第4話 白い結婚へ
『――愛花』
誰かが呼ぶ声。
優しさの中に、強さがある声。
『必ず、迎えに行くから――』
その声をかき消すように、赤ん坊の泣き声が重なる。
苦しくて、胸が引き裂かれる。
お願い、返して。
私の大切なもの。
必死に手を伸ばした――。
その瞬間、まぶたを刺すような、白い光が視界を埋め尽くした。
「お願い返して!」
思わず叫んだ。
馬車の揺れと、窓の隙間から吹く冷たい風。
ここは……どこ?
「お目覚めですか?」
柔らかな声に視線を上げると、優しそうな女性がいた。
「うなされていましたね。ご気分が悪いのではないでしょうか?」
「えっと……、だれ?」
かすれた声で問い返した瞬間、女性のまつげが震える。
「冗談にしては、おもしろくありませんわ。アリアンディ様」
彼女はふわりと微笑んだ。
「アリ……アン……?」
「顔色がすぐれませんね」
胸の奥がひどく痛かった。
失いたくなかった何かを、置いてきてしまったような――そんな感覚。
涙を流していた気がする。
誰かを呼んでいた気がする。
なのに、どうしても思い出せない。
「喉が渇いたでしょう、お茶を淹れましょうね」
銀のポットから湯気の立つお茶を注ぎ、カップをそっと差し出してくれる。
「カモミールティーです。心が落ち着きますよ」
温かいカップを両手で包み込む。
すーっと、カモミールの香りが鼻から胸へ、指先まで染みていく。
ひと口ふくむと、ほっと息が漏れた。
――懐かしい。
なぜか、そう思った。
この香りを、私は知っている。
けれど、どこで嗅いだのか思い出せない。
霧の中に取り残されたようで、名前も状況もすべてがぼんやりしている。
「もうすぐ、マルゼンダ領に入りますね」
彼女の声に促され、窓へ視線を向けた。
――ガラスに映った自分の姿に、息を呑む。
栗色の髪、吸い込まれるような赤い瞳、白磁のような肌。
まるで絵画から抜け出したように整っている。
これ……私よね?
見慣れているはずなのに、どこか他人を見るような感覚がある。
――ガタン!
馬車が大きく揺れ、手の中からカップが滑り落ちた。
「きゃ!」
「アリアンディ様!お怪我はありませんか?」
衝撃と同時に、頭の奥で何かが弾ける。
霧が裂けるように、記憶が一気に流れ込んできた。
豪奢な屋敷、広い庭園。
厳格な父、優しい母、そして穏やかな兄。
華やかな舞踏会。
「え、ええ。大丈夫よ」
そうだ。
私は――。
アリアンディ・カラード。
22歳、ポーラディア侯爵家の長女。
今日は、マルゼンダ伯爵家へ嫁ぐ日だ――。
「すみません、道が悪くて」
御者が叫び、馬車が再びゆっくりと走り始める。
「ああ、モズリン。さっきは寝ぼけてしまって、ごめんなさい」
私の向かいに座る女性は、オランジ子爵夫人。名前はモズリン。
幼い頃からそばにいてくれた私の侍女。
字の書き方も、礼儀作法も、貴族社会のすべてを教えてくれた。
姉のように慕う大切な人を、一瞬でも忘れていたなんて。自分でも信じられない。
「夢を見ていたの」
「あら、どんな夢でしたか?」
「覚えていないわ。……さみしくて、かなしくて。大切なものを失くしてしまったような、そんな気がするわ」
内容は思い出せないのに、胸の奥だけがじんと熱い。
泣きたいような。
誰かに会いたいような。
言葉にできない感情が、胸の内で静かに渦巻いていた。
「結婚式は明後日です。ナイーブになるのは当然のことです」
「ええ、そうね」
モズリンは安心させるように微笑む。
私は曖昧に笑い返しながら、再び窓の外へ視線を向けた。
外の景色は、育った侯爵領の穏やかな丘陵と違って、マルゼンダ領は背の高い針葉樹が続く。
深い森と灰色の岩肌。
生まれ故郷とはまるで別世界だ。
「マルゼンダ領は軍事貴族の土地です。伯爵家も厳格な統治で知られています。ポーラディア領とは、色々と異なるでしょうね」
モズリンの説明に、胸がふわりとざわめく。
期待――それとも緊張?
名前のつかない感情が、胸の奥で静かに揺れた。
これから始まる結婚生活。
相手はどんな人なのだろう。
政略結婚である以上、恋愛感情など期待してはいけないと分かっている。
「アリアンディ様。領都の門でございます」
馬車が止まると、扉が開かれた。
冷たい風が頬を撫でる。
「ようこそ、マルゼンダ領へ」
伯爵家の紋章を付けた騎士長が頭を下げる。
後ろにも何人もの騎士が控えていた。
仰々しいお出迎えだけれど、歓迎はされているのだろうと解釈する。
「アリアンディ・カラード様。お迎えに参りました」
「ご苦労様です」
そのとき――。
なぜか、後ろにいたひとりの男性に視線が引き寄せられた。
黒髪の整った顔立ち、鋭い眼差し。
なぜか目を離せない。
周囲の騎士たちとは違う空気を纏っている。
一瞬だけ、目が合った。
かすかに口元が緩んだような気がした。
「……っ!」
どうしてこんなに胸がざわつくのか。
まるで、ずっと前から知っていた人を見つけたみたいに。
「あと、どのくらいで着きますか?」
思わず声をかける。
「日が暮れる前には、到着しますよ」
短い返答。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「あの、どこかでお会いしたことが?」
私の問いに、彼は目を細めた。
「さぁ……どうでしょうね」
そのとき、ふわりと風が吹き込む。
カモミールの香りが、再び鼻先をかすめた。




