銀の谷の泉に、愚かな精霊は眠る
銀の谷の奥には、小さな泉があります。
ミーアが恋に落ちてから、ミーアは度々この泉に通うようになりました。
泉にはかつて、人に恋をして眠ることを選んだ水の精霊が眠っています。
精霊が他の生き物に恋心を抱く、ミーアが知っている唯一の例外は、彼女でした。
けれどその彼女は、泉の中で眠ることを選びました。
そして、他の精霊たちが彼女を「愚かな精霊」と呼ぶことをミーアは知っていました。だからきっと、彼女の恋は実らなかったのだろうとミーアは思うのです。
「あなたの名前も、あなたの歌も、私は知らないわ」
ミーアは彼女にそっと呼びかけます。
この小さな泉に眠る彼女が、どんな恋をしたのか、知りたいものだと思いました。
けれどミーアがここに通うのは何も彼女の寝姿を眺めるためだけではありません。
ある日の夜のこと。
それは、ディアが歌を歌いにこない夜でした。
ミーアはその日も泉の前に来て、水面にうつる月をぼんやりと眺めていました。
そうして、知らず知らずのうちに恋しい名前を呟いたのです。
「・・・ディア」
「ミーア?どうしたの?」
すると、水鏡の中からディアの声が聞こえるではありませんか。
ミーアの毛は全身がぶわりと逆立っていましたが、ディアは何でもないことのように、古くからの親しい友にするように、ミーアに返事を返しました。
「ディア、あなたを呼んだら届いてしまったみたい」
「ああ、水鏡だね。月の光りが届くところからなら、僕たちはそれを感じるから」
クスクスと笑いながら、ディアの声が一層甘くなったようにミーアは感じました。
「それよりもミーア、僕の名前を呼んだの?嬉しいな」
「・・・呼んだわ。私、あなたが好きだもの」
ミーアはそう言ってクスクスと笑いました。丁寧に毛づくろいをしながら、するりとそう答えている自分に驚いて、でもやっぱりこれはとても楽しいことだと思い直したのです。
「ディア、私はあなたが好きよ。知ってるでしょう?」
「・・・僕と君の間には大きな隔たりがある」
「ええ、そうね。でも、好きなんだもの。困るならもう言わないけれど」
「困りはしないよ、ありがとう」
ディアを熱心に見つめるミーアの視線の熱さに、ディアの声にとろけて、しどけなく横たわるミーアの姿に、気付いていないはずがないとミーアは知っていました。
「君は、勇敢な猫だね」
「ええ、そうよ。とびきり素敵な猫なの。好きになってくれた?」
「素敵だと思ってるよ、それは本当」
「ふふ、ありがとう」
ミーアは、自分が水の精霊よりも愚かな道を選ぼうとしているとわかっていました。
「時々、こうして話しかけてもいい?」
「いつでも答えられるわけじゃないけど、話しかけてくれるのは嬉しいよ」
これは終わりのない夢かもしれないし、悪夢かもしれない。
どちらでも良いわ、とミーアは思いました。
苦しむことも、悲しむことも、それがミーアがディアにした恋でした。
ミーアは全てを、覚えていたかったのです。




