赦さない
第二回期日が終わって、数日が経っていた。
裁判は、続いていた。書面が行き来し、岡本先生が法廷で何かを述べ、相手方の弁護士が何かを述べる。俺は、その度、岡本先生の隣に座り、正面を向く。法廷の外では、報道が少しずつ形を変えていた。最初は圧倒的に相手側への同情だった声が、揺らぎを帯び始めていた。
アパートの部屋は、相変わらずだった。カーテンは閉めたままで、蛍光灯は一日じゅう点けっぱなし。カップ麺の残りが、棚に並んでいる。母が来てくれたときに買い置いてくれたものだった。
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その夜、俺は夢を見た。
久しぶりに、夢と呼べる夢だった。夢の中で、俺は誰かと話している。相手の顔は、はっきりしない。ただ、俺が何かを答えている、という構図だけが、そこにあった。答えているのは、ずっと同じ言葉だった。
——俺は、やってない。
繰り返し、繰り返し、俺は答えていた。相手は、答えの一つ一つに、小さくうなずく。うなずきながら、少しずつ、こちらから遠ざかっていった。
遠ざかっていく相手の背中が、一瞬、見覚えのある形に見えた。
誰の背中だったのかは、目が覚めてから、どうしても思い出せなかった。
母の背中のようでもあった。
岡本先生の背中のようでもあった。
もっと別の誰かの背中のようでもあった。
あるいは、誰の背中でもなかったかもしれない。
目が覚めたとき、時計は、午前三時を少し回っていた。
カーテンの外は、真っ暗だった。暖房の音だけが、低く、一定の調子で、部屋に響いていた。
——俺は、やってない。
夢の中で繰り返していたその言葉を、暗闇の中で、声に出して言ってみた。
囁いた声が、部屋の空気に吸い込まれる。吸い込まれて消えた後、俺は、妙な感覚に気づいた。
自分の声が、自分の声として、響かない。
もう一度、言ってみる。
——俺は、やってない。
二度目も、同じだった。
三度目を言って、もし、同じ感覚が続いたら——そのあとに待っているものは何か。
布団の中で、身体を丸めた。
暖房の低い一定の音を、朝の光がカーテンの縁に滲むまで、ずっと、聞いていた。
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翌朝、俺は、母に電話をかけた。
判決のあと、こちらからかけるのは、初めてだった。
「……そっちに、しばらく、帰ってもいいかな」
言ってから、俺は自分の声を、少し聞き直した。昨夜のような感覚は無く、普通に自分の声として響いた。
母は、一度、短く息を吸ったあと、
「うん。いつでも、おいで」
と、静かに答えた。
短い会話だった。それ以上のことは、母は聞かなかった。
この部屋に、これ以上、一人でいるのは、まずい。まずいと思える今のうちに、動かなければならない——その感覚だけが、確かに、俺の中に芽生えていた。
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「先方の準備書面が届きました。判決の約一か月前、吉田さんが親しい知人に対して、『あの男は、たとえ法が届かなくても、私は赦さない』と発言していた事実が、相手側の把握するところとなっています」
第三回期日の前日、近藤先生からの電話にでた私の受話器を持つ手が、止まった。
「……千恵さんという友達の家で、言った言葉です」
「はい。先方は、この発言から判決後の法廷での発言までを、計画的・意図的な名誉毀損行為の一本の線で結ぼうとしてきます」
私は千恵さんの顔を、頭の中で一度だけ思い浮かべた。お茶のテーブルで、何も言わずにうなずいてくれた、あの一瞬。
「千恵さん本人が、相手側に伝えたとは思えません」
「私もそう思います。ただ、千恵さんが別の方に心配して話され、その方がまた別の方へ——いくつかの段階を経て届いた可能性はあります」
通話を終えたあと、受話器を置いたまま、しばらく動かずにいた。
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翌日、第三回期日の朝は、二月の末の、空気が研ぎ澄まされるような冷たさだった。
裁判所の門の前には、第二回期日からの動きが報道で広く扱われたためか、傍聴を求める一般の人の列も、いつもより長く伸びていた。私は、足を止めずに、いつもの手順で門をくぐった。
法廷に入る廊下で、先方の一行が目に入った。
篠田の姿は、三週間前と比べて、少し違って見えた。頬のこけ方は同じ。髭の剃り残しは今日も丁寧に整えられている。それでも、表情のどこかに、わずかな疲労の層が、増えていた。目の奥のあの薄い膜のようなものが、今日は、層というには、もう少し厚みを持っていた。
傍聴席の後方の端に、今日も、坂口さんの姿があった。私が席に着く前、傍聴席を横目で一度だけ見た時に、坂口さんの視線がまっすぐこちらに向けられていた。
裁判官が入廷し、着席の後、手続きが始まった。
冒頭、近藤先生が立ち上がり、「準備書面、陳述します」と告げた。提出済みの書面の内容が、ここで「陳述されたもの」とみなされる。
近藤先生は、続けて、口頭で短く補足を述べた。
「準備書面の要旨を、簡潔に申し上げます。発言者の責任は、原則として、自らが直接関与した範囲に限られます。被告吉田直子氏が直接行ったのは、判決の日に法廷の通路で言葉を発したこと——その一点のみです。発言後の拡散は、すべて第三者の行為であり、被告の責任の範囲ではありません。原告側が主張する予見可能性については、判決直後の通路という極限的な状況下において、客観的予見可能性の概念を一律に適用することの妥当性を、書面で詳しく論じております。詳細は準備書面に記載の通りです」
近藤先生は、軽く一礼して、着席した。
補足は、短かった。書面で十分に展開してあるという判断の通り、口頭での主張の重ね方を、近藤先生は意図的に抑えていた。
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次に、岡本弁護士が立ち上がった。
「原告代理人、準備書面を、陳述します」
岡本弁護士の声は、いつも通り、淡々としていた。
「準備書面の要旨を、簡潔に申し上げます」
裁判長は、軽くうなずいた。
「被告側の反論については、書面で確認させていただきました。当方は、ここで、本件のさらなる争点を、提示いたします」
岡本弁護士は、書面のページを、一枚めくった。
「被告吉田直子氏の発言は、形式上は『あなたがもし嘘をついているなら』という条件節を含んでおります。文字通りに読めば、原告が嘘をついているかどうかを断定していない、仮定の中の話とも読めます。しかし、当方は、この発言を、形式論ではなく、実質論において評価するべきだと考えております」
「実質的に何が行われたか——条件節の形式を取りながら、原告を嘘つきとして社会に名指す効果を持つ発言が、行われたのであります」
岡本弁護士の声は、抑えた調子のままだった。抑えているからこそ、書かれてある内容の輪郭が、傍聴席の端まで、はっきりと運ばれていった。
「この実質的な性質を補強する事実として、当方は、被告が判決の前から相手に対して敵意を抱いていた、という事実を提出いたします」
岡本弁護士は、別のページをめくった。
「具体的には、被告は、判決の約一か月前、親しい知人に対して、『あの男は、たとえ法が届かなくても、私は赦さない』と発言していた事実が、確認されております」
——あの男は、たとえ法が届かなくても、私は赦さない。
岡本弁護士の口から読み上げられた、私自身の言葉。
「この発言から、判決後の法廷での発言に至るまで、約一か月の時間が経過しております。当方は、この一か月を、被告が『赦さない』という意図を温め続けていた期間と評価いたします。判決の日の発言は、一か月にわたる意図の成熟の上に、用意周到に発せられた、計画的な名誉毀損行為であります」
私は、正面の裁判官の席のあたりを、見ていた。
言われていることの一つ一つに、反論したい点があった。「意図を温め続けていた」「意図の成熟」というのは、私の内面の動きの正確な記述ではない。あの一か月、私は『赦さない』という気持ちを、積極的に温めていたわけではなかった。
しかし、この内心を、今ここで発する必要はなかった。近藤先生の指示通り、表情を変えずに、正面を向いていた。
「加えて、発言の構造そのものが、計画性を裏付けます。条件節、主体の置き換え、期限の設定——これらの整った構造は、時間をかけた事前の論理構成を経たうえで、発せられた発言であります」
岡本弁護士は、書面を閉じた。
「以上の事由により、当方は、被告の発言が、条件節の形式を取りながら実質的には原告を嘘つきと名指す効果を持つ、計画的・意図的な名誉毀損行為であると主張いたします。詳細は準備書面に記載の通りです」
岡本弁護士は、軽く一礼して、着席した。
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近藤先生が、再び立ち上がった。
「被告側、一言だけ、申し上げます」
裁判長が、うなずいた。
「原告側の新たな主張については、こちらとしても反論の余地があると考えております。特に、判決前の知人への発言を、判決後の発言と一本の線で結ぶ論理について、また、発言の構造の整い方をもって計画性を推認する論理について——いずれも、次回以降の準備書面で、詳細に論じさせていただきたく存じます」
「承知しました」
裁判長が、書類を整えた。
「では、次回期日を定めます」
次回期日は、本人尋問の期日となる。原告本人と、被告本人が、それぞれ当事者として、法廷で尋問を受ける日。約一か月先、三月の末に指定された。
閉廷が告げられた。
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家に帰り着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
コートを脱ぎ、手を洗い、台所に立った。
湯を沸かし、茶を淹れ、仏壇に供えた。
手を合わせる。
──次は、私が、証言台に立つ日になります。
遺影に、短く伝えた。
リビングのソファに腰を下ろし、しばらく動かずにいた。まえに、車の中で、近藤先生に言われたことが、頭に残っていた。
──死ぬと、本当に思っていたか。
思っていた、と私は答えるつもりでいた。ただ、その「死ぬ」という言葉の意味が、何か別のものであるような気がしていた。今は、そのことを言えない。篠田が自白するまでは。言ってしまえば、呪いが解ける。




