第26話 モズリンとも別れ
カシスタンと2人、マルゼンダ伯爵の私室を訪ねた。
病床に伏せていたはずの伯爵は、ベッドに座り、以前より血色の良い顔をしていた。
隣には、信頼できる初老の執事が控えている。
カシスタンは伯爵を見て、安堵の表情を浮かべた。
「父上。顔色が戻られたようで、安心しました」
「カシスタン。アリアンディ。よく来てくれた」
伯爵の視線が私に向けられる。
その眼差しには、マルゼンダ伯爵夫人やオリフタン様から向けられていたものとは異なる、温かい光が宿っていた。
伯爵はカシスタンの顔をまっすぐ見つめ、深く頭を下げる。
「カシスタン、本当にすまない……。お前の母を守れなかったこと、そして、正統な跡継ぎであるお前を、あの若さでルートベアへ養子に出さざるを得なかったこと」
伯爵の声には悔恨がにじんでいた。
カシスタンは首を振り、伯爵の謝罪を静かに遮る。
「父上、おやめください。私は、父上が義母の魔の手から私を逃がすために、苦渋の決断をされたことを知っています。そうでなければ、私は今ここに立っていられなかったでしょう」
そう言うとカシスタンは静かに微笑んだ。その瞳の奥には、父への理解と感謝があった。
そして私の手を握り、伯爵に向かって続ける。
「あの時、ルートベアに行かなければ、私はアリアンディの魂を追う術も、力を得ることもできませんでした。彼女と出会い、こうして未来を共にすることも叶わなかったでしょう」
彼の言葉は、過去の苦しみを肯定に変えるものだった。
伯爵は目を見開き、深く頷いた。
「アリアンディ嬢、あなたのおかげで、カシスタンは救われた。私が長年病に伏せっていたことで、アリアンディ嬢にも大変な迷惑と苦労をかけてしまった。命を救ってくれて、心から感謝する」
「お気になさらないでください、伯爵様」
私が首を振ると、伯爵は小さく微笑んだ。
そして、静かに執事に目配せした。
「オリフタンも己の過ちと向き合い、更生することを誓った。今後はマルゼンダ領主として恥じないよう、生きて欲しい。愚かな男の願いだと、笑ってくれ」
「伯爵。私もオリフタン様も未来を案じております」
伯爵はふわりと笑った。
カシスタンに似た、優しい笑顔だった。
「カシスタンにとって、あなたは何より大切な存在だそうだ。2人の未来を心から応援したい。不甲斐ない老人にできるのは、見守ることだけだからね」
私はカシスタンを見上げた。
彼は私の手をそっと握り、力強く微笑んでくれる。
その時、私は1つの考えが浮かんだ。
「伯爵様、よろしければ、ひとつご提案がございます」
「ほう、何であろうか?」
「私の侍女、モズリンを伯爵様のお側に置いてくださいませ」
伯爵とカシスタンが、驚いたように私を見た。
「モズリンは長年、私を――いいえ、ポーラディアの復興を支えた陰の立役者です。真面目で聡明、素晴らしい女性です。伯爵様、そしてオリフタン様の支えになるはずです」
「しかし……」
「私にはカシスタン様がいます。これからは、尽くされるより、尽くしたいのです」
伯爵は静かに頷いた。
「アリアンディ嬢、貴女の心遣いに感謝する。モズリンには、今後もマルゼンダ家のために尽力してもらおう。もちろん、相応の待遇でな」
「ありがとうございます、伯爵様」
◆◆◆
出発のときがきた。
準備を終え、屋敷の門に向かうと、モズリンが立っていた。
「お嬢様……」
彼女の瞳は涙で潤んでいる。
「モズリン。最後まで私のわがままに付き合わせて、ごめんなさい」
「何をおっしゃいます。私の願いはお嬢様の幸せ、それだけです」
「ありがとう。あなたには本当に感謝しているわ」
私はモズリンの手を握りしめた。
誰より私を理解し支えてくれた、大切な人。
「どうか、お幸せに」
モズリンは深々と頭を下げ、微笑んだ。
「カシスタン様なら、安心してお嬢様をお願いできます」
「はい、おまかせください」
カシスタンが力強く答える。
「大好きよ、モズリン」
「ええ、私もです」
別れを告げ、カシスタンと共に馬車に乗り込む。
モズリンは笑顔で手を振っている。
いつまでも、遠く見えなくなるまで。
その笑顔は、前世で幼い私を温かく見守ってくれた、母の笑顔と重なった。
「まさか、ね」
「どうかした?」
「いいえ、なんでもないわ」
馬車に揺られながら、私は窓の外の景色を眺めた。
マルゼンダ領の重苦しい空気が、少しずつ薄れていく。
長い道のりを経て、私たちはルートベア領へ入った。
マルゼンダとは異なる自然豊かな景色が広がる。
雄大な山々に囲まれ、清らかな川が流れ、森は深く緑を湛えていた。
空気は澄み渡り、鳥のさえずりが心地よく響く。
街は華やかさこそないが、人々は穏やかで満ち足りた表情をしていた。
「おかえりなさいませ、旦那様。ようこそ、アリアンディ様!」
屋敷に到着すると、温かい歓迎を受けた。
「ここが僕らの部屋だよ」
「素敵な部屋ね」
「寒くはない?」
「ええ」
バルコニーに出ると、山からひんやりとした風が吹いた。
遠くには万年雪をいただく山々がそびえ立つ。
「見晴らしのいいバルコニーね。でも――」
「でも?」
「ここでは、移動はドアからがいいわ」
カシスタンは声をあげて笑った。その楽しげな声が山々に響き渡る。
「ああ、そうしよう」
カシスタンの手が私の頬を優しく包み込む。
愛おしそうに見つめ、囁くように言った。
「夜まで、待てないな」
「もうすぐ夕食だと、メイド長が言ってましたわ」
私の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込む。
「ダメかな?」
ダメだと、言えない自分が恥かしい。
否定も肯定もせずにいると、カシスタンは私を抱き上げた。
「こんなに自制のできない男だと、自分でも驚くな」
甘く独占欲に満ちた声が耳元で響き、全身が痺れるようでありながら、幸福を感じてしまう。
「カシスタン様……」
名を呼ぶと、彼は満足そうに微笑み、私を抱きしめた。




