第1話 幸せな朝と、忘れていた絶望
〈登場人物〉
■ アリアンディ(前世:愛花)22歳
前世で娘を奪われ最期を迎えたが、異世界で侯爵令嬢に転生。
気品と優しさを併せ持つが、内側には強い芯がある。
前世ではコンサルティング会社勤務しており、今世でも実家の領地経営に携わる才女。
■ カシスタン・ルートベア 26歳
黒髪・黒瞳の端正な貴族。『黒曜の騎士』として名高い。先の戦争では騎士として活躍し、武功を納めて辺境伯となった。
冷静で品格があるが、アリアに対しては甘く深く愛情を注ぐ。オリフタンの異母兄弟。
■ オリフタン・マルゼンダ 25歳
アリアの婚約者。母の支配下で育つ。
前世の夫・政人と重なり、アリアのトラウマを刺激する存在。
■ マルゼンダ伯爵夫人
病床の伯爵に代わり、領地を支配する毒母。
表向きは上品だが、内面は強欲で支配的。
■ モズリン・オランジ(オランジ子爵夫人)
アリアの侍女。幼いころから教育係としてそばにいる。
姉のような存在で、アリアを必死に守ろうとする心優しい女性。
■ ラティエル(愛美)
アリアがカシスタンとの間に授かる娘。
前世の娘・愛美の魂を継ぐ存在。
――幸せすぎて、怖くなる時がある。
朝霞を溶かすように、ゆっくりと目を開ける。
柔らかな羽毛布団の温もりと、背中に回された大きな腕。
誰かに抱きしめられていることに気づき、自然と頬が緩んだ。
「……おはよう、アリアンディ」
耳元に落ちてきた低い声に、胸がきゅっと甘く震える。
「おはよ、カシスタン」
振り返れば、至近距離に整った顔立ちがあった。
黒曜石のような瞳。さらりと流れる黒髪。
朝の光を浴びたその姿は、神話に登場する騎士のように美しい。
「眠そうなその目も可愛いな」
くす、と笑ったカシスタンが、寝巻の肩口へそっと唇を落とす。
熱を持った吐息が肌を撫で、ぞくりと背筋が震えた。
「朝から、そういうのは……」
「君が起きるのを、ずっと待っていたんだよ」
甘やかな囁き。
長い指先が腰をなぞり、くすぐるように触れてくる。
「あっ……ん、もう!」
抗議しているはずなのに、声が少し甘くなってしまう。
そんな私を見て、カシスタンは楽しそうに目を細めた。
「可愛い」
「からかわないでください……」
胸の奥が、じんわりと溶けていく。
愛されている。
大切にされている。
その事実だけで、涙が出そうになるほど幸せだった。
「ふにゃ」
小さな声がして、私たちは同時に窓際を見た。
白いベビーベッドの中で、小さな女の子が寝返りを打っている。
柔らかな薄茶色の髪が朝日を受け、きらきらと輝いていた。
「ラティエルが起きちゃうわ」
「まだ夢の中だよ。でも、声は控えめにしないとな」
カシスタンは笑いながら、私の頬へ軽く口づける。
その仕草があまりにも自然で、愛情に満ちていて、胸が熱くなった。
――ラティエル。
私たちの大切な娘。
「……幸せすぎて、怖くなる時があるわ」
ぽつりと零れた言葉に、カシスタンが顔を上げた。
迷いも疑いもない真っ直ぐな瞳が、私だけを映している。
「こんな幸せがあることを、前世の私に教えてあげたい」
「愛花に?」
静かな問いかけに、私はゆっくりとうなずいた。
――愛花。それは、かつての私の名前。
「……アリアンディ、愛している」
「私もよ。あなたがいなければ、私は今世でもわが子を失っていたかもしれないわ」
胸の奥がじわりと熱くなる。
もう一つの人生。
あの頃の傷は今も心の奥に残っている。
忘れることはできない。
「君の前世も、これからの未来も、全部まとめて永遠に愛すると誓おう」
その言葉だけで、涙が滲みそうになる。
過去ごと愛されるなんて、昔の私には想像もできなかった。
「ほら、泣かないで」
「……泣いてなんかないわ」
「嘘だな、目が赤い」
優しく笑ったカシスタンが、額に口づける。
まるで壊れ物を扱うみたいに、大切に。
「ずっと、そばにいるから」
カシスタンの指先が、そっと頬を撫でた。
「どうか、離さないで――」
カシスタンが静かに目を細めた。
そして、逃がさないように私の手を包み込む。
幸せな口づけ。そのすぐあと――。
カタンッ。
小さな物音に、私とカシスタンが同時に顔を上げる。
「おや、ラティエルの大事なおしゃぶりが落ちてしまったな」
ベビーベッドから落ちがおしゃぶりが、床に転がっていた。
「あ、あぁ――!」
「どうした?アリアンディ」
カシスタンの声が遠く聞こえた。
「顔色が悪いな」
「私、あの光景をしっているわ」
「大丈夫だ、僕がここにいるから。ゆっくりでいい、聞かせてくれ」
「カシスタン」
真っ直ぐな声は、確かにすぐそばにある。
「君の不安も、苦しみも、全部受け止めたい」
優しい温度に導かれるように、私はゆっくり息を吸った。
「前世の頃の記憶なの……」
暗い部屋。冷たい床に転がる、小さなおしゃぶり。
そして。
『あなたはもう、不要です』
非常な声と、闇を引き裂くような真っ白い光――。




