第2話 娘を奪われた夜
アパートの玄関の前、どうしてか嫌な予感がした。
「ただいま」
鍵を開けると、玄関は真っ暗だった。
短い廊下の先、いつもならリビングの扉越しに漏れる光もない。
妙な沈黙が、まとわりつくように重く感じられる。
「政人? いないの?」
夫の名前を呼んでも返事はない。
外はすっかり夜の気配。秋は日が暮れるのが早い。
『17時までには帰るからね』
私はそう言って家を出た。
約束の時間に少しでも遅れると政人の機嫌は最悪になる。
最寄り駅に着いたのは16時30分。そこから自転車を全速力で漕いで帰ってきたのに――。
久しぶりに会った友人とランチをして、日頃の愚痴を聞いてもらったばかりだった。
楽しかった気持ちが、一瞬で冷える。
『そんなモラハラ夫、離婚しなよ』
友人の言葉が頭をよぎった。
政人は日頃から私への言動がきつく、家事も育児もほとんどしない。『モラハラ夫』と言われても仕方がない。
「まーちゃん、ママ帰ったよ」
娘の名を呼ぶ。
寝返りができるようになったばかりで、コロコロ転がって笑ってくれるはずの娘。
その姿が、どこにもない。
また義実家に行っているのだろうか――そう思いたかった。
けれど、胸騒ぎだけがどんどん大きくなる。
リビングの電気をつける。白い蛍光灯の光が、空っぽの部屋を冷たく照らした。
空っぽのベビーベッド。ウサギの布団はめくれたまま。
そっと手を当てると、すっかり冷え切っている。
枕の横には、小さなおしゃぶりが転がっている。
「……おかしい」
娘の愛美はのお気に入りなのに。
数週間前のことを思い出す。
愛美の夜泣きがひどかくて、正人の機嫌はすこぶる悪かった。
『うるせぇな』
怒鳴って出て行った政人だったが、30分ほどして帰宅した。
深夜まで開いているドラッグストアで買った、おしゃぶりを持って……。
愛美はおしゃぶりのおかげですぐに眠り、政人は頭を撫でながら『良かったなぁ』と笑った。
その顔は、本当に嬉そうだった。
色々あっても、小さな幸せを感じた瞬間だった。
そのおしゃぶりが、床に転がっているなんて。
部屋の空気の異様さ。違和感しかない部屋。
まるで、ここだけ別の世界みたいだった。
「なに……、これ」
ダイニングテーブルの上に、1枚の紙が置かれていた。
その白さが視界に飛び込んだ瞬間、心臓が凍りつく。
『離婚届』
几帳面で神経質な、見慣れた政人の字と、保証人欄には義両親の名前が並んでいた。
――ああ、これはもう、あちらの家族総出の計画なのか。
紙を丸めて壁に投げつけた。
乾いた音が、静かな部屋に響く。
もう一度、部屋中を確認する。
なくなっているもの――。
通帳、カード、印鑑、娘の母子手帳、姑が買ったおもちゃとベビー服。
残されているもの――。
家計簿、アパートの賃賃契約書、光熱費の請求書、私が買ったおもちゃとベビー服。
「……やられた!」
騙された。裏切られた。
最初から、そのつもりだったんだ。
怒りより先に、絶望が胸を抉る。目の前が真っ暗になった。
「返して……!」
掠れた声が漏れる。
そこにいるはずの娘の温もりが、どこにもない。
私は闇の中へ――アパートを飛び出した。




