第3話 私はいらないひと?
『家族みんなで一緒に暮らしたいわね』
愛美を妊娠していたとき、姑はよくそう言っていた。
『でも、アパートの更新したばかりだし……ね、政人?』
『んー、まぁ』
この姑と同居なんて絶対に嫌だと、顔がひきつるのをこらえるのに必死だった。
――家族。
そうか。
姑のいう「家族」の頭数に、私は入っていなかったのか。
肌寒い秋の夜、再び自転車で夜風を切った。
静かな住宅街の片隅に、小さながらも庭付きの戸建てが佇む。
政人の実家だ。
ピンポーン。
呼び鈴の音だけが虚しく響く。
何の反応もない。だが、耳を澄ませば、人の気配があるのが分かる。
ピンポーン、ピンポーン。
何度か押したインターホン。数分が永遠のように感じられた頃――、
「なにかしら?」
ほんのわずかな隙間から聞こえる姑の声は、心底面倒そうだった。
「愛美を返してください」
必死に冷静を装ったが、声の震えまでは隠せなかった。
「あら、離婚届を見なかったの?」
「一方的な離婚届は、絶対に受け入れられません。夫婦でちゃんと話し合います」
怒りに流されそうになる心を必死で抑える。
娘のために、ここは冷静でいなきゃいけない。
「政人さんを呼んでください」
「政人はあなたに会う気はないわ。さっさと帰ってちょうだい」
「では、愛美だけ連れて帰ります。ドアを開けてください」
語気を強め、ドアを引く。
しかし、無情にもチェーンの金具が擦れる音が耳に刺さるだけ。
「開けてください!」
焦りと悔しさが入り混じり、思わず声を張り上げる。
静かな住宅街に、私の声だけが響いた。
「近所迷惑よ。警察呼ぶわ」
「構いません」
「は?」
「未成年の子を一方的に連れ去るのは、たとえ父親でも犯罪です。困るのはどちらでしょうか?」
姑の顔がわずかに歪む。
「呼ぶならどうぞ。ご判断はお任せします」
「はぁ……」
姑はわざとらしくため息をは吐いた。
「嫁は、少し抜けているくらいが可愛いって言うけど、あなたは本当に可愛くないわねぇ」
「賢くてすみません」
「まったく!」
姑はいわゆる教育ママだった。
長男の政人を有名大学に入れるため必死だったらしい。
自慢の息子より名の知れた大学を出た私が、ずっと気に入らなかったのだ。
政人の歪んだ気質の根本は、この母親であると痛いほど理解している。
そして、息子は大人になった今も、母親の支配下から逃れられずにいる。
「早く離婚届にサインをして、役所に持って行きなさいよ
!」
政人を救えなかったのは、私が未熟だったからか――?
「たとえ離婚をすることになっても、親権は譲れません。娘は私が守ります!」
「守る?偉そうに。あのね、生後間もない赤ちゃんを置いて仕事復帰して、家族の時間も取れない母親が守るですって?」
姑の口角が勝ち誇ったように釣り上がる。
「職場への復帰は、夫婦で話し合って決めました!」
どちらかと言えば、政人が早い復帰を望んだのだ。
『家族のために、金は必要だからな』
私は大手コンサルティング会社に勤めていた。重要な案件があるため、育児休暇は半年たらずにし、早期復職をしたばかりだった。
「今日だって、休みなのに子供置いて出かけたんでしょう?」
「それは、政人さんが『たまには息抜きしておいで』って言ってくれたからです!」
今思えば、私を家から出すための都合のいい口実だったのだろう。
まんまと、罠にはまってしまった。
「あなた、ご実家は頼れないでしょう?お父様は他界、お母様はパート勤め。たったひとりで、幼い愛美を守れるの?」
確かに、日本の裁判では『子供にとって安定した環境』が重視される。
親権争いになったら、私が不利なのは間違いなかった。
「……だとしても、諦めません!」
ここにいても何も進まない。
一刻も早く娘を抱きしめたいのに。
「政人!出てきなさいよ!」
「こ、声が大きいわよ!」
「いつまでママの言いなりなの?父親として恥ずかしいわ!」
お願い。
少しでも私を愛していたなら――どうか応えて。
「政人!」
返事はなかった。
もう、ダメなの?
私たち――。
「愛美!」
娘の名前を叫んだ瞬間、奥から高い泣き声が響いた。
「オギャア!アア!」
私の声に呼応するように泣いている。
私を――ママを呼んでいる。
「ここを開けてください!」
ドアをガンガン揺すった。
「愛美!ママはここにいるよ!」
「や、やめなさいよ!」
次の瞬間、腹部に鋭い痛みが走った。
「きゃっ!」
ほうきの柄でドアの隙間から突かれたのだ。
よろめき、尻もちをつく。
落ちたカバンから、おしゃぶりが転がった。
小さなケースが、スローモーションのようにドアの隙間へ吸い込まれた。
「あっ……!」
その先に見えたのは、小さな女性物の靴。
見覚えがある。
政人の幼なじみのものだった。
『本当はあの子が政人のお嫁さんになるはずだったのよ。子宮の病気で子供が産めなくて、かわいそうにね』
姑が言っていた言葉を思い出す。
――そうか。私は『ただ産むための道具』だったのだ。
「あら、あなたにしては気が利くわねぇ」
姑が嘲笑する。
「おしゃぶりを忘れて困ってたのよ。これさえあれば、愛美も泣かないわね」
そして、決定的な言葉を落とした。
「あなたはもう、不要です」
バタン。
ドアが閉まる音は、私の心に永遠の鍵をかけた。
政人は最後まで、姿どころか気配ひとつ見せなかった。
ふらふらと立ち上がり、歩き出す。
帰る場所なんて、もうどこにもないのに。
――最初から、白い結婚だったのだ。
白い。真っ白な――。
耳をつんざくブレーキ音。
顔を上げる。
車のヘッドライトって、こんなに……真っ白なんだ。
「キレイね」
場違いな感想が浮かんだ。
ドンッ!!
不思議と痛みはなかった。
――もう、いいや。
愛美が健やかに育ってくれれば、それでいい。
でも、あの家族のもとで……?
ああ、やっぱり。未練だらけね、私。
『大丈夫、約束するよ――』
遠くから声が聴こえた。
そして、意識は白い光に溶け――静かに消えた。




