ち止まっているようだった。横手のどこかで、廷吏の靴が一歩だけ鳴り、そこで止まった。
遺族が、判決直後の通路に立ち、被告人の前に立ちはだかっている。廷吏はどう動くべきか測りかねているのだろうと、私は思った。引き剥がすだけの理由は、まだ誰にも見えていないはずだった。
篠田と視線が合った。
数秒だったのか、一秒にも満たなかったのか、判然としない。時間の感覚が、その一瞬だけ引き延ばされていた。彼の瞳の奥を、私は見た。そこに何があったかは、後になっても、うまく言葉にできない。恐怖のようなもの。困惑のようなもの。それから、かたちを持たない薄い膜のようなもの。
彼が、先に口を開いた。
「……何ですか」
声は小さかった。震えてはいなかった。無罪判決を受けた直後の人間にしては、落ち着きすぎているとも、まだ何も整理できていないとも、どちらにも聞こえた。
その問いを受けて、私は胸ポケットから紙を取り出した。
四つに折り畳まれた白い紙だった。今朝、家を出る前にもう一度読み返して、折り直し、そこに入れた。開くときの音が、法廷の中で妙に大きく聞こえた。紙を広げ、視線を落とす。文字はすべて頭に入っている。見る必要はなかった。それでも、紙を手にしていなければならなかった。
弁護士が、何かを言いかけ、止めた。抗議の言葉が喉のあたりで引き返したように見えた。傍聴席に入っている記者や、鉛筆を止めたであろう法廷画家の視線を、職業的な反射で測ったのだろう。被害者の遺族を強引に押しのける姿が、誰かの筆にも、誰かの記事にも残る——それが彼の判断に、数秒分の迷いを差し込んだ。その沈黙が、私に数十秒の時間を与えた。
紙から、視線を上げる。
「遺族として、一言だけ、お伝えしたいことがあります」
声は、自分でも驚くほど静かだった。震えも、張り詰めた強張りもない。ただ、明瞭に、届くべき距離まで届く声だった。
裁判長が何か発しかけた。しかし、その一音は、私の次の一文に、わずかに遅れた。
「あなたがもし嘘をついているなら、あなたは五年以内に死にます」
法廷の空気が、変わった。
誰も動かない。誰も声を上げない。ただ、何かが変質した。傍聴席のほうで動きかけていた気配が、そこで止まった。廷吏も、さっきの位置から一歩も動かない。
私は紙を読み続けた。読む必要はなかったが、紙に目を落としていることが、声に一定の平静を与えていた。
「それは必ず、そうなります。それは、私があなたにかける呪いではありません。あなたが、あなた自身にかける呪いです」
篠田は、まだ私から視線を逸らせないでいた。
「あなたがもし嘘をついているなら、あなただけが、それを知っています。あなたがどれほど周囲に嘘を貫き通しても、あなた自身は、自分が嘘をついていることを知っている。その事実から、あなたは逃れられない」
一度、浅く息を吸う。
「あなたが、呪いなどない、迷信だ、気にする必要はない、と頭でどれほど振り払おうとしても、それはあなたの自我という意識に過ぎません。あなたの潜在意識は、あなた自身の嘘を知っている。潜在意識を、自我の言葉で欺くことはできない。あなたが、あなたを、殺します」
篠田の唇が、わずかに動いた。何かを言いかけて、音になる前に引き戻されたように見えた。
「あなたは、気に病むかもしれない。眠れなくなるかもしれない。体を壊すかもしれない。判断が鈍って、事故に遭うかもしれない。あるいは、それらが少しずつ重なり合い、五年のうちに、あなたは死に至る。どのような形になるかは、私にもわかりません。ただ、そうなります」
紙から、完全に視線を上げた。
「もちろん、あなたが嘘をついていなければ、何も起こりません。呪いは発動しません。あなたは、これまで通りの人生を続けられます」
そこで初めて、私は裁判長のほうへ顔を向けた。
裁判長の顔には、止めるべきだという色と、止める根拠を探している色と、止めたくないという色が、同時に浮かんでいるように見えた。裁判官という職業に長く就いた人の顔だった。私はその顔に向かって、続きを発した。
「他人に精神的苦痛を与える言動は、罪に問われることがあります。それは存じています」
裁判長の眉が、わずかに動く。
「しかし、この方が嘘をついていなければ、私の言葉は精神的苦痛を一切もたらしません。なぜなら、この呪いは、嘘をついている場合にのみ発動するものだからです。そして今、この法廷で、この方は無罪と判断されました。嘘をついていない、という判断が、たった今、下されたはずです」
一度、言葉を切った。
「であれば、私の言葉が与える精神的苦痛は、ゼロのはずです」
法廷は、完全に静まっていた。
判決直後の静けさとは、質が違っていた。あの静けさには、まだ次の動きの予兆が含まれていた。人が立ち上がる、荷物をまとめる、隣の者と囁き合う、そうした予兆が、空気の中に薄く織り込まれていた。しかし今、この瞬間の静けさには、予兆が一切ない。時間そのものが、この法廷の上だけで停止しているようだった。
私は紙を折り直した。
四つに折り、胸ポケットに戻す。布地が、紙の角でわずかに盛り上がった。その盛り上がりを、指先で一度だけ確かめた。
それから、篠田のほうへ、もう一度視線を向けた。
彼は、まだこちらを見ていた。いや、本当に見ているのかどうかも、もうわからなかった。視線はこちらに向けられていたが、焦点がどこにあるのかは、判別がつかなかった。彼は数秒前まで、無罪判決を受けた人間だった。今、彼が何であるのかは、本人にも、私にも、まだ知れないのだろう。
軽く、頭を下げた。
誰に向けた動作だったのか、自分でも定かではなかった。裁判長にかもしれない。篠田にかもしれない。あるいは法廷全体に向けて、発話の終わりを示すための、形式的な所作だったのかもしれない。
そして私は、通路を戻って、自分の席に腰を下ろした。
椅子が、小さく軋んだ。
その音が、停止していた時間を、わずかに動かした。視界の端で、弁護士が篠田に何か囁き、退廷口のほうへ、ゆっくり歩き始めた。一歩、二歩、三歩。歩きながら、篠田は一度だけ振り返った。私を見た。私も見返した。彼はすぐに視線を戻し、退廷口の向こうへ消えていった。
裁判長が、小さく咳払いをした。
閉廷後の手続きが、何事もなかったように再開された。裁判官たちが退出し、書類を扱う乾いた音が、淡々と続く。傍聴席の人々が、ようやく腰を上げ始めた。席を立つ者が私の横を通るとき、一度だけこちらへ視線を向けるのを、気配で感じた──見てはいけないものを見るように、あるいは、見るべきものを見るように。
しばらく、そのまま座っていた。
ポケットの中の紙の角が、シャツの布越しに、胸のあたりを軽く押していた。それが、今日という日に、自分が持ってきた唯一の重さなのだと、ゆっくり理解していった。
法廷の扉が開け放たれ、廊下の照明が流れ込んできた。廊下の光は、法廷の光よりも、わずかに冷たい白さを含んでいた。
腰を上げる。
家に帰らなければならなかった。
仏壇に──娘に、報告をしなければならなかった。
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その夜、夕飯の支度をしながら、つけっぱなしにしていた居間のテレビから、聞き覚えのあるニュース番組の音が流れ、不意にそれが自分に関する話題に切り替わったのがわかった。包丁を置き、手を拭いて、居間に戻った。画面には、法服を身に纏った裁判官と、退廷口のほうを振り返る被告人、そして中央通路に、一枚の紙を手にして立つ女の姿が描かれていた。
判決公判の傍聴席には、複数の報道機関から派遣された法廷画家が入っていた。彼らは閉廷直前まで、被告人と裁判官の輪郭を、鉛筆で紙に写し取っていたのだろう。そこへ、予定にない一幕が加わった。通路に出ていった私の姿を、描き手たちはとっさに素描した。
顔は正面からではなく、斜めの角度で描かれ、目のあたりには影が置かれていた。表情までは判じられない。ただ紙を持つその手と、まっすぐに立つその姿だけが、画面の中央を占めていた。
絵と共に報じられたのは、私の発した言葉そのものだった。
傍聴していた記者たちのメモを突き合わせて再構成された一文が、画面に大きく表示された。
——あなたがもし嘘をついているなら、あなたは五年以内に死にます。
アナウンサーが、その一文を読み上げた。声は抑えられていた。それでも、その一文は、スタジオの空気をはっきりと変えたようだった。画面はスタジオに切り替わり、コメンテーターたちが言葉を選びながら、何かを言いかけ、途中で止める場面が続いた。
私はリモコンでテレビを消した。
台所に戻り、包丁を拾い、野菜を切り続けた。手は、ほとんど震えていなかった。
その夜のうちに、同じ一文のスクリーンショットが、SNSに流れ始めた。知人の一人から夜遅くにメッセージが届き、その事を知った。最初は、ワイドショーの画面を切り取った一枚だけだったという。やがて誰かが、発言の全文——条件節も、潜在意識も、精神的苦痛に関する裁判長への問いかけも含めた、全文——を、ひとつのテキスト画像に整え直した。その画像が、一晩のうちに、何万回も転載された。
翌朝、もう一つの波が来ていた。
朝、台所でお茶を淹れているときに、居間のテレビからまた自分に関する話題が流れてきた。画面に切り替わったのは、昨夜のワイドショーで見たのと同じ法廷画だった。しかし今朝のニュースは、そこに新しいものを重ねていた。三十秒ほどの、音声ファイルだという。誰かのスマートフォンか、あるいはICレコーダーか、そういうものが、閉廷直後の法廷のどこかで録音していたらしい。電源が入ったまま鞄の中に紛れていたのか、意図的に仕込まれていたのか、経路は特定されていないと、アナウンサーは伝えていた。
音声が、画面から流れた。
音質は悪かった。
それでも、自分の声は、確かに聞き取れた。
——あなたがもし嘘をついているなら、あなたは五年以内に死にます。
その一文だけが、妙にはっきりと録音されていた。
私は、居間の入口に立ったまま、画面を見ていた。
しばらくして、台所に戻った。湯呑みを、仏壇の前に供え、咲希に手を合わせた。それから自分の湯呑みにも茶を入れた。
台所の窓から、朝の光が差していた。よく晴れた朝だった。




